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歌謡曲だよ、人生は

「歌謡曲だよ、人生は」(2007)b0068787_2247888.jpg
ひょんな出会いもあるものだ。
もとは別のオムニバス作品「ユメ十夜」を見るつもりで来たのに、上映しているのはこの作品。でもこのまま帰るのもシャクだし、帰りは遠いし。オムニバスつながりで、と腹をくくって観てみたんだけど…
驚いた。予想外に面白かった。というかツボだった。


本編は、12の昭和の歌謡曲を題材に、12人の監督たちがそれぞれのストーリーを展開するオムニバス作品。監督、俳優共々そうそうたる面子が揃い、本作を鮮やかに彩ってくれています。
去った恋人を追って東京へ向かう男の苦闘(第2話「僕は泣いちっち」)、サエない青年が観客の去った会場でかき鳴らすエアギター(第3話「これが青春だ」)、男に捨てられた少女に自分の過去を重ねる女(第7話「ざんげの値打ちもない」)、母校の同窓会でありありとよみがえる思い出(第11話「みんな夢の中」)…

この「歌謡曲だよ、人生は」には何度も泣かされたんです。聴き心地のよい曲調と共に書かれる、人々のストレートな心情。耳にしたことのない曲さえもどこか懐かしく、失った思い出を夢想するようなひと時が私たちを感傷的にさせます。歌謡曲には人々を温かく受け容れてくれる力があるのでしょうか。この映画を郷愁あふれる逸品たらしめているテーマとしての歌謡曲たち。各曲をベースに作られた本作品群は、それらの持つエッセンスを何倍にも膨らませたものとして、表現されます。

本作のタイトルにもある「歌謡曲」という「人生」。各話の登場人物の「人生」は、必ずしも夢、憧れ、悩みなど未来へ向かう視点ばかりではなく、実は本編のその大半が、挫折、喪失、回顧など過去への想いに成り立っています。たとえば私たちが、過去に失った何かに思いをはせるとき、その痛みや疼きは、時には甘く、時にはほろ苦く、心をじわりと刺激していきます。本作は、そんな私たちの想いを呼び起こし、いまだ経験したことのない感情さえも掻き立てるかのように、一編一編が紡がれていかれるのです。

才気あふれる監督たちの手によって描かれた歌謡曲。蛭子能収が監督を務めた作品(第8話「いとしのマックス」)はもっとも監督の独自色が色濃く現れたものの代表ですが、こういった監督たちの独自の手腕によるものだからこそ本作は懐かしい感覚が“色鮮やかに”描かれたのでしょう。
またそれは、歌謡曲の持つ性質こそがなせる業なのかもしれません。一貫して世界観をあまり変えることなく継承されてきた演歌などのジャンルとは異なり、今だからこそ古さが目立つものの、かつての若者の青春の象徴という意味をも持っていた歌謡曲。「かつての」という回顧的なニュアンスこそが、歌謡曲すなわち本作の魅力なのです。懐かしさと共に今ふたたび語られ、現代に生きる人々が当時の感覚を再共有することこそ、本作「歌謡曲だよ、人生は」の醍醐味なのではないでしょうか。
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# by murkhasya-garva | 2007-07-22 22:48 | 映画

300

「300」(2007)
b0068787_1446379.jpg「シン・シティ」(2005)で、独特の色彩を用いてハードボイルドなアメコミの世界を実写化したフランク・ミラーが製作総指揮として、「ドーン・オブ・ザ・デッド」(2004)のザック・スナイダーが監督をここでも執った本作。スパルタの戦士たちが、100万人の軍勢を率いたペルシア帝国の脅威にたった300人で立ち向かったという勇猛果敢な戦いを迫力たっぷりに見せてくれます。

「シン・シティ」のためらいもない暴力描写には、息を呑むような迫力がありました。今回もスゴイものを見せてくれるだろう!!と期待して行ってきたのですが、いやーすごいですね。ザクザクと敵軍を蹴散らしていくその光景は、もうまさにカタルシスです。考えてみれば多勢に無勢、300vs1,000,000ってどう考えても勝ち目はありません。余りにも少人数のスパルタ軍はいつ全滅してもおかしくないわけです。そんな死と隣り合わせのスパルタには、ただただ固唾を呑んで見入ってしまいます。

