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by murkhasya-garva
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<   2010年 05月 ( 5 )   > この月の画像一覧

現在、アラン・レネの2作品が京都みなみ会館で上映されている。『ヒロシマモナムール 二十四時間の情事』は5/24-30、『去年マリエンバートで』(HDニューリマスター版)は5/22-6/4。

今回は、2作品併せて感想を書くことにしよう。いずれも筋書きを追うには情感的で、無理にストーリーが云々というような言い方にこだわると、多くの要素を見失ってしまいそうな気分になってしまう。特に『去年~』は、以前蓮實重彦がどこかで論じていたのを思い出す。彼の文体は、今思えば非常に情感的で、論理立てることよりも自身が感じ取ったことを描写し尽くすことに重きを置いていたような気がする。少なくともこの作品に限って言えば、そのアプローチは正解だったのかもしれない。というよりも、アラン・レネの両作品が、情感という者に対して強いこだわりを持って作られていた、と言った方がよいのだろう。


『ヒロシマモナムール 二十四時間の情事』(1959)
b0068787_0123749.jpgいずれにせよ、一つずついこう。まずは『ヒロシマモナムール』について。広島のホテルの一室で、日本人男性とフランス人女性が肌を重ね合わせている。まさかこんなところで出会うなんて。あなたは私を殺し、幸せにする。また、彼女は続ける。私は見た、広島の姿を。しかし男性はこれに対して否定を重ねる。いや、あなたは何も見ていない。


何度も同じ文言を連ねて交わされるお互いの声は、詩句のようにも思える。しだいに、同じ言葉――たとえば「あなたは見ていない」という返答――は、異なる意味を持って響いてくる。

ヒロシマ、という場所は、世界大戦の終結を示す衝撃的な出来事が刻まれた記念碑的な意味をもって捉えられている。それは日本人だけではなく、少なくともフランス人にもだ。あの悲劇を忘れてはならない、と。女は、作中でこの出来事を恋愛に喩える。それは、自らのからだに刻みつけられるような衝撃そのものとして。しかし、その狂気にも似た出来事さえも我々は忘れ去ってしまう。無関心と忘却という形で。では、我々はどのようにしてゆけばよいのか?男女は途方もない言葉を交わし、少しずつこの問いへの答えを了解し合っていく。この答えに近づくヒントは、最後の会話に添えられている。あなたの名前はヒロシマ。君の名前はヌヴェール。

それまでお互いに名を呼び合うこともなかった2人が、最後にお互いを地名で呼び合うのだ。それぞれの地は、それぞれにとって馴染み深い場所だ。女にとってヌヴェールは青春時代を過ごし、もっとも狂気に近づいた場所。男にとってヒロシマは日本人としての位置付けを決定的なものとした場所として。しかし間違ってはならないのが、それぞれの地名を本人が自らに付けたのではないという点だ。ヌヴェールは男にとっての彼女の姿であり、ヒロシマは女にとっての彼の姿なのだ。どちらも、「あなた」という存在を忘れないため、単なる対象として風化してしまわないよう、記憶は幾重にもイメージとして重なり、それによって希薄だった出会いという出来事、時代という出来事、そして事件という出来事が、強烈に引き寄せられて血肉をもって現れるのだ。

反戦の意を込めて本作は作られた、と言ってもよいのだろう。ヒロシマという場で、愛が交わされ、その在り方を真摯に問うという作品が出来上がったことだけでも、本作は覚えておかれる意義があるのかもしれない。


『去年マリエンバートで』(1961)
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次は『去年マリエンバートで』について。壮麗なバロック建築の建物で、人々は休暇を過ごしている。観劇、ゲーム、そしてお互いの会話を楽しみながら、時間が過ぎてゆく。その中で、2人の男女が語りあう。去年、あなたとここで出会い、駆け落ちするという約束をした。しかしあなたは1年待ってほしいと言ったではないか。女は覚えていない、そんなことは言っていない、と言い張る。男が偽っているのか、女が本当に覚えていないのか、最後まで会話が絡み続けていく。






