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by murkhasya-garva
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『借りぐらしのアリエッティ』(2010)
借りぐらしのアリエッティ_b0068787_074550.jpg
ジブリ作品は取りあえず観なければ始まらん!!
監督は米林宏昌という新人。しかも観た人が言うには「ジブリを観るつもりで行ったら残念なことになる」と。さてこれはアリエッティだったのかアリエンティーだったのか。←もうこれ消す(泣)


個人的には十分満足のいくものだった。ここには確実にジブリの世界があった。新人だというのに、ここまでの作品をよくぞ…と満足しきりだった。初めてでこれなら、十分だろう。それ以上何を求めるのか。

美しい背景、登場人物たちの何気ないしぐさ、それらは確かにジブリのそれだった。
恐らく米林監督は、ジブリの作品を仕事上であれ、さんざん観てきたのだろう。そのうえで自身の好きなジブリをいたるところにちりばめてある。たとえば草むらの中を駆け抜けるアリエッティは小トトロだし、ツタを登っていく姿はパズーやシータに重なる。母を心配して泣き出す姿はサツキに、家政婦の意地悪さはジゴ坊に。猫の鼻面に触れるのは、あれはもうトトロだろう!!他にもたくさんあった。実際に確認してほしい。

説明不足の感はあるが、作品としてのまとまりはいい。ただ、テーマとなると少し分からなくなる。それはそうだ。床下に住む小人の顛末を描くあたり、そこにどのようなテーマを求めるというのか。エコロジーとか言ってみてみてもはじまらないだろう。「テーマが分からない」だと?『もののけ姫』から毒されてきたんじゃないのか?
ここで注目すべきは、テーマではなく作品の出来だと言っておこう。そうすれば大多数の方たちが求めるものも少なからず見えてくるはずだ。

本作のほとんどは小人の視点から描かれる。彼らにとっての水はゼリー状で、粘着テープは一人分の体重を支えるに十分な強度を持っている。角砂糖やビスケットは潰して顆粒状にしてから使う。また、猫やカラスは驚異的で、なによりも人間の存在を非常に警戒している。この一つ一つの描写、そして人間とのかかわりは、普段の生活でおめにかかれないものばかりだ。そのような小さな世界に思いをはせるというのは、どのような体験なのだろう。

そこでは当たり前だと思っていることが当たり前ではない。小人たち、特にアリエッティの視点から、世界に対するその新鮮な想いがまざまざと伝わってくる。これは何と言うのだろう。小さいものへのまなざし、あるいは愛情だろうか。
このディテールこそが本作の醍醐味だろう。ジブリ作品には、これまでに他の者たちの視線が入っていた。そして、それによってあの細かな描写が生まれてきたのだと思う。

確かに、本作は小品ともいうべきものだ。あまり大きなものを詰め込んでいるわけではない。作風にしてもジブリとジブリの作品を踏襲している部分が非常に大きい。そのために、米林監督はただの一ジブリファンだと言われても仕方あるまい。しかし、彼がこの作品に自身の表現をささやかながら、しかし明らかに盛り込んでいること、そして宮崎駿を継承しようとしたことはどう考えても評価すべきだと思う。宮崎駿にはなれないまでも、米林宏昌というジブリの監督として確実にやっていけることだろう。彼が、今後もっと面白い作品を作っていくのを期待せずにはいられない。
# by murkhasya-garva | 2010-08-18 00:08

ソルト

『ソルト』(2010)
ソルト_b0068787_2320695.jpg

スパイもの。007、MI、ボーン…スパイ映画というジャンルがあるのを初めて知った。






これはアンジェリーナ・ジョリーを見るための映画だろう。MIシリーズがトム様の活躍を目に焼き付けるのが目的であるように。スクリーンをまさに所狭しと動きまわる彼女の姿がかっこいい。全体的にも悪くないと思った。まず出だしだが…キーとなるエピソードを冒頭に置き、その終わりあたりで画面をフィルム上に切り取って赤いタイトルが浮かび上がる。序章という感じ。

先に挙げたように、スパイものは恐らく主役の活躍がメインディッシュなのだろう。政治的云々というのは二の次三の次と思われる。JFKの暗殺者がロシアのスパイだったという話も少し挿まれるが、これも本当に申し訳程度。さて本作の焦点となる主役・ソルトだが、彼女の活躍に面白みを与えている一つとして、その目的、意図があると思われる。そういう話で持っていこう。