「残酷な描写が苦手な人には辛いかもしれませんが…」と受付の女の子は忠告してくれましたが、苦手でわざわざ観に来るものかね。最前列で飛び散る血しぶきを見ながら、一人うおお、ぬああと呻いて興奮してました。ヤバイですね。
そんな戦闘場面は本作のメインだといっても過言ではありません。戦闘シーンというのはどうしても長く続くと飽きたり、もとからハイスピードについていけなかったりするものですが、本作はそんな問題点は充分すぎるほどに克服しています。カメラのワンショットをなるべく切らず緩急でメリハリをつけることで、流れが途切れることなく、観客の目がついていけるようにしてあります。また、色調をあえて抑え目に、でも流血は真っ赤すぎるほどにとコントラストがはっきりしているのもミソですね。これによって勝利が決まっていない戦いゆえの緊迫感や戦闘そのものの迫力が、相当高められているのではないかと。

ただ、どうしても気になることが一つ。ラストで眼帯の男・ディリオスが「神秘主義と専制政治を打ち破るために!」と戦いの雄たけびを上げるのですが、あそこでぼくは思わず吹き出してしまいました。ここにきてスローガンが政治的だとは!!

それまで戦士たちは、政治的にどうこう以前に職業戦士という自分自身の名誉を賭け、(もはや勝利すらも目的ではなく)いわば戦闘のための戦闘を行ってきました。生死といった利害さえ超えた彼らは、もはや常人の理解の届かない域にある。だからこそ、強大な力を持った帝国の王までも、その不可解なほどの暴力の恐怖に震え上がったのではないか、そう思うのです。
それなのに、眼帯の男は叫ぶのです。もちろん大勢の兵士を鼓舞する理由として必要なんだけど、実のところ、政治的な理由付けをしなければ、戦闘を必然的なものにすることができなくなっていたという意味で、スパルタ軍は原始的な強さを失ってしまったとしか言いようがない。

でもスパルタ軍の戦力的な成長は、その政治的な側面を抜きにして語ることは不可能です。
限りなく純粋な戦士を育成する一方で、スパルタは、絶対的で、それゆえに腐敗しきった司祭たちと、国の動向を決定する役割をもつ議会に、その自由は制限されています。ストーリーではこの司祭と議会が、あろうことかペルシア軍と手を組み、スパルタ軍の戦争を阻もうとするのです。ここからディリオスのペルシア軍へ向けた最後の叫びは、目先の利害に囚われる議会と司祭たちに対する批判とも理解することができます。つまりレオニダス王率いた軍の伝説を語り継ぐことによってディリオスが再編を果たした軍隊は、そういった政治的なものとの衝突を経て、現実的には明らかに増強されたものとして現れることになったのです。
しかし、もはや伝説となったレオニダスの軍の根源的な強さとは決定的にかけ離れているような気がするんですね。

だから、ディリオスのセリフを聞くと、どうしても違和感を感じてしまうんですよね。なんだかなあ、と。カッコよくないんですよ。戦闘シーンの勢いこそが本作のメインである以上、ラストの締め方は蛇足のニオイを感じずにはいられないのです。
そんなことを言うお前はアナーキストだと言われたらそれまでなんですが。
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# by murkhasya-garva | 2007-07-12 14:47 | 映画
「ダフト・パンク エレクトロマ」(2007)
b0068787_18161152.jpg この予告篇、映画を観に行くたびに流されてたんです。たぶん知名度が低いだろうからと劇場側も考えたのかもしれません。ヘルメット姿の二人の男や、フラッシュバック的にちらつく炎の映像、グオングオングオン…という音響が何とも有機体と無機体の間をさまようような薄気味悪さを醸し出している。ぼくは好奇心をやたら掻き立てられ、ついに観にいってきたのです。


この作品はダフトパンクというハウスミュージックのユニットが作ったもの。彼らは、松本零士とコラボレートした「インターステラ5555」という映画や、またVAIOのCMで使用された「One More Time」という曲などで、日本でも話題になっています。現時点ではアルバムも6枚リリースされています。
そこで電子音楽のたぐいにあまり詳しくないため、さっそく「daft punk」というそのまんまのタイトルのアルバムを借りて聴いてみたのですが、これがけっこう耳にハマる。電子音と肉声が境界線を超えて交じり合うような音響と、繰り返し響く心臓の鼓動のようなビートが沁みこんできます。アッパーな曲ではないのに、つい何度も繰り返して聴いてしまう音楽です。他のアルバムはと言うと…「Human After All」くらいしか聴いてないな。あまり偉そうなことは言えません。