かつて記憶に関して新しい視点を提示したのはプルーストだと言われているが、本作もまたその影響を受けているのかもしれない。そこまでプルーストについて知っているわけではないので、カジリだけ盛り込んでおこう。要は記憶の中で現実は作りかえられていく――「円熟する」ということを述べた人だ。本作でも同じ一連のせりふが繰り返し朗読される(はじめの部分だ)。また、断片的に挿入された言葉が、不意に誰かの口を借りて新たな意味を持って語られることもある。そして、男女の語らいの中でも、男の主張は何度も繰り返される。男が語る内容は少しずつ映像化されてゆくのだが、そこには何らかの改変かなされていく。別に、男がウソを意図的に盛り込んでいるわけではないようだ。しかし、それを聞いている彼女にとってその情景はしだいに変化してゆき、ついには彼女をパニックに陥らせるにまで至る。しかし、私が本作を見ていて感じた点がここに一つある。当り前のことなのだが、これは犯人探しの物語なんかではない、ということだ。つい、あの奇妙に細長い顔をした不気味な目つきの男が裏で糸を引いているのでは、などと疑ってしまいそうになる。そうではない。ごく丁寧に積み重ねられた言葉の中で、人は自身の現実を少しずつ変容させていく、という体験的な面にこそ本作には視点を向けて見るべきなのだ、と思う。

この作品で思い出されるのは、ゴダールのあの奇妙な音楽の断ち切り方や、『マルホランド・ドライブ』で登場した泣き女のシーンだ。現実がまるで作りもののように、当然のように思われていた流れを止め、突然立ち止まる。人々は彫像のように美しく、微動だにしない。美しさと奇妙さが同時に湧き立ってくる数々の場面は、とくに本作を思い出すときによみがえってくる。

考えてみれば、いずれも男女の愛を主題としたものなのだ。ただ、それぞれは変奏のなされ方が異なっており、アラン・レネの真意はさまざまな姿を取って表されている。恐らく『去年マリエンバードで』のほうが、より抽象的という点で複雑に要素が絡み合っているように思われる。これまでに数多くの映画評論家たちが語り尽くしてきたのだろう。いずれもが正しく、いずれかが正解というわけではない。それらを総合したものがこの作品たちの姿だとくらいに思ってもう一度観てみると、より面白みが増してくるのではないだろうか。
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by murkhasya-garva | 2010-05-31 00:17 | 映画

馬頭琴夜想曲

『馬頭琴夜想曲』(2006)
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これまで多くの映画の美術監督を務めてきた木村威夫氏が、自ら監督として製作した作品。これが公開されたのは4年前。きらびやかなスチルに興味を引かれていたが、当時は見に行けず。今回は、京都みなみ会館の木村威夫特集の一つとして本作が上映されている。5/22まで。



冒頭、降りしきる雪の中に見える淡い緑の西洋建築。よく見ると作りものだとすぐ分かるのだが、それと合わせて降り続ける雪もまた作りもの感が強くて、見ようによってはフィルムの劣化にも映る。それともこの作りもの感、どうもパペットアニメーションっぽくないか、なんつて思いながらも一層幻想的な感じでまたいいなあ、とそんなのは序の口にすぎなかった。

その西洋建築は教会で、入口から出てくるのはシスター。まず彼女が生身の人間なのに驚く。舞台のようなしつらえ方は、鈴木清順監督の『オペレッタ狸御殿』(2005)のようでもある。これは「見せる」ために作られた舞台だなあ。リアリティとか関係ねえな。手描きの絵と切り出されたような小さなバレリーナ、そして異世界か紙芝居の世界を思わせる映像は、決して最新の技術を用いているわけではない。木村威夫その人が納得する方法だけを用いた、という感が次第に色濃く現れてくる。

