休止中。


by murkhasya-garva
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

<   2007年 08月 ( 5 )   > この月の画像一覧

「ジャンクフィルムス 釣崎清隆残酷短編集」
b0068787_12312516.jpg

先日8月19日、「ジャンクフィルムス 釣崎清隆残酷短編集」を、四条烏丸の京都シネマのそばにあるワークショップ空間、shin-biにて鑑賞。今回はDVD発売記念イベントだそうです。釣崎氏と、芥川賞受賞作家モブ・ノリオ氏との対談もありました。




映画を見る動機は、第一に好奇心。本作を制作した釣崎清隆氏は死体カメラマンである。死体をナマで見る機会なんてない、「残酷短編集」ならばスナッフみたいなものか?そんな思いで見に行ったのだった。
このフィルムも世界各地の死体をスチールではなくビデオに収め、その生々しい映像に一切のコメントを添えずに作られている。カメラは淡々と目の前の光景をとらえる。音響なども殆ど編集されていないのだろう、周囲の雑音までが入り込み、そして群衆の中の、静寂とは違う独特のざわついた沈黙、というべき空間が支配する。その場の熱気を伝えるような、物言わぬ映像。その中心を死体が陣取る。道路の脇で血だまりにうつぶせになる者、無数の傷を残して倒れる者。たしかにそこには、人の形をした塊が映されていた。

夜の帳の中に飛び散った内臓、また、プーケットのベジタリアン・フェスティバルの様子も加えて収まっている。一瞬、奇をてらったグロ映像の羅列か?という思いが頭をよぎるが、しかしこの短編映像集はあまりにストイックである。「そこにあるもの」をただ見つめる。これだけのことが、僕には想像できなかった。少なくとも釣崎氏は、死体や内臓や改造された人体を嬉々として撮っているようには思えない。レスキュー隊が死体を梱包する過程まで止めることなくカメラを回し続ける彼の視点には、今の日本では到底受け容れがたい、死を含めた人の有り様、民族の姿への賛嘆の想いが込められているように感じる。ある人々は自分の生活のために死体を取り扱い、ある人は自身の信仰のために己の肉体を傷つける。だれもが倒錯的嗜好で死体に群がるわけではないのだ。死と共存して生きていく人々の強さが、数々の死体とともに描き出される。

同時に、この作品が死の異様さを雄弁に語っているのをぼくは忘れることができない。ロシアで撮られた「母」と名付けられた短編には、ベッドに横たわった女性の死体が映し出される。それと判別できるかどうか、というくらいの薄暗がりの中で、天井を仰いで虚ろに口を開け両手を宙に浮かせた状態の、性別すらはっきりしない白い死体。何度も確認するかのようにカメラは断片的に彼女をなぞる。それは死者の眠るような墓場のような静謐さや、生者が息づく家に満ちる生気のような、安定した存在とは決定的に異なる。彼女の姿は生と死の境目を見失わせる。ゾンビ映画のように彼女が起き上がるわけでもないのに、何故か不安を掻きたてられる。何かが中途で止められてしまったような、その居心地の悪さがおぞましさとなって感じられる。
突然、幼い少年の姿がドアの側に映った。母の子供なのだろう。涙の代りに違和感がいっそう際立つ。

でもこうやって死体を人の目に触れさせる行為、より身近な場所に置く行為を非難する人も必ずいる。釣崎氏は、YouTubeに載せた、タイで行われた墓場整理で洗浄され並べられた頭骨をケイタイで撮っている現地の女性の映像を予告篇に載せたところ「人でなし」というコメントが付いたと言う。死と共に生きる人々を知らず、不自然に生を前面に押し出された国の人間が見るとそれは不謹慎と見えるのだ。一体どちらが歪んだ思考をしているというのか。文明を一面的にしか見ることのできない、いやそれ以上に己の片割れと正面切って向きあうことを避けた(それはしばしば“似非モラリスト”となる)人間は、恐らく多い。