ではそんなダフトパンクが手がけた本作はというと…幻想的な映像に見惚れるもののどこから切り込めばいいのか分からず、面食らいました。ストーリーに起承転結みたいな流れがあるわけでもなく、刺激的な映像が映るわけでもない。かといって、どうしようもないナンセンスという訳でもなく、ただ、妙なことに全編を通してデジャヴ感がつきまとうのです。

ストーリーは、カリフォルニアの荒涼とした光景を貫く一本の道路から始まります。そこをフェラーリで走る2体のロボット。彼らが通る街には、人の代わりにロボットだけが生活を営んでいる。この世の終わり感を漂わす絵柄に、近未来的な印象を受けます。2体は人間になりたいと願い、ロボットの住む社会に背を向け、改造を受けます。

しかし、ストーリーを順次説明したところで話の流れ自体は単純なため、あまり要領を得ないのです。それに1回観ただけではよく分かりません。というのも本作は、繰り返して観ることで、味が出てきそうな感じがしてならないのです。例えて言えば、噛めば噛むほど味が出るスルメのような作品。これはぼくの電子音楽の聴き方にも通じます。1回、2回と重ねて聴いていくほどに段々とハマっていく。作品のディテールに至るまでの綿密なこだわりや、引用的な映像や音楽に込められた「裏」の意味に気付いていくことで、作品全体の世界観や意図を理解が深まっていくようです。

例えば2体のロボットとは、ダフトパンクのメンバーであるトーマ・バンガルテルとギ=マニュエルのことでしょう。実際に2人ともアンドロイドだと自称し、仮面をかぶり素顔を見せません。
世界観では、“遠い昔、人間が忘れ去った場所に、ロボットたちの世界が秘かに息づいている”、と考えると、デジャヴ感も人間の文明の名残のひとつとして役割を果たしているように思えてきます。BGMでは、例えばロボットの手が燃え出すときに流れる、ショパンの「24の前奏曲作品28 第4番ホ短調」。これはショパンの葬儀のときに演奏されたものなのだとか。ロボットの死の予感がショパンの曲によって、いっそう終末感を匂わせます。

本作で挙げられる「映画的引用=サンプリング」や音楽とは、ダフトパンクというアンドロイドユニットの世界観の一翼を担い、ひいては彼らの音楽が持つ背景や志向性としても理解できます。本作では、何とダフトパンク自身の楽曲は一切使われません。用いられているのは、全て他の作曲者の手によるものばかり。つまり、敢えてオリジナルを使わないことで、本作が引用と背景によって成立していることをより明確に示す、ということでしょうか。

どこかで観たシーン、どこかで聴いた音楽・・・でもその出所は皆目見当がつかない(単に映画の知識が足りないだけ、とも言いますが)。解説に『映画的引用<サンプリング>の豊かさとその音楽に共通するストーリーの深淵とを意識させる』とあるくらいなので、相当な量で引用がされているんでしょう。そういえばどこかで、ゴダールが「映画はもはや模倣に過ぎない」みたいなことを言っていたような気がしますが、「映画的引用」と言ってしまえば、模倣であることの嘆きは既に問題にすらなりません。そもそもオリジナルとは模倣の集積だと指摘した方がいました。ようやく映画も、模倣が作品に力を与えるだけの歴史を持つようになった。そう考えると、この作品は映画の新たな意義を明らかに打ち出した、新時代の作品の一つだと言うことだってできるでしょう。

映像は確かに幻想的で、それを追っていくだけでもそれなりに楽しいのですが、この作品の醍醐味は読み解きにあると思います。公式サイトにも読み解け、といわんばかりの音楽のリスト。
よーし、やったろうじゃねえかって気になってきませんか?
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# by murkhasya-garva | 2007-07-06 18:18 | 映画
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ミシェル・ゴンドリーといえば、「エターナル・サンシャイン」(2004)が有名です。恋人を失った男が、彼女とのつらい記憶を削除してもらう話。主人公はしかし、記憶世界で削り取られていく彼女の記憶を失わないよう奔走します。その彼の記憶の中は現実と幻想が混ざり合い、その境目がはっきりしなくなる映像が特徴的です。新作の「恋愛睡眠のすすめ」はその流れを受け継ぎ、より幻想的なストーリーと映像になっています。オープニングは絵の具を撒き散らしたようなカラフルなシーン。渦を巻きながら広がっていく色を見ていると、まるで夢を見ているように思えてきます。

