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by murkhasya-garva
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歌謡曲だよ、人生は

「歌謡曲だよ、人生は」(2007)b0068787_2247888.jpg
ひょんな出会いもあるものだ。
もとは別のオムニバス作品「ユメ十夜」を見るつもりで来たのに、上映しているのはこの作品。でもこのまま帰るのもシャクだし、帰りは遠いし。オムニバスつながりで、と腹をくくって観てみたんだけど…
驚いた。予想外に面白かった。というかツボだった。


本編は、12の昭和の歌謡曲を題材に、12人の監督たちがそれぞれのストーリーを展開するオムニバス作品。監督、俳優共々そうそうたる面子が揃い、本作を鮮やかに彩ってくれています。
去った恋人を追って東京へ向かう男の苦闘(第2話「僕は泣いちっち」)、サエない青年が観客の去った会場でかき鳴らすエアギター(第3話「これが青春だ」)、男に捨てられた少女に自分の過去を重ねる女(第7話「ざんげの値打ちもない」)、母校の同窓会でありありとよみがえる思い出(第11話「みんな夢の中」)…

この「歌謡曲だよ、人生は」には何度も泣かされたんです。聴き心地のよい曲調と共に書かれる、人々のストレートな心情。耳にしたことのない曲さえもどこか懐かしく、失った思い出を夢想するようなひと時が私たちを感傷的にさせます。歌謡曲には人々を温かく受け容れてくれる力があるのでしょうか。この映画を郷愁あふれる逸品たらしめているテーマとしての歌謡曲たち。各曲をベースに作られた本作品群は、それらの持つエッセンスを何倍にも膨らませたものとして、表現されます。

本作のタイトルにもある「歌謡曲」という「人生」。各話の登場人物の「人生」は、必ずしも夢、憧れ、悩みなど未来へ向かう視点ばかりではなく、実は本編のその大半が、挫折、喪失、回顧など過去への想いに成り立っています。たとえば私たちが、過去に失った何かに思いをはせるとき、その痛みや疼きは、時には甘く、時にはほろ苦く、心をじわりと刺激していきます。本作は、そんな私たちの想いを呼び起こし、いまだ経験したことのない感情さえも掻き立てるかのように、一編一編が紡がれていかれるのです。

才気あふれる監督たちの手によって描かれた歌謡曲。蛭子能収が監督を務めた作品(第8話「いとしのマックス」)はもっとも監督の独自色が色濃く現れたものの代表ですが、こういった監督たちの独自の手腕によるものだからこそ本作は懐かしい感覚が“色鮮やかに”描かれたのでしょう。
またそれは、歌謡曲の持つ性質こそがなせる業なのかもしれません。一貫して世界観をあまり変えることなく継承されてきた演歌などのジャンルとは異なり、今だからこそ古さが目立つものの、かつての若者の青春の象徴という意味をも持っていた歌謡曲。「かつての」という回顧的なニュアンスこそが、歌謡曲すなわち本作の魅力なのです。懐かしさと共に今ふたたび語られ、現代に生きる人々が当時の感覚を再共有することこそ、本作「歌謡曲だよ、人生は」の醍醐味なのではないでしょうか。
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by murkhasya-garva | 2007-07-22 22:48 | 映画

300

「300」(2007)
b0068787_1446379.jpg「シン・シティ」(2005)で、独特の色彩を用いてハードボイルドなアメコミの世界を実写化したフランク・ミラーが製作総指揮として、「ドーン・オブ・ザ・デッド」(2004)のザック・スナイダーが監督をここでも執った本作。スパルタの戦士たちが、100万人の軍勢を率いたペルシア帝国の脅威にたった300人で立ち向かったという勇猛果敢な戦いを迫力たっぷりに見せてくれます。

「シン・シティ」のためらいもない暴力描写には、息を呑むような迫力がありました。今回もスゴイものを見せてくれるだろう!!と期待して行ってきたのですが、いやーすごいですね。ザクザクと敵軍を蹴散らしていくその光景は、もうまさにカタルシスです。考えてみれば多勢に無勢、300vs1,000,000ってどう考えても勝ち目はありません。余りにも少人数のスパルタ軍はいつ全滅してもおかしくないわけです。そんな死と隣り合わせのスパルタには、ただただ固唾を呑んで見入ってしまいます。

「残酷な描写が苦手な人には辛いかもしれませんが…」と受付の女の子は忠告してくれましたが、苦手でわざわざ観に来るものかね。最前列で飛び散る血しぶきを見ながら、一人うおお、ぬああと呻いて興奮してました。ヤバイですね。
そんな戦闘場面は本作のメインだといっても過言ではありません。戦闘シーンというのはどうしても長く続くと飽きたり、もとからハイスピードについていけなかったりするものですが、本作はそんな問題点は充分すぎるほどに克服しています。カメラのワンショットをなるべく切らず緩急でメリハリをつけることで、流れが途切れることなく、観客の目がついていけるようにしてあります。また、色調をあえて抑え目に、でも流血は真っ赤すぎるほどにとコントラストがはっきりしているのもミソですね。これによって勝利が決まっていない戦いゆえの緊迫感や戦闘そのものの迫力が、相当高められているのではないかと。

ただ、どうしても気になることが一つ。ラストで眼帯の男・ディリオスが「神秘主義と専制政治を打ち破るために!」と戦いの雄たけびを上げるのですが、あそこでぼくは思わず吹き出してしまいました。ここにきてスローガンが政治的だとは!!