釣崎氏がリトル・モア社から出版した本のタイトルを「世界残酷紀行 死体に目が眩んで」という。帯には本文からの抜粋が挙げられている。
「初めて死体を撮ったときから/終わりのない旅に乗り出したような気がしている。/あるはずのない答えを求めて/孤独に彷徨っているような気がする」
ぼくたち生きる者にとって、死は全く異質な存在として映る。出来れば避けて通りたい存在、しかし誰にでも等しくやってくるもの。死は生の対義としてさまざまにネガティブなイメージを貼り付けられる。人間の文化が発展すれば、しぜん生者の世界は台頭し、死は呪わしいものであるかのように世界の端へと追いやられる。釣崎氏は、世界の端を目の当たりにしてしまった一人だ。恐らく若い頃のキワモノへの好奇心を圧倒するかのように、死の深淵は大きく口を広げていたのではないか。人間という生の存在が決して体験し得ない「死」を見つめんとする行為は、しかしあまりにも魅惑的で、豊かな世界であるかのように思われる。

願わくは、この異色の作品がこの世にさらに知られんことを。今まで目をそらし続けてきた存在の後姿、そしてそれに取り憑かれた人の眼が、私たちにこの世の作りを再認識させてくれる。
[PR]
by murkhasya-garva | 2007-08-31 12:33 | 映画

ピアノの森

「ピアノの森」(2007)
b0068787_12121528.jpg
感想書くのが遅れた…。これ、実は映画情報サイトに投稿しようと思ってたんですが、書くのが遅れたので残念ながら送らず。しかも興行成績がよろしくないという。こんなに面白いのに!!もっと早くにプッシュしたら何とかなったかも…なんて思い上がりです。すいません。



音楽マンガの映像化は、「のだめカンタービレ」のTVドラマ化から再燃した感がある。最近ではさそうあきら原作の「神童」などが公開された。アーティストのドキュメンタリー映画が次々と発表される一方で、クラシック音楽ブームの波に乗って音楽マンガも新たなメディアで評価されるのは、マンガ好きとしてうれしい限りだ。
「ピアノの森」は1998年よりヤングマガジンアッパーズで連載されてきた作品である。天才的なピアノの才能を持つ主人公・一ノ瀬海が、ピアニストの家系に生まれた雨宮修平との出会いを契機に世界に羽ばたいてゆく物語である。本作は独特のコミカルな絵柄と優れた心情描写によって、主人公たちがピアノを通して成長してゆく姿が描かれる。基本的にユニークな作品が揃っていたアッパーズの中で、本作は正統派を行くため逆に異色な作品ではあったが、読者を惹きつけるには十分な要素を備えていた。ぼくは「ピアノの森」の連載以来、当の雑誌は本作のために毎号読んでいたと言っても過言ではなかったのだが、如何せん作者が途中体調を崩したらしく休載、さらにはアッパーズ休刊とトラブルに見舞われ、期待していただけに何とも歯痒い思いをした。しかし2006年12月よりモーニングで連載再開そして今夏の映画化という報せは、それまでの順調とは言いがたかった雰囲気を一掃させるに十分なもので、一ファンとしての感慨もひとしおであった。

さて映画版の本作は、雨宮修平との出会いから、一ノ瀬海がピアニストとしての道を歩み始めるまでの少年時代を描いたものである。祖母を看るために母と共に引っ越してきた修平。彼は森のピアノを巧みに操る天性の才能を持った少年、一ノ瀬海と出会う。ピアニストの家に生まれ、自身もピアニストになることを望まれてきた修平にとって、海の自由で豊かなピアノは衝撃的だった。同時に二人はかつての名ピアニストだった阿字野宗介に出会い、コンクールに向けて研鑽を続けていく。

本作を勧めるにあたって挙げておきたいのが、ストーリー構成だ。海と修平を中心に、学童期のさまざまなステージが丁寧に汲み取られている。修平が転校直後に受ける手痛い洗礼にはじまり、考え方も住む世界もまるで違う海との邂逅、彼の才能への戸惑い、嫉妬、怒り、そして彼との和解。また海においては、師との出会い、自分の能力の開花。実に多くのできごとが、本作では無理なく描かれている。これをなしえたのは、まず原作の巧みなストーリーの運びだと言える。そして映像化に当たり、それらの感覚的な描写を尊重し、忠実な再現を行うことができたのも極めて大きな要因である。また本テーマを、ピアノをめぐる少年たちの成長に絞ったことで、各プロットが非常に明確で洗練されたものとなっている。単行本10巻にわたる海と修平の少年時代を、約2時間という尺にテーマを損なわず見事収めきったという意味では、成功したといっていいだろう。