「恋愛睡眠のすすめ」(2006)は、夢と現実の区別が付かない青年・ステファンの恋物語。「エターナル~」では記憶と現実はいちおう、ちゃんと区別されていたのだけど今回は夢遊病のケがある男の世界です。夢を見ているあいだ現実で体も動くという夢遊状態。しかも彼は起きても頭の中で夢ビジョン。どこまでが現実なのか分からない。ゆったりと流れる音楽、淡くやわらかい色彩、その目くるめく映像を見つめていると、何だか全部が思い通りに行きそうな軽い全能感に包まれてきます。気持ちよ~くなれます。軽いトリップというやつですね。

b0068787_071768.jpg前2作品のように、独自性を強く押し出した作品を作るゴンドリー監督ですが、一方でドキュメンタリーを作ったりもします。「ブロック・パーティ」(2006)は、ラッパーのデイヴ・シャペルがブルックリンで黒人を中心とした無料コンサートを開催するまでの話です。カニエ・ウェスト、ローリン・ヒルなど有名な歌手がずらり揃い、それぞれの曲を披露してくれます。


本編はいわゆるブラック・ミュージックというアクの強いジャンルゆえ、個人的には少し食傷気味でした。でも、彼らの歌に現れる強烈なメッセージ性、渇望するほどの共同体願望は、観る者に確実に生命力を吹き込んでくれるようでもあります。

音楽ドキュメンタリーは数多く作られるけど、大抵は特定のグループや個人をあつかったもの。イベントがテーマなんてそう聞きません。本作は必要以上のメッセージを盛り込まずに、イベントという一夜の出来事の空気を忠実に活写します。そのため監督の独自性は極力抑えられ、インパクトに欠ける感はありますが、それでもしっかりと観客に「楽しさ」を伝えてくれるのが素晴らしいと思います。

そして今回4作品で最早期に作られたのが「ヒューマンネイチュア」。「恋愛睡眠~」「エターナル~」の監督の独自性と「ブロック~」のストーリー重視の間を行くような作品です。この3作品以前の、2001年に作られました。野性人に育てられた男・パフを森で見つけたネイサンとライラ。ネズミにテーブルマナーを教える実験をするネイサンは、パフに礼儀作法を覚えさせようとします。一方でネイサンはライラの体毛の濃さから関係が冷め、助手のガブリエルとの浮気を続けますが…

「自分をサルだと思いこんでいる男」「宇宙一毛深い女」「ネズミにテーブルマナーを教える博士」、この奇抜な設定でストーリーが組み立てられます。先がなかなか予想できない上、ラストはうまい具合に収束していく。最初から最後まで目が離せません。映像効果がどうというより、ストーリーのうまさが目立つ作品です。こういう新しい世界を見られる魅力があるから、映画を見るのがやめられないんです。

ミシェル・ゴンドリーは、突出した才能で勘客がたまらず魅了される、という監督ではありません。言ってみれば、一つの持ち味を活かし、それを中心にバランスの取れたものに仕上げてくるような監督です。今回のオールナイトも席の6、7割とけっこう埋まっていました。幅広くファンを獲得できる監督のようです。今後の作品が楽しみです。
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# by murkhasya-garva | 2007-06-22 00:04 | 映画

渡辺文樹@大阪

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6/19、大阪府立青少年会館で、渡辺文樹監督の映画を見てきました。10:30から「腹腹時計」、13:00から「罵詈雑言」。彼の作品はいずれも過激な内容のため、一般の映画館では上映されていません。渡辺氏は各地の施設を使い、独自に上映会を行っています。また上映会が行われる地域ではたいてい、ゲリラ的に電柱などにポスターが貼られます。作品の未見の方もポスターを目にしたことがあるでしょう。目を疑うような過激なキャッチコピー。




初めて目にした小学生の時分、「彼女は便槽の腐乱死体を愛した」(だったか)、「ゲロ袋あります」などというコピーが「罵詈雑言」のポスターに貼られていて(↑の画像)、幼心に恐れおののいた記憶があります。