内容も、そこまでストーリーが明確にされているわけではない。原爆体験をくぐりぬけて60年の歳月を過ごしたシスターの語りと、教会で育てられた少年の脚が奇跡によって治る物語が軸となり、鈴木清順ふんする“にせ予言者”の「ヨバネ」と山口小夜子ふんするザロメが馬頭琴をめぐってやりとりしている。何のこっちゃ、と思われるかもしれない。私の説明がまずいのもあるけど、実際をみてもよく分からない。

実験映画のようでもあり、木村監督が好きに作った映画のようでもある。私には後者がしっくりくる。カラフルな映像にサンプリング音のミックス、そしてストーリーもテーマもあまり明確にされない、とくると、普段、映画を見る視点を取りあえず脇に置かないといけなくなる。確かに、原爆や戦争の悲惨さを宗教的、特にキリスト教を土台にして訴えていると言えるのだけど、それよりもなによりも、これは木村威夫という人の想いをそのまま映像にしているんではないか、という考えが頭から離れない。

そういう意味では、よくできた作品だと思う。映画好きの学生が作るようなアリモノの素材ではなく、自分の納得のいくモノを使い、主義主張を抑えながらも最後まで徹底して自身のイメージを美しく描き切る。これこそプロなんだろう。しかし、それだけなのだ。あまり知らない人の自叙伝を読んだ時のような感覚だ。面白いんだけど、「で?」って言いたくなるような。ベテランに向かって失礼は承知だが、見ていて目が覚めてしまいました。あまりよくない意味で。。。
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by murkhasya-garva | 2010-05-20 00:50 | 映画

河内カルメン

『河内カルメン』(1966)
b0068787_0444934.jpg鈴木清順監督の作品が見たくなったんです。以前鈴木清順監督で見たのは『オペレッタ狸御殿』と、あと何か。どちらも意味不明にゴージャスでストーリーが見えなかったためしばらく敬遠していました。そこで京都みなみ会館では木村威夫特集を行っていて、『河内カルメン』(1966)、『けんかえれじい』(1966)、『刺青一代』(1965)、『肉体の門』(1964)、『馬頭琴夜想曲』(2006)の5本が挙げられています。



特に『けんかえれじい』が見たいんです。数年前、京都映画祭で『女番長ゲリラ』(1972)でつかみ合いのケンカを見て、すんごく面白かったのを思い出します。それに、北野武の『OUTRAGE』(2010)がそろそろ公開されるといいます。もう期待に胸がふくらみまくりです。

でも、今回は『河内~』と『馬頭琴~』を鑑賞。『河内~』はとても素晴らしかった。テンポのよさといい、野川由美子の美しい肢体といい、全体に流れる熱い情念といい、たまりません。野川由美子ふんする露子は河内から大阪へ、そして職や住処を変えるたびに姿が変わっていきます。きっぷのいい女の子からキャバレー店員へ。垢抜けなさが無くなって美しく咲いた華のように。かと思うとファッションモデルに転身し、さらには初恋の人と再開して慎ましやかな淑女になる。見事に変わっていくその姿、ともすればめまぐるしく変わるストーリーに振り回されそうになるのだけど、一貫して流れているのは露子という、女性の姿であり、情念だと思います。

随所にハッとさせられる演出がとても多く、こうくるか!と唸ってしまう。まずは最初の男・カンやんとの別れのシーンを挙げてみましょう。「カンやんが怒らへんかったらうち、出て行きづろなるやん」と露子が言うと、カンやんは背中を向けてぐっと押し黙り、一間おいて洗濯物を畳みながらわざわざ売り言葉を投げつけます。互いに情が移った者同士、ケンカ別れを演じながら涙を流す場面には胸打たれるものがあります。

他にもたくさん、思わずこちらが身を乗り出してしまうようなシーンがありました。作品全体の勢いのよさ、役者のエネルギーが直球で伝わってくるような作品です。めちゃめちゃ面白かった。こういう映画にはあまり言葉を加えるとやぼったくなるのが関の山なので、取りあえず未見の方は見ていただくとして、すでに見ている人はぜひ感想を教えて欲しいものです。
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by murkhasya-garva | 2010-05-20 00:46 | 映画