彼女はいったい何のために暗躍しているのか。CIAのためか、あるいはKGBのためか。彼女の行動原理になるものが、次第に私的なものになっていくあたりで話はだんだんと面白くなってくる。この、微妙な揺れが、私にとっては、逃亡劇での派手なアクションよりも魅力的に思える。

未見の方には申し訳ないが、夫が殺された時の彼女の表情を思い出してほしい。唇と下あごが震え、今にも泣き出しそうになるところを、平然と視線を同志に向けて「満足?」と聞く。そのあとにも、報復として彼女は、きわめて冷静な表情で手榴弾を投げ、銃を同志たちに撃ちこむのだ。
つまりここでは「何をするか」よりも、「どうするか」という点が重要だと感じられる。

最後はさんざん盛り上げておいて、しかも終わりそうにない流れを見せておいて、本当に終わらせる気がなさそうな締め方になっている。あれで1話完結にしたら傑作にもなりうるのかもしれないが、本作はその選択を取らなかった。それはもっぱらアンジェリーナ・ジョリーの活躍をもっと見せるためだろう。次回作がどうなるか期待したいが、そこまでってわけでもないんだよな…。
# by murkhasya-garva | 2010-08-17 23:21 | 映画

魔法使いの弟子

久しぶりに映画のはしご。
今回は『薔薇の名前』『ソルト』『魔法使いの弟子』。
昨夜は『借りぐらしのアリエッティ』。
少しずつ書いていく予定。長文だと気力が途中で萎えてしまうので。

『魔法使いの弟子』(2010)
魔法使いの弟子_b0068787_21221385.jpg
『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズで有名なジェリー・ブラッカイマーの監督作品。ニコラス・ケイジをやっとまともに見られるようになってきた。なんせ初体験が『8mm』だったもので、あの糞映画の主演と思うと冷静ではいられなかったという。10年以上の呪いが解けたようです。



本作は、タイトルからして聞き馴染みがある。それが何だったかは忘れていて、あまりパッとしないものだから観に行かない方向で固まっていたのだけど、周りでは面白いという者が多数。盆休み最後の日の締めくくりに選んでみた。
実際に、面白かった。何も考えずに観ることができる。

少なくとも、昨日今日観た4本の中では最もエンタテインメイント的。考えてみれば、『パイレーツ~』でも人体風化シーンや粉末結晶化シーン、そして剣戟や一対一の掛け合いなどは多用されていたし、見どころにもなっていた。これだけを取り上げて言うのもあれだけど、彼一流の演出がやはり光っていたというか何と言うか。

古代の超常能力が現代に、というテーマはこれまでに結構出回っていた。ハリーポッターだってナルニア王国物語だってそうだ。上2シリーズもそうだけど、このテーマはどうやって今と昔をつなげるかが重要なようで、分かりやすく説明してくれているのがありがたい。本作もそうだ。冒頭数分で昔話はさらっと流し、本編にもっていくあたりがとてもテンポがいい。お決まりとさえ言っていいくらいのつなぎ方だけど、あれで中身の6、7割が説明されている。いい出だしだった。

内容も想像に難くない。ヒーローものを参考にすればあらかた予想がつく。しかし、最近は志厚い青年なんてのは流行らないんだなあ。オタク(そう呼ばせている)を使っているあたり、世相が変わっているようで非常に好ましい。ではオタクは何が違うのか。何度も言われていることだろうけど、当たり前のように掲げられてきた価値観ではなく、その本人がハマっているものが十分強みになりうる、という点。優柔不断で往生際が悪いんだけど、でも彼なりのこだわりが結果的に魅力になる、と。
言ってみればいかにもハリウッド的ではあるんだけど、男根主義(マッチョイズム)が多少やわらいできている風に見えるのが個人的には好き。

そして「魔法使いの弟子」と言えば、ディズニーのアニメ。あれは何度も見ていたけど、実際に使ってくれている。このシーンをみて、何年かぶりにディズニーの元ネタを思い出したのだった。あれには思わずうれしくなってしまった。

家族連れの鑑賞にお勧めの一本。濃いものを観たい方にはすすめませんが、分かりやすくて楽しくて、息抜きにはちょうどいい作品です。続編でない(ように見せている)のもいいですね。
# by murkhasya-garva | 2010-08-17 21:22 | 映画
現在、アラン・レネの2作品が京都みなみ会館で上映されている。『ヒロシマモナムール 二十四時間の情事』は5/24-30、『去年マリエンバートで』(HDニューリマスター版)は5/22-6/4。

