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by murkhasya-garva
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スカイ・クロラ(2008)

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思春期の姿のまま永遠に生き続ける子供“キルドレ”が兵士として参加する戦争が、ショーとしてテレビ中継される世界。キルドレのユーイチは、とある基地に戦闘機パイロットとして配属され、女性司令官のスイトと出会う。(MovieWalkerより引用)












解釈の方に意識が行って映画を楽しめなくなる、というのが私の悪い癖だ。そろそろ見直さなければいけない。「で、どう思ったの?」と聞かれた時に御託を並べる奴に話を聞きたいと思うだろうか?無理に考えようとすることに少々自己嫌悪を覚えて映画館を出るが、自分にも解釈一辺倒で映画を見ていた時期は確実にあった。その時に比べれば多少は変わったのかも知れない。今回は『解釈することに違和感を持った自分』というのを通して、改めて本作はいったいどんなものなのかを考えてみたい(・・・希望)。

原作を読んでいない者にはそれがなんのことやら、まああらすじでネタばれをしてはしょうがないのだけれど。本作を観て、きわめて無機質だが、そんな雰囲気が何かを押し隠しているのかもしれない、と思うのはもっと後半になってからだ。少なくとも初めの話の展開の見えなさ――飛行機に乗り、敵機を撃ち落とし、帰ってくる――には少々退屈さえ感じる。しかし、今思えば、その感覚自体が「スカイ・クロラ」の世界観に取り込まれている証拠なのかもしれない、とも思う。なぜなら、その世界にある登場人物も環境も何一つ変わろうとする意志を見せないものばかりだからである。一人ひとりの思惑は違えど、それは大同小異というやつで、前半は何度あくびをしたことか。つまらない、とさえ感じた。

しかし、その一方で観客である私は、「ここで語られているのはどういうことか」と思う。この疑問と同期して登場人物のルーチンな世界との関わりが見え始め、少しずつその“無機的”な世界は私の言葉に変換されて戻ってくる。

キルドレが子どもの姿のまま生き続けるという。…少なくとも、キルドレは子どもでいなければならない必然性があるのだろう。自分たちの活躍をテレビで放映されるのを見ても、ユーイチは何の感情も示さない。ただ、“ああ、そうなんだ”という程度の表情。自分たちのやっていることが実感の伴わないことなのか。また、スイトは自分たちを応援するという団体が見学に訪れるのを嫌がる。「だって、見学っていうの自体どうもね」とユダガワも言う。どういうことだろうか。彼らのやっていることは見世物である。そしてパイロット自身もそれを十分に気づいていると言える。(もちろん「ゲーム」と明言されている)。そして、途中で登場するティーチャーは大人である。しかも「絶対に倒せない」。つまり、このゲームの世界は、大人が子どもたちに上から与えるルールによって支配されているとも考えられる。

ここからが問題だ。この時点ではまだパイロットが子どもでいなければならない必然性はない。
 たとえば何らかの罪を犯した者が収監後に洗脳されてパイロットに仕立てられてもいいはずだ。しかし元犯罪者がパイロットになる、ということになると倫理上の問題が生じる。つまり、彼らの世界の外にいる人々と直接に責任問題がかかわってきてしまう。そうなると都合が悪い。見世物であるパイロットや戦闘は彼らの良心を痛めないものでなければならない。しかもそれは一般の人々にとって無自覚にクリアされる必要がある。パイロットが、外の人々にとっていわゆる道義的責任を負わない存在であるためには、パイロットの世界は純粋なものである必要がある・・・となると、パイロットはまず人々と同じ人間であってはならない。人間でない人間・・・ここでクローンという存在があてはまる。いちおう、一般大衆である外の人々にとっては、これさえクリアされていればいいはず。<パイロット=クローン>。
② ではパイロットが子どもである理由は?見学に来ていた応援団体も(恐らく)ユーイチが子どもであることに疑問を呈していなかったため、外の人々にとっても当然のことだと言える。となると、パイロットたちが住む世界の創造者に今度は疑問が向く。考えられるものをいくつか挙げよう。(1)創造者は「子どもは大人が支配するもの」と思っていた。(2)パイロットが子どもであれば、それを支配制圧する者が大人ということに、倒せないことの必然性を感じさせることが容易だと思っていた。

(ちょっとめんどくさくなってきた・・・)