愛のむきだし

最近観た映画の一つ。別媒体での(自分の)文章を部分的に改変、転用。横着して本当にすみません。

愛のむきだし(2008)
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敬虔なクリスチャンの家庭に育ったユウは、ある出来事を境に神父の父に懺悔を強要され始める。父の期待に応えようと、懺悔のために毎日罪作りに励むうちに罪作りはエスカレートし、いつしかユウは女性ばかり狙う盗撮魔となっていた。そんなある日、運命の女ヨーコと出会い、生まれて初めて恋に落ちるが…。








この作品を今まで見ていなかったことに心から後悔している。なんという映画。あまりに濃密で、あまりに情感的。薄められた空気から匂いたつ、そのしじまのような、たとえばフランスの伝統的な、愛についての作品であったり、それに類した最近の作品群とは質を異にしている。そう、映画とは「作る」ものだったのだ。写実派とは一線を画すスタンスで、園子音監督は本作を生み出した。セリフが、まさに太い釘のように容赦なく突き刺さってくる。前半はエンタテインメント、後半が社会への主張。なんとまっすぐな言葉を投げつけるのか。まっすぐに言葉を投げつける術すら、我々のほとんどは知らない。彼は登場人物を演じる人々に渾身の演技を求め、作品へと向かわせる。彼らの体から、口からほとばしるエネルギーの塊は、狙いを定めて振り下ろされたハンマーのようにこちらへ向かい、そして私はさんざんに打ちのめされる。

本編では新約聖書の「コリント人への第1の手紙」13章があげられる。この詩句は私の最も愛する作品、クシシュトフ・キェシロフスキの『トリコロール 青の愛』でも歌詞にされている。ヨーコ(満島ひかり)はユウ(西島隆弘)に向かってそれを一気に謳うのだが、その向かう先に居るのは、実は観客/私であった。彼女の見開いた強い瞳に気圧されて涙があふれる。


たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


(『聖書 新共同訳』より)


思うに、彼の作品は緻密に計算されて作られているのだな、と感心してしまう。ほとばしるエネルギーを込め、食傷にならぬよう細かな配慮によって237分が刻み通される。この長さで、私は何度も観たいと、即座に感じた。多くの作品では、もし2度目を観ることがあっても前半で気が萎えてしまう。園監督は、複数の視点から出来事を思わぬ切り口で数回にわたって映し出す。登場人物のそれぞれに物語、ドラマがあり、ある種の深淵をそれぞれが持つところまで描き出す。ゆえに作品は作品としての魅力、リアリティを帯びるのであり、同時に作品としての分析的関心をも呼ぶことになる。そこでは明らかな演出さえも違和感なく、その場を作り出す効果的なツールとして役割を発揮する。役者の力もまた、そこに貢献しているのだろう。

ありていなリアクションではあるが、ユウが初めてサソリとしてヨーコに出会ったときに口をパクパクさせる。このコメディかリアリティか、というギリギリのバランス感覚は素晴らしい。このバランスが全編通して貫かれているからこそ、面白いのだ。何度観ても飽きない作品は、不思議な魔力を持っている。『愛のむきだし』という「作品」――この映画にこそ与えられるべき呼び名――は、脱会者のための手引きとして、まさにバイブルとして片手に持たれるべきである。

しかしどうしても、この年になると作中のメッセージや設定に共感したり、反発したりする度合いが強くなる。自身の考えが妙に固まってしまっているからだ。あまりに残念だ。妙に過剰な反応が、映画を見る目を曇らせる。もう一度、園子音という監督「が」作った「作品」を、全身で感じ取りたい。

これは必見。あまり映画を観ない知り合いたちが絶賛していたのだけど、実物を観て深く納得した。
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by murkhasya-garva | 2010-05-06 00:32 | 映画

