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『ソルト』(2010)

スパイもの。007、MI、ボーン…スパイ映画というジャンルがあるのを初めて知った。
これはアンジェリーナ・ジョリーを見るための映画だろう。MIシリーズがトム様の活躍を目に焼き付けるのが目的であるように。スクリーンをまさに所狭しと動きまわる彼女の姿がかっこいい。全体的にも悪くないと思った。まず出だしだが…キーとなるエピソードを冒頭に置き、その終わりあたりで画面をフィルム上に切り取って赤いタイトルが浮かび上がる。序章という感じ。
先に挙げたように、スパイものは恐らく主役の活躍がメインディッシュなのだろう。政治的云々というのは二の次三の次と思われる。JFKの暗殺者がロシアのスパイだったという話も少し挿まれるが、これも本当に申し訳程度。さて本作の焦点となる主役・ソルトだが、彼女の活躍に面白みを与えている一つとして、その目的、意図があると思われる。そういう話で持っていこう。
彼女はいったい何のために暗躍しているのか。CIAのためか、あるいはKGBのためか。彼女の行動原理になるものが、次第に私的なものになっていくあたりで話はだんだんと面白くなってくる。この、微妙な揺れが、私にとっては、逃亡劇での派手なアクションよりも魅力的に思える。
未見の方には申し訳ないが、夫が殺された時の彼女の表情を思い出してほしい。唇と下あごが震え、今にも泣き出しそうになるところを、平然と視線を同志に向けて「満足?」と聞く。そのあとにも、報復として彼女は、きわめて冷静な表情で手榴弾を投げ、銃を同志たちに撃ちこむのだ。
つまりここでは「何をするか」よりも、「どうするか」という点が重要だと感じられる。
最後はさんざん盛り上げておいて、しかも終わりそうにない流れを見せておいて、本当に終わらせる気がなさそうな締め方になっている。あれで1話完結にしたら傑作にもなりうるのかもしれないが、本作はその選択を取らなかった。それはもっぱらアンジェリーナ・ジョリーの活躍をもっと見せるためだろう。次回作がどうなるか期待したいが、そこまでってわけでもないんだよな…。

スパイもの。007、MI、ボーン…スパイ映画というジャンルがあるのを初めて知った。
これはアンジェリーナ・ジョリーを見るための映画だろう。MIシリーズがトム様の活躍を目に焼き付けるのが目的であるように。スクリーンをまさに所狭しと動きまわる彼女の姿がかっこいい。全体的にも悪くないと思った。まず出だしだが…キーとなるエピソードを冒頭に置き、その終わりあたりで画面をフィルム上に切り取って赤いタイトルが浮かび上がる。序章という感じ。
先に挙げたように、スパイものは恐らく主役の活躍がメインディッシュなのだろう。政治的云々というのは二の次三の次と思われる。JFKの暗殺者がロシアのスパイだったという話も少し挿まれるが、これも本当に申し訳程度。さて本作の焦点となる主役・ソルトだが、彼女の活躍に面白みを与えている一つとして、その目的、意図があると思われる。そういう話で持っていこう。
彼女はいったい何のために暗躍しているのか。CIAのためか、あるいはKGBのためか。彼女の行動原理になるものが、次第に私的なものになっていくあたりで話はだんだんと面白くなってくる。この、微妙な揺れが、私にとっては、逃亡劇での派手なアクションよりも魅力的に思える。
未見の方には申し訳ないが、夫が殺された時の彼女の表情を思い出してほしい。唇と下あごが震え、今にも泣き出しそうになるところを、平然と視線を同志に向けて「満足?」と聞く。そのあとにも、報復として彼女は、きわめて冷静な表情で手榴弾を投げ、銃を同志たちに撃ちこむのだ。
つまりここでは「何をするか」よりも、「どうするか」という点が重要だと感じられる。
最後はさんざん盛り上げておいて、しかも終わりそうにない流れを見せておいて、本当に終わらせる気がなさそうな締め方になっている。あれで1話完結にしたら傑作にもなりうるのかもしれないが、本作はその選択を取らなかった。それはもっぱらアンジェリーナ・ジョリーの活躍をもっと見せるためだろう。次回作がどうなるか期待したいが、そこまでってわけでもないんだよな…。
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by murkhasya-garva
| 2010-08-17 23:21
| 映画
久しぶりに映画のはしご。
今回は『薔薇の名前』『ソルト』『魔法使いの弟子』。
昨夜は『借りぐらしのアリエッティ』。
少しずつ書いていく予定。長文だと気力が途中で萎えてしまうので。
『魔法使いの弟子』(2010)

『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズで有名なジェリー・ブラッカイマーの監督作品。ニコラス・ケイジをやっとまともに見られるようになってきた。なんせ初体験が『8mm』だったもので、あの糞映画の主演と思うと冷静ではいられなかったという。10年以上の呪いが解けたようです。
本作は、タイトルからして聞き馴染みがある。それが何だったかは忘れていて、あまりパッとしないものだから観に行かない方向で固まっていたのだけど、周りでは面白いという者が多数。盆休み最後の日の締めくくりに選んでみた。
実際に、面白かった。何も考えずに観ることができる。
少なくとも、昨日今日観た4本の中では最もエンタテインメイント的。考えてみれば、『パイレーツ~』でも人体風化シーンや粉末結晶化シーン、そして剣戟や一対一の掛け合いなどは多用されていたし、見どころにもなっていた。これだけを取り上げて言うのもあれだけど、彼一流の演出がやはり光っていたというか何と言うか。
古代の超常能力が現代に、というテーマはこれまでに結構出回っていた。ハリーポッターだってナルニア王国物語だってそうだ。上2シリーズもそうだけど、このテーマはどうやって今と昔をつなげるかが重要なようで、分かりやすく説明してくれているのがありがたい。本作もそうだ。冒頭数分で昔話はさらっと流し、本編にもっていくあたりがとてもテンポがいい。お決まりとさえ言っていいくらいのつなぎ方だけど、あれで中身の6、7割が説明されている。いい出だしだった。
内容も想像に難くない。ヒーローものを参考にすればあらかた予想がつく。しかし、最近は志厚い青年なんてのは流行らないんだなあ。オタク(そう呼ばせている)を使っているあたり、世相が変わっているようで非常に好ましい。ではオタクは何が違うのか。何度も言われていることだろうけど、当たり前のように掲げられてきた価値観ではなく、その本人がハマっているものが十分強みになりうる、という点。優柔不断で往生際が悪いんだけど、でも彼なりのこだわりが結果的に魅力になる、と。
言ってみればいかにもハリウッド的ではあるんだけど、男根主義(マッチョイズム)が多少やわらいできている風に見えるのが個人的には好き。
そして「魔法使いの弟子」と言えば、ディズニーのアニメ。あれは何度も見ていたけど、実際に使ってくれている。このシーンをみて、何年かぶりにディズニーの元ネタを思い出したのだった。あれには思わずうれしくなってしまった。
家族連れの鑑賞にお勧めの一本。濃いものを観たい方にはすすめませんが、分かりやすくて楽しくて、息抜きにはちょうどいい作品です。続編でない(ように見せている)のもいいですね。
今回は『薔薇の名前』『ソルト』『魔法使いの弟子』。
昨夜は『借りぐらしのアリエッティ』。
少しずつ書いていく予定。長文だと気力が途中で萎えてしまうので。
『魔法使いの弟子』(2010)