今回は、2作品併せて感想を書くことにしよう。いずれも筋書きを追うには情感的で、無理にストーリーが云々というような言い方にこだわると、多くの要素を見失ってしまいそうな気分になってしまう。特に『去年~』は、以前蓮實重彦がどこかで論じていたのを思い出す。彼の文体は、今思えば非常に情感的で、論理立てることよりも自身が感じ取ったことを描写し尽くすことに重きを置いていたような気がする。少なくともこの作品に限って言えば、そのアプローチは正解だったのかもしれない。というよりも、アラン・レネの両作品が、情感という者に対して強いこだわりを持って作られていた、と言った方がよいのだろう。


『ヒロシマモナムール 二十四時間の情事』(1959)
『去年マリエンバートで』、『ヒロシマモナムール』_b0068787_0123749.jpgいずれにせよ、一つずついこう。まずは『ヒロシマモナムール』について。広島のホテルの一室で、日本人男性とフランス人女性が肌を重ね合わせている。まさかこんなところで出会うなんて。あなたは私を殺し、幸せにする。また、彼女は続ける。私は見た、広島の姿を。しかし男性はこれに対して否定を重ねる。いや、あなたは何も見ていない。


何度も同じ文言を連ねて交わされるお互いの声は、詩句のようにも思える。しだいに、同じ言葉――たとえば「あなたは見ていない」という返答――は、異なる意味を持って響いてくる。

ヒロシマ、という場所は、世界大戦の終結を示す衝撃的な出来事が刻まれた記念碑的な意味をもって捉えられている。それは日本人だけではなく、少なくともフランス人にもだ。あの悲劇を忘れてはならない、と。女は、作中でこの出来事を恋愛に喩える。それは、自らのからだに刻みつけられるような衝撃そのものとして。しかし、その狂気にも似た出来事さえも我々は忘れ去ってしまう。無関心と忘却という形で。では、我々はどのようにしてゆけばよいのか?男女は途方もない言葉を交わし、少しずつこの問いへの答えを了解し合っていく。この答えに近づくヒントは、最後の会話に添えられている。あなたの名前はヒロシマ。君の名前はヌヴェール。

それまでお互いに名を呼び合うこともなかった2人が、最後にお互いを地名で呼び合うのだ。それぞれの地は、それぞれにとって馴染み深い場所だ。女にとってヌヴェールは青春時代を過ごし、もっとも狂気に近づいた場所。男にとってヒロシマは日本人としての位置付けを決定的なものとした場所として。しかし間違ってはならないのが、それぞれの地名を本人が自らに付けたのではないという点だ。ヌヴェールは男にとっての彼女の姿であり、ヒロシマは女にとっての彼の姿なのだ。どちらも、「あなた」という存在を忘れないため、単なる対象として風化してしまわないよう、記憶は幾重にもイメージとして重なり、それによって希薄だった出会いという出来事、時代という出来事、そして事件という出来事が、強烈に引き寄せられて血肉をもって現れるのだ。

反戦の意を込めて本作は作られた、と言ってもよいのだろう。ヒロシマという場で、愛が交わされ、その在り方を真摯に問うという作品が出来上がったことだけでも、本作は覚えておかれる意義があるのかもしれない。


『去年マリエンバートで』(1961)
『去年マリエンバートで』、『ヒロシマモナムール』_b0068787_0131796.jpg
次は『去年マリエンバートで』について。壮麗なバロック建築の建物で、人々は休暇を過ごしている。観劇、ゲーム、そしてお互いの会話を楽しみながら、時間が過ぎてゆく。その中で、2人の男女が語りあう。去年、あなたとここで出会い、駆け落ちするという約束をした。しかしあなたは1年待ってほしいと言ったではないか。女は覚えていない、そんなことは言っていない、と言い張る。男が偽っているのか、女が本当に覚えていないのか、最後まで会話が絡み続けていく。






かつて記憶に関して新しい視点を提示したのはプルーストだと言われているが、本作もまたその影響を受けているのかもしれない。そこまでプルーストについて知っているわけではないので、カジリだけ盛り込んでおこう。要は記憶の中で現実は作りかえられていく――「円熟する」ということを述べた人だ。本作でも同じ一連のせりふが繰り返し朗読される(はじめの部分だ)。また、断片的に挿入された言葉が、不意に誰かの口を借りて新たな意味を持って語られることもある。そして、男女の語らいの中でも、男の主張は何度も繰り返される。男が語る内容は少しずつ映像化されてゆくのだが、そこには何らかの改変かなされていく。別に、男がウソを意図的に盛り込んでいるわけではないようだ。しかし、それを聞いている彼女にとってその情景はしだいに変化してゆき、ついには彼女をパニックに陥らせるにまで至る。しかし、私が本作を見ていて感じた点がここに一つある。当り前のことなのだが、これは犯人探しの物語なんかではない、ということだ。つい、あの奇妙に細長い顔をした不気味な目つきの男が裏で糸を引いているのでは、などと疑ってしまいそうになる。そうではない。ごく丁寧に積み重ねられた言葉の中で、人は自身の現実を少しずつ変容させていく、という体験的な面にこそ本作には視点を向けて見るべきなのだ、と思う。

