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by murkhasya-garva
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<   2008年 09月 ( 4 )   > この月の画像一覧

ダークマン(1990)

『ダークナイト』と、合わせて観たい『ダークマン』。575。駄句失礼。
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人口皮膚の研究をしている科学者のペイトン(リーアム・ニーソン)は、突然やってきた男達に痛めつけられる。研究所も爆破される。全身の40%に火傷(特に顔と手が重傷)を負ったペイトンは自分の研究機器をなんとかかき集めて人工皮膚マスクをつくる。そしてペイトンは、自分を襲った男達へひとりづつ復讐していく。やがて恋人のジュリー(フランシス・マクドーマンド)が、本性を現した敵の親玉に捕まる。ペイトンはジュリーを助けるために戦いを挑む。






この夏上映されたヒット作『ダークナイト』から、もう少しアメコミの実写を物色する気になり、目に留まったのが本作だった。タイトルが似ている…それだけの理由で借りたが、思った以上の面白さだった。ご都合主義な展開は抑えられ、主人公は何度も窮地に立たされる。所詮、超人的な力と衝動的な怒りという恐るべき武器を持った主人公・ペイトン=ダークマンでさえ、基本的には無力なんだということを見せつけてくれる。もちろん最後はダークマンの勝利で終わるが、爽快というには程遠い印象が残る。現実の社会に即した世界観、その導入されたリアリティは皮肉なことに、ヒーローものだというのに、ヒーローから一定の距離を取ったある種突き放したようなスタンスをもたらす。ファンタジーの世界から引きずりおろされたヒーローは、童心にかえることのできるような爽快感の代わりに、より私たち一般の人間に近いが故に重厚なメッセージを残してくれる。

また本作は恐らく、一部『ダークナイト』の下敷きになっている。年季の入った映画ファンならばすでに知っていることかもしれないが、ともかく驚きだった。

本作はラストで、ダークマンが彼の最後の敵を追い詰める。建造中のビルの先からルイス(コリン・フリールズ)の片足を持ってぶら下げ、今にも落とさんとする。「俺を殺せばお前はもっと悪に染まるぞ」とペイトン、もといダークマンを脅す。対して『ダークナイト』では、バットマンによってビルの端にぶら下げられたジョーカーは、バットマンに「お前も所詮俺がいなければただの狂人だ」みたいなことを言っていた。ヒーローにとって自分自身こそ実は悪なんだ、ということを突きつけられること―しかも「悪」の側の存在から―は、ある種の危険な“踏み越え”の瞬間であるように思われる。自身の正義を並々ならず信じている者だからこそである。結局、ダークマンもバットマンも結局世に容れられることなく闇に消える。“ダークマン”“ダークナイト”という名前は、それゆえに自分自身へのレッテルとなる。そうでしかあり得ないヒーローの存在・・・スーパーマンやスパイダーマンの世界のように、ヒーローに対して大手を広げて歓迎してくれる世界に彼らは生きていない。彼らには、悲しいまでにシビアな現実しか用意されてないのだ。

本来、現実社会にとって(スーパー)ヒーローなどというものは厄介な存在だ。社会の秩序から大きく逸脱し、まさに<自分=秩序、法>を体現しているようなもので、そんな身勝手な存在はヒーローどころか「異形の者」というレッテルを貼られてもおかしくはない。そういえば、『ハンコック』でも同様のことが示されていた。ハンコックは自分の隠れ家に『フランケンシュタイン』のチケットを持っていた。彼も、超人的な力を持つ者が社会の鼻つまみ者だということを自覚していたのだ。出る杭は打たれる、ではないが、<異形の者>に対する扱いは昔から変わっていない。超人的な力という“神に嘉された”能力を持ちながら必然的に世に受け入れられず、己の存在意義を問い続け、苦悩するヒーローの存在のほうが、親近感もわいてくるというものだ。

渋いぜ、ダークマン。2作目も一瞬見たくなったが、たぶん別モノのような気がするのでやめておこう。傑作の第2作なら、もっと有名になっているはず。
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by murkhasya-garva | 2008-09-24 23:32 | 映画

28週後…(2007)

「28日後…」の続編らしい。観ていない。今回はメモ。
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あらすじは…たった一滴の血液によって感染し、瞬時に凶暴性を引き起こしては見境なく人間を襲いだす新種ウィルス『RAGE』。ロンドンに蔓延し、発生してから28日後にイギリスは崩壊。11週間後に米軍がイギリスへ上陸し、18週間後にはRAGEは根絶されたと宣言される。やがて24週後、イギリス国民は都市の再構築を始めた。しかし誰に知られる事もなくRAGEはある一人の体内に潜伏していたのだ。そして28週後、再び目覚める日がやってきた・・(Chateau de perleより引用;)