『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズで有名なジェリー・ブラッカイマーの監督作品。ニコラス・ケイジをやっとまともに見られるようになってきた。なんせ初体験が『8mm』だったもので、あの糞映画の主演と思うと冷静ではいられなかったという。10年以上の呪いが解けたようです。
本作は、タイトルからして聞き馴染みがある。それが何だったかは忘れていて、あまりパッとしないものだから観に行かない方向で固まっていたのだけど、周りでは面白いという者が多数。盆休み最後の日の締めくくりに選んでみた。
実際に、面白かった。何も考えずに観ることができる。
少なくとも、昨日今日観た4本の中では最もエンタテインメイント的。考えてみれば、『パイレーツ~』でも人体風化シーンや粉末結晶化シーン、そして剣戟や一対一の掛け合いなどは多用されていたし、見どころにもなっていた。これだけを取り上げて言うのもあれだけど、彼一流の演出がやはり光っていたというか何と言うか。
古代の超常能力が現代に、というテーマはこれまでに結構出回っていた。ハリーポッターだってナルニア王国物語だってそうだ。上2シリーズもそうだけど、このテーマはどうやって今と昔をつなげるかが重要なようで、分かりやすく説明してくれているのがありがたい。本作もそうだ。冒頭数分で昔話はさらっと流し、本編にもっていくあたりがとてもテンポがいい。お決まりとさえ言っていいくらいのつなぎ方だけど、あれで中身の6、7割が説明されている。いい出だしだった。
内容も想像に難くない。ヒーローものを参考にすればあらかた予想がつく。しかし、最近は志厚い青年なんてのは流行らないんだなあ。オタク(そう呼ばせている)を使っているあたり、世相が変わっているようで非常に好ましい。ではオタクは何が違うのか。何度も言われていることだろうけど、当たり前のように掲げられてきた価値観ではなく、その本人がハマっているものが十分強みになりうる、という点。優柔不断で往生際が悪いんだけど、でも彼なりのこだわりが結果的に魅力になる、と。
言ってみればいかにもハリウッド的ではあるんだけど、男根主義(マッチョイズム)が多少やわらいできている風に見えるのが個人的には好き。
そして「魔法使いの弟子」と言えば、ディズニーのアニメ。あれは何度も見ていたけど、実際に使ってくれている。このシーンをみて、何年かぶりにディズニーの元ネタを思い出したのだった。あれには思わずうれしくなってしまった。
家族連れの鑑賞にお勧めの一本。濃いものを観たい方にはすすめませんが、分かりやすくて楽しくて、息抜きにはちょうどいい作品です。続編でない(ように見せている)のもいいですね。
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by murkhasya-garva
| 2010-08-17 21:22
| 映画
現在、アラン・レネの2作品が京都みなみ会館で上映されている。『ヒロシマモナムール 二十四時間の情事』は5/24-30、『去年マリエンバートで』(HDニューリマスター版)は5/22-6/4。
今回は、2作品併せて感想を書くことにしよう。いずれも筋書きを追うには情感的で、無理にストーリーが云々というような言い方にこだわると、多くの要素を見失ってしまいそうな気分になってしまう。特に『去年~』は、以前蓮實重彦がどこかで論じていたのを思い出す。彼の文体は、今思えば非常に情感的で、論理立てることよりも自身が感じ取ったことを描写し尽くすことに重きを置いていたような気がする。少なくともこの作品に限って言えば、そのアプローチは正解だったのかもしれない。というよりも、アラン・レネの両作品が、情感という者に対して強いこだわりを持って作られていた、と言った方がよいのだろう。
『ヒロシマモナムール 二十四時間の情事』(1959)
いずれにせよ、一つずついこう。まずは『ヒロシマモナムール』について。広島のホテルの一室で、日本人男性とフランス人女性が肌を重ね合わせている。まさかこんなところで出会うなんて。あなたは私を殺し、幸せにする。また、彼女は続ける。私は見た、広島の姿を。しかし男性はこれに対して否定を重ねる。いや、あなたは何も見ていない。
何度も同じ文言を連ねて交わされるお互いの声は、詩句のようにも思える。しだいに、同じ言葉――たとえば「あなたは見ていない」という返答――は、異なる意味を持って響いてくる。
ヒロシマ、という場所は、世界大戦の終結を示す衝撃的な出来事が刻まれた記念碑的な意味をもって捉えられている。それは日本人だけではなく、少なくともフランス人にもだ。あの悲劇を忘れてはならない、と。女は、作中でこの出来事を恋愛に喩える。それは、自らのからだに刻みつけられるような衝撃そのものとして。しかし、その狂気にも似た出来事さえも我々は忘れ去ってしまう。無関心と忘却という形で。では、我々はどのようにしてゆけばよいのか?男女は途方もない言葉を交わし、少しずつこの問いへの答えを了解し合っていく。この答えに近づくヒントは、最後の会話に添えられている。あなたの名前はヒロシマ。君の名前はヌヴェール。
それまでお互いに名を呼び合うこともなかった2人が、最後にお互いを地名で呼び合うのだ。それぞれの地は、それぞれにとって馴染み深い場所だ。女にとってヌヴェールは青春時代を過ごし、もっとも狂気に近づいた場所。男にとってヒロシマは日本人としての位置付けを決定的なものとした場所として。しかし間違ってはならないのが、それぞれの地名を本人が自らに付けたのではないという点だ。ヌヴェールは男にとっての彼女の姿であり、ヒロシマは女にとっての彼の姿なのだ。どちらも、「あなた」という存在を忘れないため、単なる対象として風化してしまわないよう、記憶は幾重にもイメージとして重なり、それによって希薄だった出会いという出来事、時代という出来事、そして事件という出来事が、強烈に引き寄せられて血肉をもって現れるのだ。
反戦の意を込めて本作は作られた、と言ってもよいのだろう。ヒロシマという場で、愛が交わされ、その在り方を真摯に問うという作品が出来上がったことだけでも、本作は覚えておかれる意義があるのかもしれない。
『去年マリエンバートで』(1961)

次は『去年マリエンバートで』について。壮麗なバロック建築の建物で、人々は休暇を過ごしている。観劇、ゲーム、そしてお互いの会話を楽しみながら、時間が過ぎてゆく。その中で、2人の男女が語りあう。去年、あなたとここで出会い、駆け落ちするという約束をした。しかしあなたは1年待ってほしいと言ったではないか。女は覚えていない、そんなことは言っていない、と言い張る。男が偽っているのか、女が本当に覚えていないのか、最後まで会話が絡み続けていく。
かつて記憶に関して新しい視点を提示したのはプルーストだと言われているが、本作もまたその影響を受けているのかもしれない。そこまでプルーストについて知っているわけではないので、カジリだけ盛り込んでおこう。要は記憶の中で現実は作りかえられていく――「円熟する」ということを述べた人だ。本作でも同じ一連のせりふが繰り返し朗読される(はじめの部分だ)。また、断片的に挿入された言葉が、不意に誰かの口を借りて新たな意味を持って語られることもある。そして、男女の語らいの中でも、男の主張は何度も繰り返される。男が語る内容は少しずつ映像化されてゆくのだが、そこには何らかの改変かなされていく。別に、男がウソを意図的に盛り込んでいるわけではないようだ。しかし、それを聞いている彼女にとってその情景はしだいに変化してゆき、ついには彼女をパニックに陥らせるにまで至る。しかし、私が本作を見ていて感じた点がここに一つある。当り前のことなのだが、これは犯人探しの物語なんかではない、ということだ。つい、あの奇妙に細長い顔をした不気味な目つきの男が裏で糸を引いているのでは、などと疑ってしまいそうになる。そうではない。ごく丁寧に積み重ねられた言葉の中で、人は自身の現実を少しずつ変容させていく、という体験的な面にこそ本作には視点を向けて見るべきなのだ、と思う。
この作品で思い出されるのは、ゴダールのあの奇妙な音楽の断ち切り方や、『マルホランド・ドライブ』で登場した泣き女のシーンだ。現実がまるで作りもののように、当然のように思われていた流れを止め、突然立ち止まる。人々は彫像のように美しく、微動だにしない。美しさと奇妙さが同時に湧き立ってくる数々の場面は、とくに本作を思い出すときによみがえってくる。
考えてみれば、いずれも男女の愛を主題としたものなのだ。ただ、それぞれは変奏のなされ方が異なっており、アラン・レネの真意はさまざまな姿を取って表されている。恐らく『去年マリエンバードで』のほうが、より抽象的という点で複雑に要素が絡み合っているように思われる。これまでに数多くの映画評論家たちが語り尽くしてきたのだろう。いずれもが正しく、いずれかが正解というわけではない。それらを総合したものがこの作品たちの姿だとくらいに思ってもう一度観てみると、より面白みが増してくるのではないだろうか。
今回は、2作品併せて感想を書くことにしよう。いずれも筋書きを追うには情感的で、無理にストーリーが云々というような言い方にこだわると、多くの要素を見失ってしまいそうな気分になってしまう。特に『去年~』は、以前蓮實重彦がどこかで論じていたのを思い出す。彼の文体は、今思えば非常に情感的で、論理立てることよりも自身が感じ取ったことを描写し尽くすことに重きを置いていたような気がする。少なくともこの作品に限って言えば、そのアプローチは正解だったのかもしれない。というよりも、アラン・レネの両作品が、情感という者に対して強いこだわりを持って作られていた、と言った方がよいのだろう。
『ヒロシマモナムール 二十四時間の情事』(1959)