少なくとも、ここには世代特有の感覚に基づいた世界がある。押し込められたような抑鬱的な世界。自分が何者かも分からず、ただ役割を与えられて働き続ける。スイトは、その「当然の構造」に穴をあけるように、子どもを作り、他のパイロットに影響を与える。与えられた役割が不確かな世代感覚。
また、ゲーム――鈴木光司のホラー三部作とも共通する。自分たちの世界が実は「つくられたもの」だったとしたら?あるブログではこう言っていた。「差別や下にみる視線は社会に構造化されていて、その構造をわたしたち大人は暗黙のうちに内部化し、フロイト風にいえば、「超自我化」させてしまうものだからです。そうしてみずからで、みずからの良識と判断を組み立てることによって、社会を成り立たせるわけです。」《Cool Culture Critics》  本作を「大人vs子供」と安易に構造化するのも気が引けるが、そういう見方がまずは頭に浮かぶ。世代的瞬間にしか現れない感覚を秩序化させるものとして、キルドレ達の世界が現れているのかもしれない。
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by murkhasya-garva | 2008-11-13 15:10 | 映画
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彼の死ぬ瞬間が頭から離れない。人は死ぬとき、大きく、大きく喉の奥から唸りを立てるように息を吸ってから死ぬらしい。「血と骨」でビートたけし演ずる主人公もまた大きく息を吸って死んだ。伊丹十三の「大往生」でもそうだった。




しかし、本作と「血と骨」は、「大往生」とは違う凄まじさがあった。それは世界を一挙に吸いこもうとするかのような最後のあがきのようでもある。ただ1人で己を貫き通し、誰にも見守られることなく死んでいくというこの凄絶なまでの孤独。独居老人が静かに死ぬようなイメージとはかけ離れている。

クリス・マッカンドレス。彼は裕福な家庭に育ち、優秀な成績で大学を卒業する。しかしある時、家族の元から去り、自分自身をスーパートランプ(超放浪者)と名乗り、ひたすら物質社会から離れて生きようとする。彼の想いはどこにあったのだろうか。単なる厭世主義者とだけで括ることのできない彼自身は、旅先で出会うヒッピーや老人とも真摯に向き合い、語りあっている。

真の自由と幸福・・・どんなものがどこにあると言うのか。周囲の人々は恐らく疑問にもつだろう。私だってそうだ。彼は単なる理想主義者にしか見えない。どれほど人間の営む社会から離れたとしても、彼は全てを捨てられなかったではないか。彼が死んだのも植物事典の誤った記述によってであるし、彼は山奥に捨てられた廃バスの中で暖を取っていた。

彼が行ったことを単なる過ちだったと私も言いたい。しかしこの作品が今なぜ、敢えて映画化されたのかを考えてみたい。それは、ケツの青い理想主義者の末路をせせら笑うものではない。少なくとも、彼の死はあまりに凄絶に描かれていた。彼の放浪には、彼の育った家庭が必ずしも幸福ではなかったという事実が影となって付きまとっている。家庭によって形成されるルーツへの確信、それによって自分もまたその継承者たらんとする人間の本能。それを失った者はどのような行動に出るだろう。

彼は不幸にも優秀すぎた。優秀すぎるが故に徹底的に本質を追い求め、結果として自信を追い詰めることしかできなかった。少しでも彼が愚かで妥協的な人間だったら、埃塵にまみれて生きることを選択したかもしれない。しかし、彼にはそれができなかった。彼は真の自由と幸福を求めて旅立つ。今振り返ってみると、彼の真の自由と幸福とは、「死」そのものではなかったのではないかと思われる。社会的なつながりを断ち切ることは、事実上自分を殺すことにほかならない。いかに彼が生きようとしていたとはいえ、そこまで想像できなかったとは思えない。もし想像できなかったとすれば、彼は理想に燃えた才気走った若者であったということだし、自分の過去という呪縛から逃れられなかった人間だということになる。

極端から学ぶことは多い。彼の思考は受け継がれるべきだ。自分のルーツ、根源をためらうことなく切り開き続ける姿には、私は賛同する。それによって、今まで見えなかった自分の姿が分かるかもしれない。ただ、自分のやったことを問うことができなかった、それだけが彼の過ちであろう。