さて、「腹腹時計」はテロリストが天皇暗殺を図り、爆弾を使って攻撃しようとする内容。腹腹時計とは、「爆弾製造の地下出版物の名」だそうです。活動家・渡辺は渡辺監督自身が演じています。
映画としては(彼自身、謙遜して言うように)余りにつたない。役者は監督も含め、ダイコンです。もろ説明的な台詞回しの会話を無表情に棒読みするので、どこを強調したいのか分からない。ストーリーの伏線も読みづらく、いきなりとも思えるような場面転換。細かい設定も活かしきれず、まるで取ってつけたような印象しか受けません。
「いやあ、ひどいの見ちゃったなあ…」というのが見た後の率直な感想です。

そして「罵詈雑言」。1989年2月28日、福島県で起きた青年の変死事件の謎を、監督が究明すべく再現映像とともにドキュメンタリーとして制作しています。監督自身が「怒りをもって作った」と言うだけあって、内容は監督の猛烈なインタビューによる村の人々との苛烈な争いが映されます。こっちはすごい。ドキュメンタリーの生々しさがビリビリ伝わってきます。

1989年から5年後、監督は事件関係者に取材して回ります。教員住宅の便槽で見つかった男性の死体。事件は「のぞき」が目的の結果として結論付けられますが、その不可解な事件は、じつは他殺によるものではないかと監督は疑います。もし他殺なら、地域全体が…。
「あんた知っているんだろ。本当のこと言いなさいよ!」
「だから知らないって言ってんだろ!何カメラ撮ってるんだ。帰れ!」
というような苛烈極まるやり取りがインタビューする先々で起こります。よくこんなことをやるな、と圧倒されると同時に、このような特定の人々のプライバシーに直接関わるような問題である以上、一般公開は明らかに無理だと思わされます。

社会の暗部に対し常に問題意識を向け、告発を続ける渡辺氏はかなりの行動力を持った方であるのは間違いないでしょう。その行為が適当か否かは、ここで敢えて結論付けません。「腹腹時計」の内容は政治的に納得行かないものがあります。また「罵詈雑言」はアプローチの客観性に疑問があるし、そして門外漢である以上、いわゆる“事件の真相”を判断することは不可能だからです。
しかし、この作品群を単なるトンデモだと言い切るのではなく、この反体制という監督の視点をさらに批判的に捉えてみるのもいいんじゃないでしょうか。
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# by murkhasya-garva | 2007-06-21 11:22 | 映画

西瓜

「西瓜」(2005)
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上映が始まった瞬間、どこのポルノ映画館に紛れ込んだのかと錯覚しましたが、ここは紛れもない京都の名画座、京都みなみ会館。キャストは「楽日」と変わらず寡黙だけど、この静かなフィルムはやっぱりすさまじく饒舌なのです。



ほぼ無人の通路、西瓜を抱えて歩くナースに目が行くのも束の間、彼女は西瓜を股に挟んでスイカプレイ。真っ赤な果肉はまさに彼女の体の一部。ある人は笑い、またある人はおもむろに足を組み。このコミカルで妙にリアルな情事を皮切りに、ミュージカルシーンと恋人たちの日常とが代わる代わる映されます。

夏の暑い日に偶然再会した二人。女(チェン・シャンチー)は男(リー・カンション)を自宅に呼び、スイカジュースを振舞います。しかし実はスイカジュースが苦手な男は、彼女が見ぬうちにこっそり窓から流してしまいます。
ちなみにスイカは一番初めに、明らかに性的な象徴として使われました。
スイカをむさぼる女と、スイカを拒む男。それなのに二人は、何故かどこまでも仲むつまじいのです。

性的な表現(ポルノ)が用いられながら、その中心に居るのはプラトニックな二人の恋人。このねじれは幻想、つまりミュージカルシーンに強く影響してきます。時折挟まれるミュージカルは、その前のシーンでの登場人物の心情を代弁します。まさに限りある現実を補うかのように、幻想が豊かにスクリーンを彩るのです。その幻想があまりにカラフルなので、現実/幻想は、影/光と立場が逆転してしまっているかのようです。もしかすると幻想とは、現実の原動力なのかもしれない、とも思わされます。

しかし、現実はかたくなに、二人が結ばれることを許しません。代わりに、現実世界には幻想的なシーン、または欲望がところどころに形を変えて滲み出してきます。鍵を掘り出した跡からは水が湧き出し、二人の影法師はカニをむさぼり、彼女はスイカを抱えて妊婦の真似ごとをします。何だか話が進むにつれてオカシナことになっていくのです。が、彼女が男の現在の職を知ってからその欲望は、ただ一つの方向に的を向け始めます。