何度も同じ文言を連ねて交わされるお互いの声は、詩句のようにも思える。しだいに、同じ言葉――たとえば「あなたは見ていない」という返答――は、異なる意味を持って響いてくる。
ヒロシマ、という場所は、世界大戦の終結を示す衝撃的な出来事が刻まれた記念碑的な意味をもって捉えられている。それは日本人だけではなく、少なくともフランス人にもだ。あの悲劇を忘れてはならない、と。女は、作中でこの出来事を恋愛に喩える。それは、自らのからだに刻みつけられるような衝撃そのものとして。しかし、その狂気にも似た出来事さえも我々は忘れ去ってしまう。無関心と忘却という形で。では、我々はどのようにしてゆけばよいのか?男女は途方もない言葉を交わし、少しずつこの問いへの答えを了解し合っていく。この答えに近づくヒントは、最後の会話に添えられている。あなたの名前はヒロシマ。君の名前はヌヴェール。
それまでお互いに名を呼び合うこともなかった2人が、最後にお互いを地名で呼び合うのだ。それぞれの地は、それぞれにとって馴染み深い場所だ。女にとってヌヴェールは青春時代を過ごし、もっとも狂気に近づいた場所。男にとってヒロシマは日本人としての位置付けを決定的なものとした場所として。しかし間違ってはならないのが、それぞれの地名を本人が自らに付けたのではないという点だ。ヌヴェールは男にとっての彼女の姿であり、ヒロシマは女にとっての彼の姿なのだ。どちらも、「あなた」という存在を忘れないため、単なる対象として風化してしまわないよう、記憶は幾重にもイメージとして重なり、それによって希薄だった出会いという出来事、時代という出来事、そして事件という出来事が、強烈に引き寄せられて血肉をもって現れるのだ。
反戦の意を込めて本作は作られた、と言ってもよいのだろう。ヒロシマという場で、愛が交わされ、その在り方を真摯に問うという作品が出来上がったことだけでも、本作は覚えておかれる意義があるのかもしれない。
『去年マリエンバートで』(1961)

次は『去年マリエンバートで』について。壮麗なバロック建築の建物で、人々は休暇を過ごしている。観劇、ゲーム、そしてお互いの会話を楽しみながら、時間が過ぎてゆく。その中で、2人の男女が語りあう。去年、あなたとここで出会い、駆け落ちするという約束をした。しかしあなたは1年待ってほしいと言ったではないか。女は覚えていない、そんなことは言っていない、と言い張る。男が偽っているのか、女が本当に覚えていないのか、最後まで会話が絡み続けていく。
かつて記憶に関して新しい視点を提示したのはプルーストだと言われているが、本作もまたその影響を受けているのかもしれない。そこまでプルーストについて知っているわけではないので、カジリだけ盛り込んでおこう。要は記憶の中で現実は作りかえられていく――「円熟する」ということを述べた人だ。本作でも同じ一連のせりふが繰り返し朗読される(はじめの部分だ)。また、断片的に挿入された言葉が、不意に誰かの口を借りて新たな意味を持って語られることもある。そして、男女の語らいの中でも、男の主張は何度も繰り返される。男が語る内容は少しずつ映像化されてゆくのだが、そこには何らかの改変かなされていく。別に、男がウソを意図的に盛り込んでいるわけではないようだ。しかし、それを聞いている彼女にとってその情景はしだいに変化してゆき、ついには彼女をパニックに陥らせるにまで至る。しかし、私が本作を見ていて感じた点がここに一つある。当り前のことなのだが、これは犯人探しの物語なんかではない、ということだ。つい、あの奇妙に細長い顔をした不気味な目つきの男が裏で糸を引いているのでは、などと疑ってしまいそうになる。そうではない。ごく丁寧に積み重ねられた言葉の中で、人は自身の現実を少しずつ変容させていく、という体験的な面にこそ本作には視点を向けて見るべきなのだ、と思う。
この作品で思い出されるのは、ゴダールのあの奇妙な音楽の断ち切り方や、『マルホランド・ドライブ』で登場した泣き女のシーンだ。現実がまるで作りもののように、当然のように思われていた流れを止め、突然立ち止まる。人々は彫像のように美しく、微動だにしない。美しさと奇妙さが同時に湧き立ってくる数々の場面は、とくに本作を思い出すときによみがえってくる。
考えてみれば、いずれも男女の愛を主題としたものなのだ。ただ、それぞれは変奏のなされ方が異なっており、アラン・レネの真意はさまざまな姿を取って表されている。恐らく『去年マリエンバードで』のほうが、より抽象的という点で複雑に要素が絡み合っているように思われる。これまでに数多くの映画評論家たちが語り尽くしてきたのだろう。いずれもが正しく、いずれかが正解というわけではない。それらを総合したものがこの作品たちの姿だとくらいに思ってもう一度観てみると、より面白みが増してくるのではないだろうか。
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by murkhasya-garva
| 2010-05-31 00:17
| 映画
『馬頭琴夜想曲』(2006)

これまで多くの映画の美術監督を務めてきた木村威夫氏が、自ら監督として製作した作品。これが公開されたのは4年前。きらびやかなスチルに興味を引かれていたが、当時は見に行けず。今回は、京都みなみ会館の木村威夫特集の一つとして本作が上映されている。5/22まで。
冒頭、降りしきる雪の中に見える淡い緑の西洋建築。よく見ると作りものだとすぐ分かるのだが、それと合わせて降り続ける雪もまた作りもの感が強くて、見ようによってはフィルムの劣化にも映る。それともこの作りもの感、どうもパペットアニメーションっぽくないか、なんつて思いながらも一層幻想的な感じでまたいいなあ、とそんなのは序の口にすぎなかった。
その西洋建築は教会で、入口から出てくるのはシスター。まず彼女が生身の人間なのに驚く。舞台のようなしつらえ方は、鈴木清順監督の『オペレッタ狸御殿』(2005)のようでもある。これは「見せる」ために作られた舞台だなあ。リアリティとか関係ねえな。手描きの絵と切り出されたような小さなバレリーナ、そして異世界か紙芝居の世界を思わせる映像は、決して最新の技術を用いているわけではない。木村威夫その人が納得する方法だけを用いた、という感が次第に色濃く現れてくる。
内容も、そこまでストーリーが明確にされているわけではない。原爆体験をくぐりぬけて60年の歳月を過ごしたシスターの語りと、教会で育てられた少年の脚が奇跡によって治る物語が軸となり、鈴木清順ふんする“にせ予言者”の「ヨバネ」と山口小夜子ふんするザロメが馬頭琴をめぐってやりとりしている。何のこっちゃ、と思われるかもしれない。私の説明がまずいのもあるけど、実際をみてもよく分からない。
実験映画のようでもあり、木村監督が好きに作った映画のようでもある。私には後者がしっくりくる。カラフルな映像にサンプリング音のミックス、そしてストーリーもテーマもあまり明確にされない、とくると、普段、映画を見る視点を取りあえず脇に置かないといけなくなる。確かに、原爆や戦争の悲惨さを宗教的、特にキリスト教を土台にして訴えていると言えるのだけど、それよりもなによりも、これは木村威夫という人の想いをそのまま映像にしているんではないか、という考えが頭から離れない。
そういう意味では、よくできた作品だと思う。映画好きの学生が作るようなアリモノの素材ではなく、自分の納得のいくモノを使い、主義主張を抑えながらも最後まで徹底して自身のイメージを美しく描き切る。これこそプロなんだろう。しかし、それだけなのだ。あまり知らない人の自叙伝を読んだ時のような感覚だ。面白いんだけど、「で?」って言いたくなるような。ベテランに向かって失礼は承知だが、見ていて目が覚めてしまいました。あまりよくない意味で。。。