彼が最後に見上げた空はどうしようもないほどに青かった。彼はそこで何をつかみ取ったのだろうか。答えは、観客にゆだねられている。
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by murkhasya-garva | 2008-11-13 14:15 | 映画
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原作の単行本第1巻が発売され、あの「アマレスけんちゃん」の作者がなんかやってるな、と買って読んでみた私は衝撃を受けた。デスメタルとポップの間でもがく根岸の姿がイタすぎる。こんな平均値をぶっちぎったギャップの激しさに呑み込まれたのは何年前だったろうか。それが映画化されると言うのだ。否が応にも気になる。



周囲の高評価を裏切らず、本作も相当楽しい出来だった。デスメタルの使者、クラウザーⅡ世が現実に降臨したとなると、死神リュークがフィルムに映り込んでいるどころの騒ぎではなかろう。もう暴走しまくる彼らを見るだけで十分満足。ただ難があるとすればラストがぬるいということだけ。

また、主人公の根岸がなぜここまでデスメタルに馴染んでしまうのかが原作よりもちゃんと練られている。鬱屈した恨みやらなんやらの反動で放出される負のエネルギーのなせる技、と言うだけではない。やはり根岸も人の子、どんなに才能があっても迷いはする。そもそも自分にデスメタルの才能があるなんてこれっぽちも信じちゃいない。

夢を持つなんてバカなこと、そう言って悲観する根岸にかける母親の言葉は強かった。どんな変わったことでもいい、そこから力をもらっている人がいるんだ、と。母親に後押しをされて彼は自分のアイデンティティを再確認する。ぼくが皆に夢を与えられるんだ!と根岸がライブに乗り込む姿からは異形ながらも正統な成長譚という印象を抱くが、それが押しつけがましくないのはひとえに軽い悪ノリのおかげだ。根岸の苦悩も滑稽に映る。そして彼を突き放して笑い飛ばせるように出来ているからこそ、この作品は受け入れやすくなっているのかも知れない。ともあれ松山ケンイチはいい仕事してます。一見の価値ありとはこういう掘り出し物的発見の感がある作品に与えられる言葉だと思う。
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by murkhasya-garva | 2008-11-13 01:40 | 映画

アリゾナ・ドリーム(1992)

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アクセルは、叔父の結婚式の為にアリゾナへやって来た。そこで彼は、夫を射殺した過去を持つ未亡人の家に住み込み、自殺願望癖の娘と恋に落ちる。そして、それぞれの夢を抱いた人々は、自ら破滅の道を辿り始めるが……。









おそらく「アリゾナ・ドリーム」で語られていることの一つは『夢』だ。眠っている時であれ、起きている時であれ、人間がここではないどこかのことを思うそれのことだ。ここでの登場人物すべてが夢を持っている。アクセル(ジョニー・デップ)はアラスカに行くこと、おじのレオ(ジェリー・ルイス)は車を売って月に行くこと、ポール(ヴィンセント・ギャロ)は役者になること、グレース(リリ・テイラー)はカメに生まれ変わること、エレイン(フェイ・ダナウェイ)は空を飛ぶこと。みなそれぞれが自分の身の丈に合わない、大きな夢を持っている。しかし、現実はそれを叶えてくれるほどの可能性をもっていない。それでも、彼らは自分たちには出来る、今にも可能だと信じて疑わない。みな、本気で自分の夢が現実のものだという表情をしている。エレインは夢中になって空を飛ぶ。グレースはアクセルに愛を囁き、雨の中を歩く。

しかしだ。不思議と哀しさは全編を通して感じられない。現実から躁病的に高く高く飛躍しようとする彼らの姿は見ていてぞっとさせられるのに、まるで哀しさなんてとうの昔に忘れてしまったかのようで、なぜかそこには軽快なリズムが流れ、そして深い絶望だけが底流しているのだ。アクセルは何度かこう口にする。「おれはもう大人だよ」と。自分がもう夢を抱けない人間だということを知っているのだ。それでも、必死に何かにすがろうとしている。夢を捨てることすなわち大人になることだと簡単に言うのは容易いが、ここにはそういった人間の成長というテーマでくくることのできない複雑な気分がどうしても残る。たとえば、「ライフ・イズ・ビューティフル」でも似たことが語られているように、監督のクストリッツァ自身が大人になっても何か単純な人間賛歌では終わらせられない複雑さを抱えているからだとも言える。この何とも言い難い気分を底抜けの陽気さで押し隠してしまおうとする態度こそが、ある種の哀歌を奏でていると言えないだろうか。
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by murkhasya-garva | 2008-11-13 01:09 | 映画