アリス・イン・ワンダーランド(2010)
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幼い頃に妙な生き物が出る夢をよく見ていたアリス。あれから成人した彼女は、またあの白ウサギが飛び跳ねているのを目にする。アリスは再び白ウサギを追い、「不思議の国」へと旅立つのだが…




不思議の国のアリスはこれまでに何度か映画化されてきた。知っている限りでも2,3作が思い出される。特に印象に残っているのはヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』だ。本作品はタイトルからだと原作の単なる映像化と思われるが、実際のところ、いわゆるアリスの“後日譚”に当たる。原作では続編に『鏡の国のアリス』などがあるがそういったのは抜きにして、「不思議の国を体験したアリス」が主人公である。

ティム・バートン監督作品に多くみられることだとは思うが、本作品もまた、一面的な見方をするのがもったいなくなるような内容だ。小さい子でも十分に楽しめるし、あるいは教訓めいたこと(例えば“夢を抱き続けていれば云々”)を抽出することもできる。さらには批評的分析にも堪え得る強度を持ったものだとも思う。だからこそ滅多なことは言いたくないし、簡単に一括りにすることの貧困さが痛感される。あえてこう言おう。面白いのが一番だ、と。

本作は、いちいち説明を加えず観客を物語に引き込む力がある。アリスという有名な作品を下敷きにし、それを観客も知っている、という前提のもとに作品を積み上げている。そのため理解しやすいのかもしれない。または、原作が本来持っている幻想の強度が作品を支えているのかもしれない。気付いた時には、観客は、物語の展開を、主人公の運命をじっと見守ってしまっている。まるで「夢」のような時である。目覚めもよく、活力さえも与えてくれる。

その言葉少なな中で、いくつかのキーワードが登場人物の口から発せられる。それはアリスの迷い込んだ世界が一体何であるかを理解するための手掛かりとなってくれる。一度訪れたことのあるこの世界は、では彼女にとってどのような意味をもって体験されているのか。そのうえで原作の流れをなぞるとはどういうことなのか。「運命」と呼ばれた彼女の筋書きは、本当に「運命」なのか。ここを考えるのが、作品を理解する上での要となってくるだろう。

また、忘れてはならないのが、ジョニー・デップの存在。彼はマッドハッターに扮して現れている。この有名俳優が配置された役柄に求められたものは何なのか。私は、今回一つのシーンが印象に残っている。彼が赤の女王から受けた悲惨な過去を語り、その場所がまさに彼の今いる所であることに言及する。「そう、ちょうどここだった…」これは単なる都合の良さで説明できないものがある。彼が語ることで、逆に世界が生み出されているのだ。この感覚は、不思議の国のアリスという原作全体からも感じられる。全てが、語ることで、気付くことで、生み出される。それは意識的な行為によるものではなく、自身がいかんともしがたい体験が意図せずして湧き上がり、そして形をなす。これは狂気の世界だ。この役柄をこなすには彼の演技が必要で、彼を起用したのはつまり、それだけ本作品にとってマッドハッターの“狂気”が重要なファクターだったとしたら?

アリスの夢の世界(「不思議の国」)もまた、彼女が意図せぬものである。アリス自身は「これは自分の夢なのよ」と言っているのにも関わらず。彼女は、これを体験しなおすことで自身の指針を見出す糧としている。この一連の作業は、トラウマの回復としても理解できるだろう。つまりアリスは自分自身の狂気、あるいは不思議な世界を体験し、知ることで現実を生きて行く力を身につけて行くのだとも言うことができよう。自身の狂気を知り、信じて生き続けることが大きな力を生む、と言われているようにも感じる。

・・・・・・でもよ、ここまで色々言っててなんだけど、こんなこと言ったって全然面白くねえだろう?
下手な分析、解釈は押しつけがましい教訓に良く似ている。少なくともこの作品について何か言いたいのなら、この世界観を自分が夢みるまで刻みつけることから始まるのではないか?
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by murkhasya-garva | 2010-05-05 01:33 | 映画