これまで多くの映画の美術監督を務めてきた木村威夫氏が、自ら監督として製作した作品。これが公開されたのは4年前。きらびやかなスチルに興味を引かれていたが、当時は見に行けず。今回は、京都みなみ会館の木村威夫特集の一つとして本作が上映されている。5/22まで。
冒頭、降りしきる雪の中に見える淡い緑の西洋建築。よく見ると作りものだとすぐ分かるのだが、それと合わせて降り続ける雪もまた作りもの感が強くて、見ようによってはフィルムの劣化にも映る。それともこの作りもの感、どうもパペットアニメーションっぽくないか、なんつて思いながらも一層幻想的な感じでまたいいなあ、とそんなのは序の口にすぎなかった。
その西洋建築は教会で、入口から出てくるのはシスター。まず彼女が生身の人間なのに驚く。舞台のようなしつらえ方は、鈴木清順監督の『オペレッタ狸御殿』(2005)のようでもある。これは「見せる」ために作られた舞台だなあ。リアリティとか関係ねえな。手描きの絵と切り出されたような小さなバレリーナ、そして異世界か紙芝居の世界を思わせる映像は、決して最新の技術を用いているわけではない。木村威夫その人が納得する方法だけを用いた、という感が次第に色濃く現れてくる。
内容も、そこまでストーリーが明確にされているわけではない。原爆体験をくぐりぬけて60年の歳月を過ごしたシスターの語りと、教会で育てられた少年の脚が奇跡によって治る物語が軸となり、鈴木清順ふんする“にせ予言者”の「ヨバネ」と山口小夜子ふんするザロメが馬頭琴をめぐってやりとりしている。何のこっちゃ、と思われるかもしれない。私の説明がまずいのもあるけど、実際をみてもよく分からない。
実験映画のようでもあり、木村監督が好きに作った映画のようでもある。私には後者がしっくりくる。カラフルな映像にサンプリング音のミックス、そしてストーリーもテーマもあまり明確にされない、とくると、普段、映画を見る視点を取りあえず脇に置かないといけなくなる。確かに、原爆や戦争の悲惨さを宗教的、特にキリスト教を土台にして訴えていると言えるのだけど、それよりもなによりも、これは木村威夫という人の想いをそのまま映像にしているんではないか、という考えが頭から離れない。
そういう意味では、よくできた作品だと思う。映画好きの学生が作るようなアリモノの素材ではなく、自分の納得のいくモノを使い、主義主張を抑えながらも最後まで徹底して自身のイメージを美しく描き切る。これこそプロなんだろう。しかし、それだけなのだ。あまり知らない人の自叙伝を読んだ時のような感覚だ。面白いんだけど、「で?」って言いたくなるような。ベテランに向かって失礼は承知だが、見ていて目が覚めてしまいました。あまりよくない意味で。。。
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by murkhasya-garva
| 2010-05-20 00:50
| 映画
『河内カルメン』(1966)
鈴木清順監督の作品が見たくなったんです。以前鈴木清順監督で見たのは『オペレッタ狸御殿』と、あと何か。どちらも意味不明にゴージャスでストーリーが見えなかったためしばらく敬遠していました。そこで京都みなみ会館では木村威夫特集を行っていて、『河内カルメン』(1966)、『けんかえれじい』(1966)、『刺青一代』(1965)、『肉体の門』(1964)、『馬頭琴夜想曲』(2006)の5本が挙げられています。
特に『けんかえれじい』が見たいんです。数年前、京都映画祭で『女番長ゲリラ』(1972)でつかみ合いのケンカを見て、すんごく面白かったのを思い出します。それに、北野武の『OUTRAGE』(2010)がそろそろ公開されるといいます。もう期待に胸がふくらみまくりです。
でも、今回は『河内~』と『馬頭琴~』を鑑賞。『河内~』はとても素晴らしかった。テンポのよさといい、野川由美子の美しい肢体といい、全体に流れる熱い情念といい、たまりません。野川由美子ふんする露子は河内から大阪へ、そして職や住処を変えるたびに姿が変わっていきます。きっぷのいい女の子からキャバレー店員へ。垢抜けなさが無くなって美しく咲いた華のように。かと思うとファッションモデルに転身し、さらには初恋の人と再開して慎ましやかな淑女になる。見事に変わっていくその姿、ともすればめまぐるしく変わるストーリーに振り回されそうになるのだけど、一貫して流れているのは露子という、女性の姿であり、情念だと思います。
随所にハッとさせられる演出がとても多く、こうくるか!と唸ってしまう。まずは最初の男・カンやんとの別れのシーンを挙げてみましょう。「カンやんが怒らへんかったらうち、出て行きづろなるやん」と露子が言うと、カンやんは背中を向けてぐっと押し黙り、一間おいて洗濯物を畳みながらわざわざ売り言葉を投げつけます。互いに情が移った者同士、ケンカ別れを演じながら涙を流す場面には胸打たれるものがあります。
他にもたくさん、思わずこちらが身を乗り出してしまうようなシーンがありました。作品全体の勢いのよさ、役者のエネルギーが直球で伝わってくるような作品です。めちゃめちゃ面白かった。こういう映画にはあまり言葉を加えるとやぼったくなるのが関の山なので、取りあえず未見の方は見ていただくとして、すでに見ている人はぜひ感想を教えて欲しいものです。

特に『けんかえれじい』が見たいんです。数年前、京都映画祭で『女番長ゲリラ』(1972)でつかみ合いのケンカを見て、すんごく面白かったのを思い出します。それに、北野武の『OUTRAGE』(2010)がそろそろ公開されるといいます。もう期待に胸がふくらみまくりです。
でも、今回は『河内~』と『馬頭琴~』を鑑賞。『河内~』はとても素晴らしかった。テンポのよさといい、野川由美子の美しい肢体といい、全体に流れる熱い情念といい、たまりません。野川由美子ふんする露子は河内から大阪へ、そして職や住処を変えるたびに姿が変わっていきます。きっぷのいい女の子からキャバレー店員へ。垢抜けなさが無くなって美しく咲いた華のように。かと思うとファッションモデルに転身し、さらには初恋の人と再開して慎ましやかな淑女になる。見事に変わっていくその姿、ともすればめまぐるしく変わるストーリーに振り回されそうになるのだけど、一貫して流れているのは露子という、女性の姿であり、情念だと思います。
随所にハッとさせられる演出がとても多く、こうくるか!と唸ってしまう。まずは最初の男・カンやんとの別れのシーンを挙げてみましょう。「カンやんが怒らへんかったらうち、出て行きづろなるやん」と露子が言うと、カンやんは背中を向けてぐっと押し黙り、一間おいて洗濯物を畳みながらわざわざ売り言葉を投げつけます。互いに情が移った者同士、ケンカ別れを演じながら涙を流す場面には胸打たれるものがあります。
他にもたくさん、思わずこちらが身を乗り出してしまうようなシーンがありました。作品全体の勢いのよさ、役者のエネルギーが直球で伝わってくるような作品です。めちゃめちゃ面白かった。こういう映画にはあまり言葉を加えるとやぼったくなるのが関の山なので、取りあえず未見の方は見ていただくとして、すでに見ている人はぜひ感想を教えて欲しいものです。
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by murkhasya-garva
| 2010-05-20 00:46
| 映画
最近観た映画の一つ。別媒体での(自分の)文章を部分的に改変、転用。横着して本当にすみません。
愛のむきだし(2008)

敬虔なクリスチャンの家庭に育ったユウは、ある出来事を境に神父の父に懺悔を強要され始める。父の期待に応えようと、懺悔のために毎日罪作りに励むうちに罪作りはエスカレートし、いつしかユウは女性ばかり狙う盗撮魔となっていた。そんなある日、運命の女ヨーコと出会い、生まれて初めて恋に落ちるが…。
この作品を今まで見ていなかったことに心から後悔している。なんという映画。あまりに濃密で、あまりに情感的。薄められた空気から匂いたつ、そのしじまのような、たとえばフランスの伝統的な、愛についての作品であったり、それに類した最近の作品群とは質を異にしている。そう、映画とは「作る」ものだったのだ。写実派とは一線を画すスタンスで、園子音監督は本作を生み出した。セリフが、まさに太い釘のように容赦なく突き刺さってくる。前半はエンタテインメント、後半が社会への主張。なんとまっすぐな言葉を投げつけるのか。まっすぐに言葉を投げつける術すら、我々のほとんどは知らない。彼は登場人物を演じる人々に渾身の演技を求め、作品へと向かわせる。彼らの体から、口からほとばしるエネルギーの塊は、狙いを定めて振り下ろされたハンマーのようにこちらへ向かい、そして私はさんざんに打ちのめされる。
本編では新約聖書の「コリント人への第1の手紙」13章があげられる。この詩句は私の最も愛する作品、クシシュトフ・キェシロフスキの『トリコロール 青の愛』でも歌詞にされている。ヨーコ(満島ひかり)はユウ(西島隆弘)に向かってそれを一気に謳うのだが、その向かう先に居るのは、実は観客/私であった。彼女の見開いた強い瞳に気圧されて涙があふれる。
思うに、彼の作品は緻密に計算されて作られているのだな、と感心してしまう。ほとばしるエネルギーを込め、食傷にならぬよう細かな配慮によって237分が刻み通される。この長さで、私は何度も観たいと、即座に感じた。多くの作品では、もし2度目を観ることがあっても前半で気が萎えてしまう。園監督は、複数の視点から出来事を思わぬ切り口で数回にわたって映し出す。登場人物のそれぞれに物語、ドラマがあり、ある種の深淵をそれぞれが持つところまで描き出す。ゆえに作品は作品としての魅力、リアリティを帯びるのであり、同時に作品としての分析的関心をも呼ぶことになる。そこでは明らかな演出さえも違和感なく、その場を作り出す効果的なツールとして役割を発揮する。役者の力もまた、そこに貢献しているのだろう。
ありていなリアクションではあるが、ユウが初めてサソリとしてヨーコに出会ったときに口をパクパクさせる。このコメディかリアリティか、というギリギリのバランス感覚は素晴らしい。このバランスが全編通して貫かれているからこそ、面白いのだ。何度観ても飽きない作品は、不思議な魔力を持っている。『愛のむきだし』という「作品」――この映画にこそ与えられるべき呼び名――は、脱会者のための手引きとして、まさにバイブルとして片手に持たれるべきである。
しかしどうしても、この年になると作中のメッセージや設定に共感したり、反発したりする度合いが強くなる。自身の考えが妙に固まってしまっているからだ。あまりに残念だ。妙に過剰な反応が、映画を見る目を曇らせる。もう一度、園子音という監督「が」作った「作品」を、全身で感じ取りたい。
これは必見。あまり映画を観ない知り合いたちが絶賛していたのだけど、実物を観て深く納得した。
愛のむきだし(2008)