余談ですが、この幻想/欲望の光景は、なぜ二人を介してとめどなく溢れ出すのでしょうか。あらゆるものが手に入る時代に、人は満足しきることをいまだ覚えません。今欲しいものが手に入れば、次の欲望が生まれる。しかも欲望の対象は、消費されるモノばかり。その中で人は“精神的な受け皿”を見失いそうになるのです。
監督は、その疑問に対して一つの答えを呈示すると同時に、その後のあり方を問うてきます。彼らを「空に浮かぶ二片の雲」に例え、何処へ行くのか、と。

本作はセックスという題材を通じて、人の現実と幻想の密接な関係を色濃く描き出します。考えてみれば、すぐに寝てしまう映画ほどつまらないものはありません。本作のプラトニックな二人は、スイカと言う性的な象徴を間に置きながら、かつてないほどエロティックで、そして(ここが重要)自由な光景を映し出します。不自由で、しかし目いっぱいに自由奔放な映像に、私たちは怯み、笑い、そして気付いたときには思わぬほどの活力をもらっていることでしょう。
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# by murkhasya-garva | 2007-05-28 00:40 | 映画

楽日

「楽日」(2003)
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ツァイ・ミンリャン監督特集が京都みなみ会館で開催しています。もう5月25日、今週の金曜日にも上映は終了してしまうのですが。是非見なければ。そう思っていたのに、「迷子」「Hole」はまんまと見逃してしまった…ハチャー!!



『ヴェネチア映画祭でのこの映画の上映は、ちょっとしたハプニングとして今も語り継がれている』とチラシは語ります。ラスト5分間にわたる無人の観客席を映すショットに観客が困惑したというのです。たしかに無人の観客席は、まるでここにいる私たち観客を映し出すような思いを抱かせます。

『何かの間違いではないか』
そんなはずはない。それまでの語り口を見ていれば分かることじゃないか。ぼくはこのショットからスタッフロールの間に、全てが流れ込んできたような感覚に襲われました。去り行く映画館への想い、そこここの出演者たちの存在、長い長いショット群の饒舌な沈黙。静かに、しかし確実に何かが見る者の心に染み込んでゆき、ラストショットを我が身に感じながら劇場を後にするのです。

ただ最期を待つ映画館をめぐる静かなショットは、なぜあれほど私たちにそれぞれ深い想いを抱かせるのでしょうか。そこには映画の「鏡」としての力が見えてきます。
観客はスクリーンをじっと見つめ、何らかの意味を見出そうとします。しかし本作は多くを語りません。普段はあんなに口うるさい映画が沈黙すると、私たちは逆に想像を凝らします。すると何も語らないはずのスクリーンは各個人の過去や気持ちを映し出し、とたんに饒舌になるのです。まさに映画は、私たちを映し出す「鏡」なのだと思います。

しかも本作は、年経た映画館を隅々まで映します。まばらに人のいる観客席、温もりを求める青年、館内の至る所を歩き回る人々、受付の女性がめぐる劇場の裏、あらゆる場所に映画館の記憶が染み付いているのです。この新鮮ながらもどこか懐かしい光景に、観客の人々は改めて監督の、そして自分自身の映画館への想いを確認することでしょう。

往年の名作が上映されるひと時、無人の映画館に思い出があふれます。丹念に選び取られた長いショット群は決して退屈なものなんかではありません。今まで私たちが感じてきた映画館への愛と、見過ごしてきたショットの積み重ねとしての映画の大切さを再認識させてくれる大切な瞬間なのです。

かつてない形で映し出された本作は、しかし私たちの映画体験の原風景でもあります。身震いするような感動ではなく、いつまでも胸に沁み込んで行くような幸福に、鳥肌を抑えることができません。
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# by murkhasya-garva | 2007-05-24 19:21

リーピング

「リーピング」(2007)
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おすぎの映画ブログにも書いてあったのですが、大きく宣伝されていないが良い作品というのはままあるものです。ホラー専門制作会社のダークキャッスルが放つ、ヒラリー・スワンク主演作品。手堅くて、演出も良いと思うんだけど…。