しかし、いくつかのエピソードの割愛が少なからず瑕疵を生み出したことも指摘しておかねばならない。原作で登場する海の周りの人間たち、たとえばスナックに勤める亜里沙や海の父親と噂されるトラッカーのベンちゃんなどは、確かに少なからずカイにとって重要な役割を担っている。しかし本作はそういった、海の居る環境や出自をめぐるエピソードやキャラクターを潔くカットしている。これが海の存在感を多少薄める原因となった。才能あふれる少年としてのみの海の描写は、観客とにとってより等身大の修平が出会う「他者」=新たな価値観との出会いを強調するためという意味合いが強い。本作の最大の魅力は海のダイナミックな才能の開花する瞬間なのに、修平の視点で描いてしまったことが全体的なアンバランスさを引き起こしている。たしかに2時間という枠の制約ゆえに避けられない結果であるというしかない。しかしこの不均衡ゆえに、何とももやもやした不完全燃焼に陥り、次回作を期待させかねない形ともなっている。海の活躍をもっと見たい、と思う一方でこの微妙な不全感には腹が立つ。

とはいえ、原作の世界観は本当に良く表現されている。なかでもピアノ演奏が、他の音楽映画の中でも群を抜いてすばらしい。ウラディーミル・アシュケナージによるピアノの美しさは言うまでもないが、何より登場人物の心情の反映を見事に担って、多彩な演奏を披露してくれている。修平の実直なモーツァルトKV310、海の奔放なベートーヴェンやメンデルスゾーン、そして初めての練習曲ハノン。多くの作品が、同じ曲を切り貼りしたり最近のアーティストの曲のピアノバージョンを必ず挿入したり、という商業映画ゆえの制約というか弊害を免れ得ない中で、この豪華さはあまりに貴重である。
またそんな耳を楽しませる演奏の中で他の音にも注意を傾けてみると、キャラクターの言葉がしっかりとその空間にあった響きをしている。教室や防音室、そしてホールでの少しずつの異なる音響は、世界観の再現以上にリアリティを感じさせる。それまで絵や演出にしかリアリティ構築の用を見出していなかったが、音響の丁寧な表現もまた観客を一気に作品に引き込む力があるということを実感した。これら細部にいたる精密な音響表現は上質のカタルシスを提供してくれる。演奏などによってありありと伝わってくる登場人物の心情が最高潮に達するとき、ぼくは思わず吐く息を忘れ、胸を熱くした。

おそらく本作も多分にもれず原作との比較が問われることになるだろうが、原作ファンには本作を観ることを強くお勧めしたい。時間的な制約による構成上の問題はたしかにあるが、世界観はほとんど崩れていない。芸能人による声の出演の微妙なこなれなさも、後々大して気にならなくなってくる。それどころか、映画という別の媒体に移すという作業の中で、本作は“音”という核心に映画ならではの臨場感を添えることに成功している。演奏家や演奏曲目という点からはクラシックファンも楽しめる一本ではないだろうか。もし迷うことあれば、ぜひ見に行ってほしい。マンガ「ピアノの森」の世界がここにある。
[PR]
by murkhasya-garva | 2007-08-17 12:15 | 映画
「アイズ・ワイド・シャット」(1999)b0068787_0305557.jpg

最近みた「アイズ・ワイド・シャット」。ショックでした。キューブリックすげえ。本人はこれを晩年に駄作だと言ったそうですが、どう駄作なのか分かりません。とりあえずここでは思ったことを。






倦怠期を迎えるハーフォード夫妻は、ビル(トム・クルーズ)の患者のジーグラー氏のパーティに招待された。パーティでビルは魅惑的な女性たちに誘惑され、アリス(ニコール・キッドマン)はハンガリー人の紳士に誘惑される。その出来事を後に二人で話している際に、ふとしたことで浮気をめぐって口論になった。収まりきれない苛立ちを抱え、ビルはネイサンソンの主人の訃報を受けて外に出る。外で彼は旧友のニックと会う。旧交を暖めようと、彼はピアノ弾きのニックが出るパーティに出席を望む。しかしそのパーティでは、想像を絶する光景が待ち受けていた…