敬虔なクリスチャンの家庭に育ったユウは、ある出来事を境に神父の父に懺悔を強要され始める。父の期待に応えようと、懺悔のために毎日罪作りに励むうちに罪作りはエスカレートし、いつしかユウは女性ばかり狙う盗撮魔となっていた。そんなある日、運命の女ヨーコと出会い、生まれて初めて恋に落ちるが…。
この作品を今まで見ていなかったことに心から後悔している。なんという映画。あまりに濃密で、あまりに情感的。薄められた空気から匂いたつ、そのしじまのような、たとえばフランスの伝統的な、愛についての作品であったり、それに類した最近の作品群とは質を異にしている。そう、映画とは「作る」ものだったのだ。写実派とは一線を画すスタンスで、園子音監督は本作を生み出した。セリフが、まさに太い釘のように容赦なく突き刺さってくる。前半はエンタテインメント、後半が社会への主張。なんとまっすぐな言葉を投げつけるのか。まっすぐに言葉を投げつける術すら、我々のほとんどは知らない。彼は登場人物を演じる人々に渾身の演技を求め、作品へと向かわせる。彼らの体から、口からほとばしるエネルギーの塊は、狙いを定めて振り下ろされたハンマーのようにこちらへ向かい、そして私はさんざんに打ちのめされる。
本編では新約聖書の「コリント人への第1の手紙」13章があげられる。この詩句は私の最も愛する作品、クシシュトフ・キェシロフスキの『トリコロール 青の愛』でも歌詞にされている。ヨーコ(満島ひかり)はユウ(西島隆弘)に向かってそれを一気に謳うのだが、その向かう先に居るのは、実は観客/私であった。彼女の見開いた強い瞳に気圧されて涙があふれる。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
(『聖書 新共同訳』より)
思うに、彼の作品は緻密に計算されて作られているのだな、と感心してしまう。ほとばしるエネルギーを込め、食傷にならぬよう細かな配慮によって237分が刻み通される。この長さで、私は何度も観たいと、即座に感じた。多くの作品では、もし2度目を観ることがあっても前半で気が萎えてしまう。園監督は、複数の視点から出来事を思わぬ切り口で数回にわたって映し出す。登場人物のそれぞれに物語、ドラマがあり、ある種の深淵をそれぞれが持つところまで描き出す。ゆえに作品は作品としての魅力、リアリティを帯びるのであり、同時に作品としての分析的関心をも呼ぶことになる。そこでは明らかな演出さえも違和感なく、その場を作り出す効果的なツールとして役割を発揮する。役者の力もまた、そこに貢献しているのだろう。
ありていなリアクションではあるが、ユウが初めてサソリとしてヨーコに出会ったときに口をパクパクさせる。このコメディかリアリティか、というギリギリのバランス感覚は素晴らしい。このバランスが全編通して貫かれているからこそ、面白いのだ。何度観ても飽きない作品は、不思議な魔力を持っている。『愛のむきだし』という「作品」――この映画にこそ与えられるべき呼び名――は、脱会者のための手引きとして、まさにバイブルとして片手に持たれるべきである。
しかしどうしても、この年になると作中のメッセージや設定に共感したり、反発したりする度合いが強くなる。自身の考えが妙に固まってしまっているからだ。あまりに残念だ。妙に過剰な反応が、映画を見る目を曇らせる。もう一度、園子音という監督「が」作った「作品」を、全身で感じ取りたい。
これは必見。あまり映画を観ない知り合いたちが絶賛していたのだけど、実物を観て深く納得した。
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by murkhasya-garva
| 2010-05-06 00:32
| 映画
アリス・イン・ワンダーランド(2010)

幼い頃に妙な生き物が出る夢をよく見ていたアリス。あれから成人した彼女は、またあの白ウサギが飛び跳ねているのを目にする。アリスは再び白ウサギを追い、「不思議の国」へと旅立つのだが…
不思議の国のアリスはこれまでに何度か映画化されてきた。知っている限りでも2,3作が思い出される。特に印象に残っているのはヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』だ。本作品はタイトルからだと原作の単なる映像化と思われるが、実際のところ、いわゆるアリスの“後日譚”に当たる。原作では続編に『鏡の国のアリス』などがあるがそういったのは抜きにして、「不思議の国を体験したアリス」が主人公である。
ティム・バートン監督作品に多くみられることだとは思うが、本作品もまた、一面的な見方をするのがもったいなくなるような内容だ。小さい子でも十分に楽しめるし、あるいは教訓めいたこと(例えば“夢を抱き続けていれば云々”)を抽出することもできる。さらには批評的分析にも堪え得る強度を持ったものだとも思う。だからこそ滅多なことは言いたくないし、簡単に一括りにすることの貧困さが痛感される。あえてこう言おう。面白いのが一番だ、と。
本作は、いちいち説明を加えず観客を物語に引き込む力がある。アリスという有名な作品を下敷きにし、それを観客も知っている、という前提のもとに作品を積み上げている。そのため理解しやすいのかもしれない。または、原作が本来持っている幻想の強度が作品を支えているのかもしれない。気付いた時には、観客は、物語の展開を、主人公の運命をじっと見守ってしまっている。まるで「夢」のような時である。目覚めもよく、活力さえも与えてくれる。
その言葉少なな中で、いくつかのキーワードが登場人物の口から発せられる。それはアリスの迷い込んだ世界が一体何であるかを理解するための手掛かりとなってくれる。一度訪れたことのあるこの世界は、では彼女にとってどのような意味をもって体験されているのか。そのうえで原作の流れをなぞるとはどういうことなのか。「運命」と呼ばれた彼女の筋書きは、本当に「運命」なのか。ここを考えるのが、作品を理解する上での要となってくるだろう。
また、忘れてはならないのが、ジョニー・デップの存在。彼はマッドハッターに扮して現れている。この有名俳優が配置された役柄に求められたものは何なのか。私は、今回一つのシーンが印象に残っている。彼が赤の女王から受けた悲惨な過去を語り、その場所がまさに彼の今いる所であることに言及する。「そう、ちょうどここだった…」これは単なる都合の良さで説明できないものがある。彼が語ることで、逆に世界が生み出されているのだ。この感覚は、不思議の国のアリスという原作全体からも感じられる。全てが、語ることで、気付くことで、生み出される。それは意識的な行為によるものではなく、自身がいかんともしがたい体験が意図せずして湧き上がり、そして形をなす。これは狂気の世界だ。この役柄をこなすには彼の演技が必要で、彼を起用したのはつまり、それだけ本作品にとってマッドハッターの“狂気”が重要なファクターだったとしたら?
アリスの夢の世界(「不思議の国」)もまた、彼女が意図せぬものである。アリス自身は「これは自分の夢なのよ」と言っているのにも関わらず。彼女は、これを体験しなおすことで自身の指針を見出す糧としている。この一連の作業は、トラウマの回復としても理解できるだろう。つまりアリスは自分自身の狂気、あるいは不思議な世界を体験し、知ることで現実を生きて行く力を身につけて行くのだとも言うことができよう。自身の狂気を知り、信じて生き続けることが大きな力を生む、と言われているようにも感じる。
・・・・・・でもよ、ここまで色々言っててなんだけど、こんなこと言ったって全然面白くねえだろう?
下手な分析、解釈は押しつけがましい教訓に良く似ている。少なくともこの作品について何か言いたいのなら、この世界観を自分が夢みるまで刻みつけることから始まるのではないか?
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by murkhasya-garva
| 2010-05-05 01:33
| 映画
処刑山(2009)