ダークキャッスルと言うと、「ゴーストシップ」「ゴシカ」「蝋人形の館」の記憶があります。どれも評価は高くなかったけど、ホラーとしての要素を持った、ホラーらしい作品ばかりだったような…と。そして今回も何かまあそんな感じです。最近見た作品の“怖さ”に比べれば一枚も二枚も劣るような気がするのですが。

さて本作は、旧約聖書の「出エジプト記」にある十の災いが下敷きです。ヒラリー・スワンク扮する大学教授キャサリンが、ルイジアナの片田舎ヘイブンで起こった怪現象を科学的に解明しようと向かいます。というのもヘイブンで起きた怪現象が旧約の呪いに似ているというのです。しかも、事件の中心にいるのが、まだ幼い少女だという。キャサリンは過去の個人的事情からも興味を持ちます。

ご存知のとおり旧約聖書とは、キリスト生誕以前の物語です。エジプト王がユダヤ人を解放しようとせず、神がエジプトに対し災いをもたらしたというのが、この「十の災い」。つまり、言わば邪悪な存在に対して災いが落とされるわけです。本作でもそれはラストまで一貫しているはず。
しかし話は二転三転します。一体誰が悪魔だったのか?

ここに、本作の“怖さ”があると思うのです。もちろんドーン!!と何度も衝撃音にビビり、至近距離で襲い掛かるイナゴの大群に鳥肌、というのも充分ありなのですが、それ以上に、真実や現実がはっきりしないのは怖さの原因になります。今まで敵/味方とおもっていた相手が実は逆だった、それが何度も繰り返されれば段々と疑心暗鬼になります。本当にこいつは自分の見方なのか、まだ自分は騙されているんじゃないのか、と。

それは、現実が自分の手を離れる瞬間、と言ってもいいでしょう。今まで信じていたことが崩れていく、主人公はその体験を何度も経験するわけです。愛娘を失って信仰を棄て、本物の奇跡を目の当たりにして科学をあきらめ、そしてやっと見つけたと思った神の存在を見失って。本作では彼女の行く先に答えを与えません。この後、彼女は本当に信仰を棄てるのでしょうか。それとも現実を見極める理性すら捨ててしまうのでしょうか。

ありきたりにも見えますが、自分の現実(価値観とも言う)を失うという体験はなかなか恐ろしいものです。誰が神で、誰が悪魔なのか。もしかすると、自分が頼りにする神はどこにもいないのかもしれません。
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# by murkhasya-garva | 2007-05-23 11:38 | 映画
「こま撮りえいが こまねこ」(2007)
b0068787_16295839.jpg京都みなみ会館に映画を見に行くと、予告篇で決まってこの作品が流れるんです。ゆったり、ほのぼのとした挿入曲が良い感じを出しています。新たなコマ撮り人形アニメーションが、NHKで「どーもくん」を作ったコンビ、合田経郎監督とアニメーター峰岸裕和によって作られました。



かわいいかわいいかわいい。そういえば羽海野チカがマンガ単行本の帯にそう書いていた。何の単行本だったかは忘れたけど。「こまねこ」にもその賞賛をあげたい。もうっカワイイ!!最近は「カワイイ」という表現が色々なものに使われていますが、これはいわば王道のカワイイ。なぜそんなにカワイイのかと言うと…もうそろそろカワイイがカイワレとかカイヨワとかカイワイに見えてきたでしょう。やり過ぎはいけません。

本作品は、東京都写真美術館にて「公開制作プロジェクト」として行われたのがきっかけの短編人形アニメーションです。ぬいぐるみ、切り紙、ペン画を用いたそれぞれのコマ撮りで、こまねこのこまちゃんをめぐるショートストーリー数編が描かれます。

このかわいさは、言い換えれば「愛らしさ」です。例えば丸みを帯びたキャラクター造形。とある人は、円形の対象に人が好感を覚えるのは、赤ん坊をいとおしむ感覚からきているのだ、と言ったとか。主人公のこまちゃんも丸みを帯びたシルエットで、本作のキャラクターの中でも群を抜いて好感を持てると思います。個人的にはこまちゃんの上唇にあたるお肉のフワフワ感にやられました。