ハーフォードの周りでは、秘密のパーティに参加して以来不穏なことばかりが起きる。たいていそれは自身を没落させる欲望の代償をあらわすのだが、しかし伏線は伏線としての機能を果たさず、結果的な不安の予感としてのみ語られる。しかしこれは彼らにとっては決定的なことだ。夫婦間の問題が、自身を取り巻く社会を舞台に「他者」の存在となって立ちはだかる時、彼らの抱える夫婦間の問題がいかに根深いものであるかということを思い知らされることになる。
作品自体にはアンダーワールドとも言うべき世界が口を広げていて、そこには人々の肉欲を司る地下組織が存在する。このプロット自体はそこらの凡庸な作品にも散見され、いわばクリシェと堕するものだが、キューブリックは人間の本質に対して直面、対決など“自我機能の回復”という一見全うそうな言及を回避する。不安は不安としてしか存在しえず、その実体の見えない不気味さゆえに否応なく恐怖を掻き立てることを彼は知っている。そもそも自分が克服できるような個人的で小規模な問題ならコミットメントもできようが、「性の地下組織」は彼一人の力を持ってして到底手出しできるような存在ではない。この決して表に出してはならない部分(=地下組織)とは、原理的にも明るみに出すことが不可能な人間のナマの部分なのだ。キューブリックは、この如何ともしがたい秘密の部分を、驚くべきことに現実問題すなわち男女の性を通じた結婚観の問題に引き寄せる。象徴的なストーリーを通じて、彼は文明社会に生きる人間が抱える深遠を喝破しているのだ。

ハーフォードは、亀裂を生じると見られた妻のアリスと再び向き合い、自分が隠し持とうとしていた大きな秘密を打ち明ける。それは二人の一旦こわばった関係をカタルシスの瞬間でもあるのだが、しかしわれわれにとって最も衝撃的なのはアリスの口から出る言葉だ。
『夫婦の絆を確かめ合うために、今すぐしなければならない大事なことがあるわ』
『それは何だい』
『F**k』

「F**k」という言葉が今までの作品群でどれほどの意味合いを担って発せられたか知る由もないが、彼女のその言葉は今まで秘されてきた部分を明言するという意味で本当に暴露的であった。セックスではない。F**kだ。精神的象徴的な解決などあざ笑うかのように、最も卑俗な言葉で夫婦関係を言い表す。いや、一介の無力な人間の二人にとってはそうするしかなかったのだ。

個人間で、成人が直面する最も大きな他者との出会いのひとつは結婚である。そこに横たわる問題を、本質的な部分から見事に掬い取って見せたキューブリックの洞察力は、まさに見事というほかない。
[PR]
by murkhasya-garva | 2007-08-14 18:37 | 映画

ナコイカッツィ

「ナコイカッツィ」(2002)
b0068787_035954.jpg
3年前にみなみ会館で見たんですが、20分で見事に沈没。今回なんとかリベンジを果たし、やっぱりすげえなあ、レビューも一気に書いたれ、と。もう悲しくなるほど長ったらしいですが言いたいのはそんな大したことでもないです。ポイントは色付けしてます。






映像詩とも言うべき作品。作中においてセリフは一切用いられず、音楽と共に断片的な映像が連続的につながっていく。そこに固定的な解釈、所与の意味は存在しない。”as the Divine”、すなわち神、啓示としての映像と監督が述べるように、人間生命に対しての象徴的なイメージを提供する極めて豊かな場である。こういった予めイメージを定めず、観客にその判断を委ねられる作品は時に、難解で、独りよがりで、エンターテインメントの資質のない、観客と向き合う努力を怠った、と痛罵を浴びることがある。しかしこの作品において、同様のコメントを吐く者は今一度自分自身を見つめなおすべきではないだろうか。ゴッドフリー・レジオ監督やスティーブン・ソダーバーグらは作品について、本作への多様な解釈を観客に提供し、新たな可能性、映像の限界を見つめる作品だとも述べている。それを分かった上で先の批判をする者はさすがにいないだろうが、仮に居るとしたらそれは明らかな同語反復、思考停止、果てはそう言う者が自身の言説に酔い痴れ、囚われていることを明らかにするかもしれない。加えてそもそも作品の否定的な評価について常に私が感じていることでもあるが、こういった製作者の声を聞くことなく無闇に自身の論こそ真理、またはその一端を握っていると信じて疑わないような評者の姿勢に非常に疑問を抱かざるを得ない。それはいくら論理的に主張したところでその根底が極私的な印象に基づく自己満足でしかないからであり、いくら胸を張ったところで作品に対する多様で相対的な反応のひとつにしか過ぎないからだ。単に、自身の「評論」と銘打つ言葉の連なりが、あくまで相対的で選択的立場に晒されているという脆弱性を負うことを自覚するのが、おそらくこの問題解決の端緒となるのだろうが、しかし客観的な言葉をもって一般的な真理を装う文章や知名度の高い者が述べる言葉は、どうしてもこれを脱することが困難となりうる。前者は真理の擬態、後者は政治的権力がその理由に挙げられる。一介の視聴者でしかない以上、評者はまず製作者の意図を尊重することが、最低限のマナーとして主張されるべきではないだろうか。