久しぶりの映画って感じ。京都みなみ会館に足を運んだのも久しぶりだし、やはり何と言っても劇場で映画を見るのが一番楽しい。
さて、今回は「処刑山」。ノルウェー産のゾムビ映画である。なぜゾンビと言わずゾムビなのかは知らないが、チラシの表記に乗ってここでもそう書くこととしよう。とても良い作品、力作だ。ホラー作品にときどき見られるオフザケも最小限に抑え、しかもゾムビ映画の系譜もきっちり継いでいる。そのうえで自身のオリジナルを盛り込むという粋な計らい。無駄なことは言わないしゾムビとのマンチェイスもちゃーんと(こういう言い方でないとしっくりこない。そのわけは後で説明する)描いており、安心して見ていられる。なんかほのぼのします。
トミー・ウィルコラというこの監督、かなりの映画好きと見た。タランティーノの下で学んだというが彼の作品のように、気に入った映画へのオマージュが所々にある。とはいってもそこまで詳しくないのでアレなのだが、とくに超映画OTAKUのアーランドの言動がいちいちキメに入っているのがすごく気になる。彼らの話題に上がった『13日の金曜日』や『エイプリル・フール』、あるいは“アイルビーバック”で知られている『ターミネーター』だけではない。雪合戦をする際に「覚悟しろよ」と横を向きながら呟く場面、あるいは金貨の入った箱を見つけて顔を黄金に照らし「すっげえお宝」という場面、果てには彼のTシャツにプリントされた『ブレインデッド』さながら脳をぶちまけて死ぬあたり、笑わせてもらうと共に、事あるごとに他の映画を思わせる要素を盛り込み、無駄に説明を加えたりしないのがまた心憎い。
しかも、当然のように話は二転三転する。いつ死ぬの?それとも人間が勝っちゃうの?と気になるのもまた楽しい。一人死に、また一人死にと内臓を引きずり出されて大流血を見せてくれる。まったく、ここまでサービスしてくれるの?!とばかりに充実した内容なのだ。監督もさるもの、それをギャグにすることも忘れない。明るい音楽をBGMに必死こいて人間が反撃を加えるのには、お決まりすぎて笑うしかないし、登場人物のちょっとしたセリフも気が利いている。
さて、うまいうまいと言い続けるのも芸がないので、少し言葉を選びながら感想を続けよう。本作の特徴は、雪山という特有の風土を舞台にした点にある。本作のパーツには、先に挙げたように目新しいものはない。全速力の対ゾムビのマンチェイスは『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004)でも有名だし、山小屋が拠点と言えば『キャビン・フィーバー』(2002)でさえやっている。ゾムビでなければ『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)も思いだされる。だがこれらの使い古されたとも見られるネタを、雪山でやる。それだけで新鮮な印象があった。監督の野心さえも感じられてくる。
それに、私は感動したのだ。『ブレインデッド』よろしく大量の流血シーンをこなしており、それが大方エンターテインメントとして回収されていることに。本来の設定では、ゾムビはナチス部隊というキンキンにヤバいネタをしょっている。時代背景や社会情勢を持って臨むときは、しばしば監督の価値観や思想が作品の核になり、魅力となる。ジョージ・A・ロメロなんて最たる例だ。なのにこの作品は、そんな思想的な云々をうまく回避することに成功している。極限状態の人間がちょっとオカシなことになる、という所でセーブしている。このバランス感覚は素晴らしい。つっても『ブレイン~』も相当好き勝手やってたけどね。ともかくこの監督はもっと面白くなるかもしれない。
あとついでに、人間を切り刻んだり潰したりするとき、2種類はあると感じた。つまり、①主人公たちが人間扱いされない場合 と、②敵が人間でない場合。本作は後者に当たる。おそらくホラーを見るにあたって参考になるかもなので、書くだけ書いておこう。
とりあえず眠いので、ここまで。結論は「面白かった」でいきます。未見の方はぜひご覧ください。実はあまり怖くないけど、すごいナイスなゾムビ映画なのです。

久しぶりの映画って感じ。京都みなみ会館に足を運んだのも久しぶりだし、やはり何と言っても劇場で映画を見るのが一番楽しい。
さて、今回は「処刑山」。ノルウェー産のゾムビ映画である。なぜゾンビと言わずゾムビなのかは知らないが、チラシの表記に乗ってここでもそう書くこととしよう。とても良い作品、力作だ。ホラー作品にときどき見られるオフザケも最小限に抑え、しかもゾムビ映画の系譜もきっちり継いでいる。そのうえで自身のオリジナルを盛り込むという粋な計らい。無駄なことは言わないしゾムビとのマンチェイスもちゃーんと(こういう言い方でないとしっくりこない。そのわけは後で説明する)描いており、安心して見ていられる。なんかほのぼのします。
トミー・ウィルコラというこの監督、かなりの映画好きと見た。タランティーノの下で学んだというが彼の作品のように、気に入った映画へのオマージュが所々にある。とはいってもそこまで詳しくないのでアレなのだが、とくに超映画OTAKUのアーランドの言動がいちいちキメに入っているのがすごく気になる。彼らの話題に上がった『13日の金曜日』や『エイプリル・フール』、あるいは“アイルビーバック”で知られている『ターミネーター』だけではない。雪合戦をする際に「覚悟しろよ」と横を向きながら呟く場面、あるいは金貨の入った箱を見つけて顔を黄金に照らし「すっげえお宝」という場面、果てには彼のTシャツにプリントされた『ブレインデッド』さながら脳をぶちまけて死ぬあたり、笑わせてもらうと共に、事あるごとに他の映画を思わせる要素を盛り込み、無駄に説明を加えたりしないのがまた心憎い。
しかも、当然のように話は二転三転する。いつ死ぬの?それとも人間が勝っちゃうの?と気になるのもまた楽しい。一人死に、また一人死にと内臓を引きずり出されて大流血を見せてくれる。まったく、ここまでサービスしてくれるの?!とばかりに充実した内容なのだ。監督もさるもの、それをギャグにすることも忘れない。明るい音楽をBGMに必死こいて人間が反撃を加えるのには、お決まりすぎて笑うしかないし、登場人物のちょっとしたセリフも気が利いている。
さて、うまいうまいと言い続けるのも芸がないので、少し言葉を選びながら感想を続けよう。本作の特徴は、雪山という特有の風土を舞台にした点にある。本作のパーツには、先に挙げたように目新しいものはない。全速力の対ゾムビのマンチェイスは『ドーン・オブ・ザ・デッド』(2004)でも有名だし、山小屋が拠点と言えば『キャビン・フィーバー』(2002)でさえやっている。ゾムビでなければ『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)も思いだされる。だがこれらの使い古されたとも見られるネタを、雪山でやる。それだけで新鮮な印象があった。監督の野心さえも感じられてくる。
それに、私は感動したのだ。『ブレインデッド』よろしく大量の流血シーンをこなしており、それが大方エンターテインメントとして回収されていることに。本来の設定では、ゾムビはナチス部隊というキンキンにヤバいネタをしょっている。時代背景や社会情勢を持って臨むときは、しばしば監督の価値観や思想が作品の核になり、魅力となる。ジョージ・A・ロメロなんて最たる例だ。なのにこの作品は、そんな思想的な云々をうまく回避することに成功している。極限状態の人間がちょっとオカシなことになる、という所でセーブしている。このバランス感覚は素晴らしい。つっても『ブレイン~』も相当好き勝手やってたけどね。ともかくこの監督はもっと面白くなるかもしれない。
あとついでに、人間を切り刻んだり潰したりするとき、2種類はあると感じた。つまり、①主人公たちが人間扱いされない場合 と、②敵が人間でない場合。本作は後者に当たる。おそらくホラーを見るにあたって参考になるかもなので、書くだけ書いておこう。
とりあえず眠いので、ここまで。結論は「面白かった」でいきます。未見の方はぜひご覧ください。実はあまり怖くないけど、すごいナイスなゾムビ映画なのです。
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by murkhasya-garva
| 2010-04-28 01:35
| 映画
THE WAVE ウェイヴ(2008)