レイジウイルスが蔓延し、狂気の暴徒化する人々が増え続ける街。これはウイルス感染者といえど、もはやゾンビである。しかし一連のゾンビものと違うのは、人々の恐怖を描きつくすための作品ではなく、それによって世界がどうなるかをあまりに冷静な視点で観察する作品である。まさにダニー・ボイル式ゾンビ映画である。この作品は、人々がパニックになる姿すら哀しい。どこまでも淡々とした音楽が流れ、登場するすべての人物の愚かさ、哀しさを嘆いているかのようである。どこにも奇跡はおきないし、超人的なアイデアや力を持った人間もいない。ただ必然によって彩られる悲劇。運命的ですらある。この架空の出来事にリアリティという鋳型をもって流しこむとき、本作はすばらしい作品となる。人々の愚かな選択もすべて一つのテーマに還元されるようである。
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by murkhasya-garva | 2008-09-24 01:01 | 映画

皆月(1999)

調子に乗って連日更新していますが、続くとは到底思えないので気長に見ていってください(笑)

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風采の上がらない40がらみの男、諏訪(奥田瑛二)。のそのそと歩く鈍重な姿。そんな男の元から、妻が逃げた。「みんな月でした。がまんの限界です。さようなら」。義弟・アキラ(北村一輝)のつてでソープ嬢・由美(吉本多香美)と知り合い、同棲する。義弟が身を寄せる組から抜けて、妻と逃げた男を追い、3人は旅に出る。





花村萬月が原作だが、期待していたほどの暴力性は感じなかった。暴力を花村萬月から引いたら旅とセックスが残る。どれも人の奥底に眠る根源的な衝迫に突き動かされるたぐいのものだ。作品自体は、視聴者の持つ視線を変えるというより、じわじわと沁み込んでいくような雰囲気をもつ。むしろロードムービーとしての様相がある。旅の中で少しずつ変わってゆくのは人々の心情である。

たとえば彼の義弟であるアキラは、半端者のわりには妙に諦念を漂わせたように見える。彼が殺人ゆえの逃亡という意味合いも持って旅を続けていることから、彼自身が自分の運命を徐々に受け入れていく過程をとっているようにも感じる。

凡庸だが生真面目な主人公の周りを非日常がまとわりつき、そして各々がまるで浄化されるかのように自分の道を自覚していく様子は、諏訪(奥田瑛二)自身が、ささやかなものではあるが自分の「旅」を通して何らかの変容を体験しているようである。前半でアキラは彼に“兄さんらしくなった”と一言感想を言うが、生真面目だった男が今までとは違う世界に自分なりに正面から向かったとき、化学変化が起こる。彼自身が無力であるからこそ、生真面目さはただ純粋にその眼差しを周囲に感じさせる。では変容していく世界とは何のことを指しているのか。それは彼自身の『道程』―つまり本作をロードムービーと呼ぶ所以―である。

それゆえ、作中のそこらそこらに潜む、端境の本当に何でもないような言葉や感情(それはかなり微妙で、文字通りにすんなりと理解できないものだったりする)さえも含みこみ、しかしそれが同時にかけがえのない瞬間を生み出す。原作の書き文字をそのまま台詞に起こしたであろう堅さの残る言葉も散見されるが、不自然である一方でその「場」を端的に示すものであることが多い。原作がそのまま映像になったかのような作品なのだろう。原作は読んでいないけど。

あと、吉村多香美という女優を知らなかったのだけど、彼女はどこかで見たような顔をしている。これ、というようなインパクトがないのが魅力的で、またソープ嬢としてレオタード?を身につけているのがまたよい。こういうささやかなエロスは好きだ。本編では“普通に寄り添われる性”とも言うべきものが通底していることもあり、彼女は相当に本作にしっくりはまっている。しかしささやかと言っても、自分ではどうしようもないほど人とのつながりを欲していて、その結果セックスがまとわりつくような切実さのことを言うのだけど。「おっさん、私から離れてっちゃやだよう」そんな切実な台詞も主人公にかかれば、淡々と受け止められしまうような雰囲気がなかなかの滋味を出しているように感じる。……しかし由美の年齢の設定は23,4だったか。そんなものなのか?別の世界のことだなあ。こんなに人生煮込んだような眼をした子は周りにいないので、カルチャーショックを受ける。もっとあけすけに言うと、彼女はとても23歳には見えないということ。

知り合いが借りたDVDを観てみたのだが、こういう作品は自分からまず観ないなあ、と思う。他の人間の視点は時に自分自身にとって有益であったりする。
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by murkhasya-garva | 2008-09-12 00:11 | 映画

悪魔のいけにえ(1974)

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トビー・フーパー監督によって1974年に作成された伝説的ホラー映画。あらすじといえば、“テキサス州に帰郷した5人の男女が、人皮によって創られたマスクを被った大男「レザーフェイス」により殺害されていく様子をとらえた”作品である。あまりにも有名すぎる。

wikiによれば、“殺人鬼であるレザーフェイスの真に迫った精神異常の描写や、外面的な行動のみを捕え、同情を誘うような描写を一切廃したプロット”が数多くのフォロワーを生んだという。