ともかく、一切のセリフを排した本作品は特異な印象を持たせる。CG映像や実際の映像を加工したものが連続したイメージとして提供される。それは作者の安易で断片的または直接的な単なる連想ゲームと違い、ある程度の跳躍がある。それは各々のイメージの連続が俯瞰的に一貫したテーマを持っているからであり、これは同時に豊かな副次的イメージを併せ持つ結果を生む。DVDでは各章ごとに副タイトルが与えられているため、これと自身の理解を突き合わせてみるのも面白い。本作を通して映し出される映像の共通点は現実世界における特定の事物、事象ではなく、自然風景など社会的匿名性の高い、比較的抽象的なイメージがほとんどだが、これらの映像は多くの意義を持っているように思う。それはまず伝統的思想体系やニューエイジといった、特定の政治思想や既存の倫理観から述べられているのではないこと。作品自体そのタイトルにアメリカンインディアンのホピ族の言葉という、現代の人間社会とは隔離した超越的な視点によって――「装う」という言葉によって人為の謗りをも免れ得ないが――抽象的な映像=イメージを通じて人間の本質と思われる姿をあぶりだしている。テーマは人間の本質をその現象に反対しているというより、むしろ『警告』としての意味合いが強いからである。これは内容からも自明のこと。また同次元、同方向からのメッセージというわけでもない。テクノロジーが発達した今、人間社会は闘争状態に置かれるという。その人間はカメラ越しにその姿がただ映されるのではなく、まさにこの映像を見ている我々もその対象となる。

さまざまな解釈を許すこの映像群は、その一見して難解な外見からはゴダールの、例えば「アワー・ミュージック」に似る。ゴダールはセリフや撮影技術や章構成に見られるその実験的手法によって意味の多層性を意図的に構築する。しかしレジオ監督の「ナコイカッツィ」は、その純粋に映像と音楽により“開かれた意味”を模索する。ここでは鑑賞者だけでなく制作者すらも模索している。普段なら常置されている明確なメッセージがないために、観客はある種の恐慌状態に陥り「分らない、難解だ」とつぶやくかもしれない。しかし文明化した人間社会を生々しく描きだしたという点では、現実世界からこの問題を読み取るよりもよほど明らかだ。ナコイカッツィ=闘争状態の生命としての世界。これとの直面は現代人に課せられた務めだとも言える。現実世界のイメージを再配置する(ことを促す)ための作品とレジオ監督は言う(これこそラカンのいう三界の関係を明らかに表すものではないか)。一人ひとりがこの映像作品を通じ、物事に含まれる“意味の多様性”という可能性やその限界に触れ、自身の現在と未来にとって最適な選択をすることが重要なのである。

徹底した沈黙が呼び起こす雄弁。先に私は、批判者が口にするかもしれない批判をあげつらったが、「ナコイカッツィ」はあらゆる人々の言葉をも容認する。果実としてではなく、いわば土壌としての作品性を持つ映画。まずはこの作品に直面しよう。
[PR]
by murkhasya-garva | 2007-08-13 19:27 | 映画

16[jyu-roku]

「16[jyu-roku]」(2007)
b0068787_224237.jpg
大阪のプラネットプラスワンでは、7/21~8/3の期間で“(奥原浩志)×(タナダユキ)FILMS OF NEW JAPANESE YOUTH”と題して、二監督の作品が上映されました。奥原監督作品は「16[jyu-roku]」「青い車」、タナダユキ監督作品は「月とチェリー」の計3本。