ドイツで起きた実話をもとに構成された作品。高校で独裁制を学ぶ生徒たちが、一週間の実習で教師・ライナーの主導する「独裁」に心酔し、暴走する様が描かれる。
「エス」に続くドイツの洗脳ものだったか、そんな宣伝に惹かれて今回鑑賞に至ったのだが、思った以上に衝撃を受けている自分に衝撃を受けていた。とはいえ、観賞前は紹介文を読んでも、ネオナチの話なのか?ドイツで独裁と言ったらナチズムだろう、とまったく想像が広がらなかった。高校の授業が選択制で、しかも実習制度が設けられているなんて知りもしなかったため、冒頭の「ここでは民主主義の重要さを学ぶための場だ」といった旨のせりふでやっと合点が付いたのだった。
衝撃――というより、これはもはや生理的嫌悪に近い。皆の意思を特定の存在に集中させ、統率するというやり方は、実は日本でも行われていることである。今でこそそのような習慣はしだいに影をひそめてはいるが、特に、体育会系、と呼ばれる集団では当然のように行われている。私は要領の悪さもあってそのような集団の中にうまく溶け込むことができず、しばしば「なぜ?」と立ち止まってしまうことがあった。そのような態度に対して向けられるのは、「みんながんばっているんだから」という叱咤、「後輩は先輩の言うことを聞くものだ」という恫喝、そして「あいつはああいう奴だから」という冷笑と差別の目。なぜああも無自覚に従っていられるのか。なぜ「威厳が必要だ」などという愚昧極まりない言葉を口にすることができるのか。自分が所属する集団に対して、息苦しさ、疎外感や苛立ちをよく感じていたことを今でも思い出す。
独裁に求められるものは何か。と担当教師であるライナー(ユルゲン・フォーゲル)は生徒たちに聞く。その中で挙がるキーワードは、“規律”、“経済的困窮と社会的不満”であり、全体を統率するために必要なのは“指導者”、そして“制服”。ライナーは「今日から俺のことは“ベンガー様”と呼べ」と言うのにはじまり、皆が購入できるような安価な“制服”として、白シャツとジーンズを提案する。ドイツの歴史的犯罪を今まで聞かされてきたものの、実際に体験したことのない高校生たちは少しずつ独裁の魅力に惹きつけられていく。生徒たち自らが「ウェイヴ」と名乗り、エンブレムを作って町中にステッカーを貼り、スプレーを吹き付けて回る。
しかし、その異常さを当初からかぎ取っていたカロ(ジェニファー・ウルリヒ)は制服も着ず、授業にも出席しない。ますます暴走していくウェイヴの反対ビラを撒いて、ウェイヴ存続を何とか止めようとする。
カロの戸惑い、苛立ちに私はおそらく感情移入していた。それと同時に、これまで私が所属していた集団の、独裁とは呼びがたい因習的な体制の欠点を感じてもいた。独裁が完全に成立するためには、彼ら生徒たちのように、自分たちの行動原理に関しての理解が必要なのかもしれない。無自覚でいる者は確かにいるだろうが、恐らく独裁において最も性質(たち)が悪く、強大なのは頭で分かっていながら心酔した者たちだ。一緒に見に行った人は、ラストシーンで「反逆者」として名指された生徒を引きずり出した生徒は、完全に洗脳されているということを述べていた。しかし、私はそうは思わない。彼らは頭では分かっているのだ。戸惑いと強力なイデオロギーの拮抗の中で、まるで弁証法的に完成した信念が自分たちを突き動かしているのだ、と感じた。
そして独裁者を崇拝するために動く一個の巨大な集団。あの熱気には、おぞましさを感じさせる。もはや何も見えなくなってしまうのだ。特に若者にとって、何か信ずべきことがあるというのは非常に大きな意義を持つ。いわば「信仰」は、彼らのエネルギー源となりうる。私には、あの姿は受け入れられない。盲目でいることを選び、しかし「力」にすがるような者は度し難い。
ナチズムともネオナチとも異なる、高校の授業の中で生まれた独裁制の話。私はストーリーの内容云々よりも、感情的に印象に残る作品となった。もっとも、生徒の心を掌握した体育教師のライナーの視点から見ると、彼の指導能力は、自身が「短大での体育教師」が「劣等感の塊」だと卑下するどころか、十分なものがあると思うのだけれど。

ドイツで起きた実話をもとに構成された作品。高校で独裁制を学ぶ生徒たちが、一週間の実習で教師・ライナーの主導する「独裁」に心酔し、暴走する様が描かれる。
「エス」に続くドイツの洗脳ものだったか、そんな宣伝に惹かれて今回鑑賞に至ったのだが、思った以上に衝撃を受けている自分に衝撃を受けていた。とはいえ、観賞前は紹介文を読んでも、ネオナチの話なのか?ドイツで独裁と言ったらナチズムだろう、とまったく想像が広がらなかった。高校の授業が選択制で、しかも実習制度が設けられているなんて知りもしなかったため、冒頭の「ここでは民主主義の重要さを学ぶための場だ」といった旨のせりふでやっと合点が付いたのだった。
衝撃――というより、これはもはや生理的嫌悪に近い。皆の意思を特定の存在に集中させ、統率するというやり方は、実は日本でも行われていることである。今でこそそのような習慣はしだいに影をひそめてはいるが、特に、体育会系、と呼ばれる集団では当然のように行われている。私は要領の悪さもあってそのような集団の中にうまく溶け込むことができず、しばしば「なぜ?」と立ち止まってしまうことがあった。そのような態度に対して向けられるのは、「みんながんばっているんだから」という叱咤、「後輩は先輩の言うことを聞くものだ」という恫喝、そして「あいつはああいう奴だから」という冷笑と差別の目。なぜああも無自覚に従っていられるのか。なぜ「威厳が必要だ」などという愚昧極まりない言葉を口にすることができるのか。自分が所属する集団に対して、息苦しさ、疎外感や苛立ちをよく感じていたことを今でも思い出す。
独裁に求められるものは何か。と担当教師であるライナー(ユルゲン・フォーゲル)は生徒たちに聞く。その中で挙がるキーワードは、“規律”、“経済的困窮と社会的不満”であり、全体を統率するために必要なのは“指導者”、そして“制服”。ライナーは「今日から俺のことは“ベンガー様”と呼べ」と言うのにはじまり、皆が購入できるような安価な“制服”として、白シャツとジーンズを提案する。ドイツの歴史的犯罪を今まで聞かされてきたものの、実際に体験したことのない高校生たちは少しずつ独裁の魅力に惹きつけられていく。生徒たち自らが「ウェイヴ」と名乗り、エンブレムを作って町中にステッカーを貼り、スプレーを吹き付けて回る。
しかし、その異常さを当初からかぎ取っていたカロ(ジェニファー・ウルリヒ)は制服も着ず、授業にも出席しない。ますます暴走していくウェイヴの反対ビラを撒いて、ウェイヴ存続を何とか止めようとする。
カロの戸惑い、苛立ちに私はおそらく感情移入していた。それと同時に、これまで私が所属していた集団の、独裁とは呼びがたい因習的な体制の欠点を感じてもいた。独裁が完全に成立するためには、彼ら生徒たちのように、自分たちの行動原理に関しての理解が必要なのかもしれない。無自覚でいる者は確かにいるだろうが、恐らく独裁において最も性質(たち)が悪く、強大なのは頭で分かっていながら心酔した者たちだ。一緒に見に行った人は、ラストシーンで「反逆者」として名指された生徒を引きずり出した生徒は、完全に洗脳されているということを述べていた。しかし、私はそうは思わない。彼らは頭では分かっているのだ。戸惑いと強力なイデオロギーの拮抗の中で、まるで弁証法的に完成した信念が自分たちを突き動かしているのだ、と感じた。
そして独裁者を崇拝するために動く一個の巨大な集団。あの熱気には、おぞましさを感じさせる。もはや何も見えなくなってしまうのだ。特に若者にとって、何か信ずべきことがあるというのは非常に大きな意義を持つ。いわば「信仰」は、彼らのエネルギー源となりうる。私には、あの姿は受け入れられない。盲目でいることを選び、しかし「力」にすがるような者は度し難い。
ナチズムともネオナチとも異なる、高校の授業の中で生まれた独裁制の話。私はストーリーの内容云々よりも、感情的に印象に残る作品となった。もっとも、生徒の心を掌握した体育教師のライナーの視点から見ると、彼の指導能力は、自身が「短大での体育教師」が「劣等感の塊」だと卑下するどころか、十分なものがあると思うのだけれど。
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by murkhasya-garva
| 2010-03-16 17:51
| 映画
『バーダー・マインホフ 理想の果てに』(2008)