でも、キャラクターもなかなかのもの。例えばいぬ子はこまちゃんと対照的で、その憂いや寂しさを湛えた姿が印象的なのです。もうあの二重まぶたとぽてっとした下唇がたまりません。
え?ぬいぐるみからそんなことが分かるわけないって?変態かって?分かるんです。それに変態じゃないよ!!ふ~・・・。一般論に過ぎませんが、人間は相手のささいな仕草から様々なことを想像するじゃないですか。彼らにはそのニュアンスを読み取らせるだけの微妙な仕草があるんです。そう、本作のキャラクターは、そのかすかな身振り、表情がとても情感豊かに表現されています。その瞬間に、『可愛らしいものが(しかも)ナチュラルに動く』ことの醍醐味が込められているとも言っていいでしょう。

また、映像だけではなく音声も、作風を支える大切な役割を担っています。まず全てのキャラクターに台詞がなく、代わりに「ふうん」などの呟きとか「にゃあ」「わん」といった擬音語を話します。言語を介さないコミュニケーションは、私たちの限定的な生活場面をすり抜け、もっと人の心の深い部分で波紋を起こします。言ってみれば、より多くの人が分かるものになると思うのです。
また、言語を使わない擬音語のみのコミュニケーションは、その『音』が映画作品の一部ともなります。こまちゃんの愛らしい声、おじいさんのつぶやきも風景となり、感覚での理解が可能となります。オタール・イオセリアーニの「四月」もそんな感じでしたね。

「ひとコマひとコマ愛をこめて制作された」と言うだけあって、本作品はていねいなキャラクター造形、繊細なニュアンスがたくさん詰め込まれたものとなっています。可愛いもの好きには是非オススメですが、そうでない人にもこの感覚は通じるはずです。もーかわいいっ!!
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# by murkhasya-garva | 2007-05-10 16:30 | 映画
「パフューム~ある人殺しの物語~」(2007)
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パフュームはともかく、何という副タイトルだ。原作そのままです。最近の洋画のタイトルは、昔と比べて直訳、そのまま横文字が多い。本作ではおすぎや假屋崎省吾などの推薦分をノボリに載せるなど、工夫してるようですね。



“におい”―嗅覚は、映像にとって表現しにくいもの。視覚、聴覚はともかく、嗅覚、味覚、触覚の表現は監督の手腕にかかっています。なかでも嗅覚は、映像とはもっともかけ離れた感覚です。その表現方法にアタマをひねるより、省いてしまうほうが楽かもしれません。

数年前に上映されたホラー『蝋人形の館』で、においを表現しようとした部分がありました。―木々が突然、風で揺れる。若者たちはいっせいに顔をしかめる。「何、このにおい?」―たったこれだけのシーンを今でも覚えています。その「においの表現」という違和感は、逆に真実味を感じさせました。

本作では、においの表現方法として“鼻”が重要な役割を果たします。ある人は目をつぶり、口を閉じて、鼻を前に突き出してにおいを嗅ぎ取ろうとします。また、至るところで鼻を鳴らす音が聞こえます。香水をかぐ人は、鼻から訪れたその幸福に恍惚とした表情を浮かべます。では、これがリアリティをもたらすか?残念ながら、リアリティと言う点では不十分だといわざるを得ません。

「蝋人形の館」のワンシーンに劣るとは決して言いませんが、残念ながら映像で嗅覚は完璧に表現などできません。その代わり、本作では音楽、色彩、演技といった嗅覚以外での徹底した表現で、嗅覚で得る感覚を蘇らせます。ラストの群集の演技―グルヌイユの放つ香りに正気を失う人々―これは、群を抜いた迫力、本能レベルで観る者を不思議な世界にいざないます。

ストーリーも「感じる」ことを大切に、寡黙な主人公の常軌を逸した行動をじっくりと捉えています。映像勝負と言う感じです。例えばマーマレード色の髪の娘を間近で秘かに「嗅ぐ」という行為!!これはフェティシズムに通じる姿です。
また、ナレーションも控えめにしていますが、いっそ全くなかったほうがよかった。後半は特に観客が本作に没頭していきます。ごたくなんていらんのです。これは「感じる」映画なのです。

嗅覚というもっとも映像からかけ離れた感覚。これを表現するために、本作は他の感覚を総動員するような表現を実現させました。目で見る悦び、耳にする愉しみ。突き詰めるとそれは本能的欲求へつながってゆきます。身体感覚に肉薄する映像を、じっくりと堪能してみて下さい。
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# by murkhasya-garva | 2007-03-25 12:39 | 映画