この作品で思い出されるのは、ゴダールのあの奇妙な音楽の断ち切り方や、『マルホランド・ドライブ』で登場した泣き女のシーンだ。現実がまるで作りもののように、当然のように思われていた流れを止め、突然立ち止まる。人々は彫像のように美しく、微動だにしない。美しさと奇妙さが同時に湧き立ってくる数々の場面は、とくに本作を思い出すときによみがえってくる。

考えてみれば、いずれも男女の愛を主題としたものなのだ。ただ、それぞれは変奏のなされ方が異なっており、アラン・レネの真意はさまざまな姿を取って表されている。恐らく『去年マリエンバードで』のほうが、より抽象的という点で複雑に要素が絡み合っているように思われる。これまでに数多くの映画評論家たちが語り尽くしてきたのだろう。いずれもが正しく、いずれかが正解というわけではない。それらを総合したものがこの作品たちの姿だとくらいに思ってもう一度観てみると、より面白みが増してくるのではないだろうか。
# by murkhasya-garva | 2010-05-31 00:17 | 映画

馬頭琴夜想曲

『馬頭琴夜想曲』(2006)
馬頭琴夜想曲_b0068787_0491244.jpg
これまで多くの映画の美術監督を務めてきた木村威夫氏が、自ら監督として製作した作品。これが公開されたのは4年前。きらびやかなスチルに興味を引かれていたが、当時は見に行けず。今回は、京都みなみ会館の木村威夫特集の一つとして本作が上映されている。5/22まで。



冒頭、降りしきる雪の中に見える淡い緑の西洋建築。よく見ると作りものだとすぐ分かるのだが、それと合わせて降り続ける雪もまた作りもの感が強くて、見ようによってはフィルムの劣化にも映る。それともこの作りもの感、どうもパペットアニメーションっぽくないか、なんつて思いながらも一層幻想的な感じでまたいいなあ、とそんなのは序の口にすぎなかった。

その西洋建築は教会で、入口から出てくるのはシスター。まず彼女が生身の人間なのに驚く。舞台のようなしつらえ方は、鈴木清順監督の『オペレッタ狸御殿』(2005)のようでもある。これは「見せる」ために作られた舞台だなあ。リアリティとか関係ねえな。手描きの絵と切り出されたような小さなバレリーナ、そして異世界か紙芝居の世界を思わせる映像は、決して最新の技術を用いているわけではない。木村威夫その人が納得する方法だけを用いた、という感が次第に色濃く現れてくる。

内容も、そこまでストーリーが明確にされているわけではない。原爆体験をくぐりぬけて60年の歳月を過ごしたシスターの語りと、教会で育てられた少年の脚が奇跡によって治る物語が軸となり、鈴木清順ふんする“にせ予言者”の「ヨバネ」と山口小夜子ふんするザロメが馬頭琴をめぐってやりとりしている。何のこっちゃ、と思われるかもしれない。私の説明がまずいのもあるけど、実際をみてもよく分からない。

実験映画のようでもあり、木村監督が好きに作った映画のようでもある。私には後者がしっくりくる。カラフルな映像にサンプリング音のミックス、そしてストーリーもテーマもあまり明確にされない、とくると、普段、映画を見る視点を取りあえず脇に置かないといけなくなる。確かに、原爆や戦争の悲惨さを宗教的、特にキリスト教を土台にして訴えていると言えるのだけど、それよりもなによりも、これは木村威夫という人の想いをそのまま映像にしているんではないか、という考えが頭から離れない。

そういう意味では、よくできた作品だと思う。映画好きの学生が作るようなアリモノの素材ではなく、自分の納得のいくモノを使い、主義主張を抑えながらも最後まで徹底して自身のイメージを美しく描き切る。これこそプロなんだろう。しかし、それだけなのだ。あまり知らない人の自叙伝を読んだ時のような感覚だ。面白いんだけど、「で?」って言いたくなるような。ベテランに向かって失礼は承知だが、見ていて目が覚めてしまいました。あまりよくない意味で。。。
# by murkhasya-garva | 2010-05-20 00:50 | 映画