シネマライズにて8月第2週に鑑賞。その後、製作会社のムービーアイが倒産したという情報あり。関東では上映されるものの、関西ではきわめて難しいのだとか…今回も「関西では上映が遅れそう/なさそうな映画」で選んだのだけどドンピシャ。切ないね。
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007)や他にもあったような気がするが、革命運動などが題材の作品が世界的にポツリポツリと上がってきているのは決して気のせいではないだろう。そのような機運が盛り上がってきている、とも言える。その前にはソクーロフ監督の『太陽』(2005)、李纓監督の『靖国』(2007)など、ドイツでも『善き人のためのソナタ』(2006)などじわじわと上がってきていたようだが…。
最近のホットな話題で言うと、民主党が政権取っちゃいますね。その内容はともかく、国民の怒りが政治に届いた!と一部の方は息巻いておられるようですが、その実どうなんでしょう。彼らは常に怒りを持って社会に問いかけることが真の目的であるようにも思われるのです。実際に、革命が全国的に波及し、政権転覆!という状態に今まで日本は至ったことがないし、今後そうなるのもまだまだ先のようでもある。つまり、個人的には革命、改革の真価のはその行為自体なのであって、“失敗”の連続でなければならない、という印象があるのです。
さて本作は、ドイツ赤軍と後に呼ばれる若者の過激な反体制活動を描いたものです。キャッチコピーは「世界は変えられると信じていた――」と何だか遠い目をしておられますが、この視点はあながち間違っていないのではないでしょうか。本作が『実録・連合赤軍』のごとくグループの壊滅までの足取りを描いているということからも、本作がこういった運動に対して回顧的で、批判的な見方を持っていると考えられます。
しかも原題がすごい。〈THE BAADER MEINHOF COMPLEX〉……“バーダー・マインホフ・コンプレックス”?心理学では「コンプレックス」とは何らかの感情によって統合された心的な内容の集まりのことなのだけど、つまりタイトルから、首謀者であったアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフの存在をめぐって、何らかの感情的な動きが働いていた、と言っているのでしょうか?精神分析の創始者であるフロイトがドイツの人間だったことからも、製作者の思惑はきわめてシニカルに感じられます。
<バーダー・マインホフ>グループの動きは初めからやたら忙しいのです。ウルリケ・マインホフ(マルティナ・ゲデック)の旦那はメディアによる煽動者かと思っていたら浮気してウルリケに愛想尽かされるし、リーダーかと思われたルディ・ドゥチュケ(セバスティアン・ブロンベルグ)もあっさり撃たれて表舞台には出なくなる。あれよあれよという間にアタマが変わっていって、最終的に落ち着くのがウルリケ・マインホフとアンドレアス・バーダー(モーリッツ・ブライプトロイ)。理知的な女性と感情的な男性。しかも男の方にはグドルン・エンスリン(ヨハンナ・ヴォカレク)というこれまたリベラルで挑発的な女がついてくるのです。困ったものです。
この作品の面白さは、彼らの破滅の道を淡々と追っているという点、そして彼らの投獄を受けて第2世代、第3代が彼らの意図を離れてさらに過激へと突き進んでいく、という点にあります。ここには何か狂気めいたものがあります。もちろん、ウルリケ・バーダー・エンスリンが奇妙な感情的対立に陥るのだけでも十分に興味深いのだけど、第2,3世代のRAF(Red Army Faction)の異常さとそれに対する彼らの複雑な感情、それらがこき混ざって蠢いているのを見ていると、さもありなん、という思いと同時に何やら暗澹とした気分に襲われます。
本作には、若松監督が連合赤軍の姿を肉薄して描こうとした「誠実さ」とは異なるものがあります。それは、確かに現代への警鐘という意味で共通するのだろうけど、リーダーたちの迷走もメンバーたちの暴動も、もはや手のつけられない状況――狂気の中にあったことを浮き彫りにするこの作品からは、近親憎悪とも言えるようなものを感じます。現地では絶賛されたという本作は、恐らくその一方で心理学者だけでなく関心をもつ人たちの格好の分析対象になったのではないでしょうか。

シネマライズにて8月第2週に鑑賞。その後、製作会社のムービーアイが倒産したという情報あり。関東では上映されるものの、関西ではきわめて難しいのだとか…今回も「関西では上映が遅れそう/なさそうな映画」で選んだのだけどドンピシャ。切ないね。
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007)や他にもあったような気がするが、革命運動などが題材の作品が世界的にポツリポツリと上がってきているのは決して気のせいではないだろう。そのような機運が盛り上がってきている、とも言える。その前にはソクーロフ監督の『太陽』(2005)、李纓監督の『靖国』(2007)など、ドイツでも『善き人のためのソナタ』(2006)などじわじわと上がってきていたようだが…。
最近のホットな話題で言うと、民主党が政権取っちゃいますね。その内容はともかく、国民の怒りが政治に届いた!と一部の方は息巻いておられるようですが、その実どうなんでしょう。彼らは常に怒りを持って社会に問いかけることが真の目的であるようにも思われるのです。実際に、革命が全国的に波及し、政権転覆!という状態に今まで日本は至ったことがないし、今後そうなるのもまだまだ先のようでもある。つまり、個人的には革命、改革の真価のはその行為自体なのであって、“失敗”の連続でなければならない、という印象があるのです。
さて本作は、ドイツ赤軍と後に呼ばれる若者の過激な反体制活動を描いたものです。キャッチコピーは「世界は変えられると信じていた――」と何だか遠い目をしておられますが、この視点はあながち間違っていないのではないでしょうか。本作が『実録・連合赤軍』のごとくグループの壊滅までの足取りを描いているということからも、本作がこういった運動に対して回顧的で、批判的な見方を持っていると考えられます。
しかも原題がすごい。〈THE BAADER MEINHOF COMPLEX〉……“バーダー・マインホフ・コンプレックス”?心理学では「コンプレックス」とは何らかの感情によって統合された心的な内容の集まりのことなのだけど、つまりタイトルから、首謀者であったアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフの存在をめぐって、何らかの感情的な動きが働いていた、と言っているのでしょうか?精神分析の創始者であるフロイトがドイツの人間だったことからも、製作者の思惑はきわめてシニカルに感じられます。
<バーダー・マインホフ>グループの動きは初めからやたら忙しいのです。ウルリケ・マインホフ(マルティナ・ゲデック)の旦那はメディアによる煽動者かと思っていたら浮気してウルリケに愛想尽かされるし、リーダーかと思われたルディ・ドゥチュケ(セバスティアン・ブロンベルグ)もあっさり撃たれて表舞台には出なくなる。あれよあれよという間にアタマが変わっていって、最終的に落ち着くのがウルリケ・マインホフとアンドレアス・バーダー(モーリッツ・ブライプトロイ)。理知的な女性と感情的な男性。しかも男の方にはグドルン・エンスリン(ヨハンナ・ヴォカレク)というこれまたリベラルで挑発的な女がついてくるのです。困ったものです。
この作品の面白さは、彼らの破滅の道を淡々と追っているという点、そして彼らの投獄を受けて第2世代、第3代が彼らの意図を離れてさらに過激へと突き進んでいく、という点にあります。ここには何か狂気めいたものがあります。もちろん、ウルリケ・バーダー・エンスリンが奇妙な感情的対立に陥るのだけでも十分に興味深いのだけど、第2,3世代のRAF(Red Army Faction)の異常さとそれに対する彼らの複雑な感情、それらがこき混ざって蠢いているのを見ていると、さもありなん、という思いと同時に何やら暗澹とした気分に襲われます。
本作には、若松監督が連合赤軍の姿を肉薄して描こうとした「誠実さ」とは異なるものがあります。それは、確かに現代への警鐘という意味で共通するのだろうけど、リーダーたちの迷走もメンバーたちの暴動も、もはや手のつけられない状況――狂気の中にあったことを浮き彫りにするこの作品からは、近親憎悪とも言えるようなものを感じます。現地では絶賛されたという本作は、恐らくその一方で心理学者だけでなく関心をもつ人たちの格好の分析対象になったのではないでしょうか。
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by murkhasya-garva
| 2009-09-07 00:56
| 映画