しかし私といえば30年前のホラー作品と完全に舐めくさっていて、いわゆる古典的作品だし、何年か前に観たナイト・オブ・ザ・リビングデッドだったか(冒頭で自動車が川に突っ込むシーンを覚えている。ご存じないだろうか)、モノクロの作品が全然怖くないどころか、これを怖いと思う時代もあったんだなあ…なんてゾンビ特集のオールナイトにて寝ぼけ頭で呑気に考えておったことを思い出し、どれどれその古典的作品のたぐいを見ておこうか位の気分だった。

ところがこの作品、その考えが完全に誤っておったことを嫌というほど痛感させる。
これはとんでもない作品だ。私は当時日記に簡単にこう記した。
「画像や音声の粗さ、無造作に引きちぎったようなラスト。理不尽なほどに現実的なむごさ。誇張がないのに、いや、誇張も無駄もないからこそ、残酷なシーンが最高に引き立てられているのか」
その言葉が私の中ではまだ生きているようだ。何でこんなに怖いのかといったら、だいたいにして何故にこんなに人があっさりと殺されていくのか、というその理不尽さ、唐突さが図抜けているからだろう。

今まで少ないながらに見てきたホラーは、衝撃的に効果音を使い、また「ここを見ろっ!!」とばかりにスプラッタなシーンや狂気に満ち満ちた殺人鬼をアップにして映し出していたものが多かった。小学生のころは本当に「チャイルド・プレイ」(1988)が怖かった。逃げまどってドアの奥に隠れた女性の顔の真横から壁をハサミが貫く。肝が潰れた。実際にそういった手法は視聴者を怖がらせるためのツールであるのだが、やはりツールはツールでしかないということなのだろうか、見慣れた方法は先の展開を読ませたり、そういったシーン自体が時に視聴者を「またか…」と辟易させもする。しかし、そんな手法が広がるような時代より前、恐怖の表現は一つの極致に至っていたのではないか、と思わせる作品があったというわけである。

印象的なシーンを挙げてみよう。まず、カーク(ウィリアム・ヴァイル)だったか、家を見つけて遠慮もなしに入り、奥の部屋に向かおうとするその瞬間、突然レザーフェイス(ガンナー・ハンセン)が現れて彼を真正面から鈍器で殴り付ける。カークは抵抗する暇もなく、崩れ落ちてビクビクと体全体を痙攣させ、もう一発。それから彼を奥に引きずり込んで戸をバシン。その時間たるや数秒である。入口あたりの距離から離れてされており、異形の大男が若い男を打ち殺すのを確認するやいなやその恐怖はピークに達する。何の前触れもなしにそのシーンが映されること…当然の展開のはずなのに、そこには“容赦のない現実への引き戻し”を感じられて仕方がない。つまり、何だかわからないうちに人がとんでもない形で死んだ、ということに対するパニックに近い感覚なのかもしれない。これは怖い。

しかもレザーフェイスが万能の殺人鬼ではなく、一人の人間でしかないと思わせる描写もまたおぞましさ、恐怖をかき立てる。宮台真司氏は、レザーフェイスが侵入者を取り逃がして窓の傍に坐ったときに不安げに舌をピチャピチャさせるそのシーンに注目し、高い評価を与えた。

≪この一瞬のシーンだけ他とトーンが違う。このシーンで、私たちは、コミットメントからディタッチメントに変化する。喜怒哀楽(恐怖!)の直接性から離れ、「〈世界〉の中にこの男が確かにいるのだ」と受け止める。「ああ、そうなのかもしれない」と思うのである。≫
MIYADAI.com Blog『映画『国道20号線』について長い文章を書きました

私は、サリーがチェーンソーを持ったレザーフェイスに延々と追われる場面を挙げよう。若い女性一人になかなか追いつかない愚鈍な男が執念深く女を追い回すということ――何の効果音もなく、サリーの悲鳴とエンジン音が響き続けるチェイスシーンがいわゆる“映画のお約束事”の実現を異常に先送りし、それゆえに予定調和(というものがあるとすれば)の裂け目に先行きの不安定さ、つまりリアリティの余地をにじみださせているように思う。

「恐ろしさ」とは、それに触れる自分自身とそれ自体との仮想された“内的距離”に比例するのだろうか。まるで事実の如く、誇張表現もなく人が人を殺すというシーンを見せつけられたときに、私は震えた。殺人という、まるで隠された事実を垣間見たような感覚に陥るショッキングな作品である。作品にかかわる人物が醸す強烈な世界観という意味では、渡辺文樹監督の「バリゾーゴン」も通じるような気もするが・・・。お手上げものの伝説的作品だった。
二度目のファーストキスを奪われた気分とはまさにこのことだろう。
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by murkhasya-garva | 2008-09-11 03:24 | 映画