タナダユキといえば、先日公開された「さくらん」の脚本を手がけ、また「赤い文化住宅の初子」では監督を務めたことで注目されています。奥原浩志氏の名は実は知らなかったんだけど、「青い車」は「ピンポン」のARATAが出演するので観たかった作品でした。こうやって、観たかった作品を思わぬ機会にスクリーンで観れるってのは本当に嬉しいことですね。
奥原氏もタナダ氏、どちらも若者の心情を細やかに汲み取った作品を作る監督さんで、ぼくとしては今回観た3作品全部、ツボに入りました。
鑑賞日は7月2日。上映された作品は、「16[jyu-roku]」「青い車」「月とチェリー」の順。

「16[jyu-roku]」、今回の特集で上映された本作は、「赤い文化住宅の初子」の続編としての位置づけ。初子役を務めた東亜優が主役のサキを演じています。さてこの作品の監督は、タナダユキではなく奥原浩志。続編なのに違う監督だと世界観がチグハグにならないか、という疑問が観る前に頭の中をさまよっていましたが、そんなモヤモヤは見たら一気に解決。本作は続編でありながら、続編ではないのです。

「16[jyu-roku]」のサキは中学を卒業して上京します。サキは女優になるため東京に一人向かい、新たな生活を始めます。東亜優演じる15歳の少女が16歳になり、新しい環境で成長していく姿はまさに、「赤い文化住宅の初子」の続編。また、サキは映画初主演を果たすのですが、その作品名は(タナダユキ演じる)タナベ監督の「初子の恋」。タナダユキ監督の「赤い文化住宅の初子」の変名ですね。
つまりサキは、初子のその後の姿であると同時に、初子を演じる一人の新人女優でもあるのです。言ってみれば、フィクション(初子)にかんするフィクション(16)という、メタフィクショナルな側面をもつ続編です。そしてまた東亜優のデビュー当時になぞらえられているという意味では、自伝的な要素も強いのでしょうか。まあそんなカテゴライズはともかく。

15歳の初子から16歳のサキへ。少女は新しい環境のなかで少しずつ経験を積み重ねていきます。そこには彼女の日々移りゆく感情が描かれます。あるときは期待を胸に抱き、あるときは孤独や不安に揺れ、またあるときは自分の気持ちが恋心なのかを図りかねます。この、まだ大人になりきれない少女の姿は、奥原監督の、対象を静かに優しく見つめる視点が豊かに描き出してくれます。カメラの視点の切り替えを抑え、BGMをほとんど使わず周囲のノイズもある程度許して映し出された、何気ない、しかし変化し続ける日常の風景。その中でのサキの、たどたどしくも手探りで何かを感じ取っていく姿が、とても新鮮に映ります。

「青い車」やこの作品では、若者特有のいまだ定まらないモヤモヤとした気持ちが中心になっていました。奥原監督はこういった感覚のとらえ方がとてもうまいのです。サキたちの一瞬見せる笑顔やふと翳る表情からは、彼らの未分化の情緒、“モヤモヤ感”が雄弁に語られます。
奥村監督のカメラはまるでドキュメンタリーのように、さりげない位置に置かれます。例えば、リハーサルやオーディションに使われるカメラのようだったり、部屋の一隅に無造作に置かれた記録用のカメラのようだったりする。その前で、わざわざカメラのために特にパフォーマンスを用意することなく、平然と振舞っているサキたちが居るその風景は一見地味なんだけど、私たち観客は彼らが“確かに在る”、現実に存在するという思いを抱かずにはいられません。そうやって映される彼女たちの姿―特に沈黙の場面―は、その風景自体が言葉としての表現に収まりきれない余韻のようにも見えます。

静かで、これといった事件もなく淡々と描かれる主人公の日常。ぱっと見、地味にも思えるかもしれませんが、この作品の叙情性は抜きん出たものがあるのです。それはいわゆる青春ものにありがちな、詩的で病的に繊細な世界のものではありません。派手でないことを恐れず、等身大の少女が生きるありふれた世界をまっすぐ正面から派手な誇張もなくただ優しく見守ったからこそ生まれた、本作の「きわめて忠実で丁寧な」叙情性。それは昨今のフィクションにあふれる派手さの中で、逆にその瑞々しさを際立たせています。
[PR]
by murkhasya-garva | 2007-08-04 02:25 | 映画