それまで戦士たちは、政治的にどうこう以前に職業戦士という自分自身の名誉を賭け、(もはや勝利すらも目的ではなく)いわば戦闘のための戦闘を行ってきました。生死といった利害さえ超えた彼らは、もはや常人の理解の届かない域にある。だからこそ、強大な力を持った帝国の王までも、その不可解なほどの暴力の恐怖に震え上がったのではないか、そう思うのです。
それなのに、眼帯の男は叫ぶのです。もちろん大勢の兵士を鼓舞する理由として必要なんだけど、実のところ、政治的な理由付けをしなければ、戦闘を必然的なものにすることができなくなっていたという意味で、スパルタ軍は原始的な強さを失ってしまったとしか言いようがない。

でもスパルタ軍の戦力的な成長は、その政治的な側面を抜きにして語ることは不可能です。
限りなく純粋な戦士を育成する一方で、スパルタは、絶対的で、それゆえに腐敗しきった司祭たちと、国の動向を決定する役割をもつ議会に、その自由は制限されています。ストーリーではこの司祭と議会が、あろうことかペルシア軍と手を組み、スパルタ軍の戦争を阻もうとするのです。ここからディリオスのペルシア軍へ向けた最後の叫びは、目先の利害に囚われる議会と司祭たちに対する批判とも理解することができます。つまりレオニダス王率いた軍の伝説を語り継ぐことによってディリオスが再編を果たした軍隊は、そういった政治的なものとの衝突を経て、現実的には明らかに増強されたものとして現れることになったのです。
しかし、もはや伝説となったレオニダスの軍の根源的な強さとは決定的にかけ離れているような気がするんですね。

だから、ディリオスのセリフを聞くと、どうしても違和感を感じてしまうんですよね。なんだかなあ、と。カッコよくないんですよ。戦闘シーンの勢いこそが本作のメインである以上、ラストの締め方は蛇足のニオイを感じずにはいられないのです。
そんなことを言うお前はアナーキストだと言われたらそれまでなんですが。
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by murkhasya-garva | 2007-07-12 14:47 | 映画
「ダフト・パンク エレクトロマ」(2007)
b0068787_18161152.jpg この予告篇、映画を観に行くたびに流されてたんです。たぶん知名度が低いだろうからと劇場側も考えたのかもしれません。ヘルメット姿の二人の男や、フラッシュバック的にちらつく炎の映像、グオングオングオン…という音響が何とも有機体と無機体の間をさまようような薄気味悪さを醸し出している。ぼくは好奇心をやたら掻き立てられ、ついに観にいってきたのです。


この作品はダフトパンクというハウスミュージックのユニットが作ったもの。彼らは、松本零士とコラボレートした「インターステラ5555」という映画や、またVAIOのCMで使用された「One More Time」という曲などで、日本でも話題になっています。現時点ではアルバムも6枚リリースされています。
そこで電子音楽のたぐいにあまり詳しくないため、さっそく「daft punk」というそのまんまのタイトルのアルバムを借りて聴いてみたのですが、これがけっこう耳にハマる。電子音と肉声が境界線を超えて交じり合うような音響と、繰り返し響く心臓の鼓動のようなビートが沁みこんできます。アッパーな曲ではないのに、つい何度も繰り返して聴いてしまう音楽です。他のアルバムはと言うと…「Human After All」くらいしか聴いてないな。あまり偉そうなことは言えません。

ではそんなダフトパンクが手がけた本作はというと…幻想的な映像に見惚れるもののどこから切り込めばいいのか分からず、面食らいました。ストーリーに起承転結みたいな流れがあるわけでもなく、刺激的な映像が映るわけでもない。かといって、どうしようもないナンセンスという訳でもなく、ただ、妙なことに全編を通してデジャヴ感がつきまとうのです。

ストーリーは、カリフォルニアの荒涼とした光景を貫く一本の道路から始まります。そこをフェラーリで走る2体のロボット。彼らが通る街には、人の代わりにロボットだけが生活を営んでいる。この世の終わり感を漂わす絵柄に、近未来的な印象を受けます。2体は人間になりたいと願い、ロボットの住む社会に背を向け、改造を受けます。

しかし、ストーリーを順次説明したところで話の流れ自体は単純なため、あまり要領を得ないのです。それに1回観ただけではよく分かりません。というのも本作は、繰り返して観ることで、味が出てきそうな感じがしてならないのです。例えて言えば、噛めば噛むほど味が出るスルメのような作品。これはぼくの電子音楽の聴き方にも通じます。1回、2回と重ねて聴いていくほどに段々とハマっていく。作品のディテールに至るまでの綿密なこだわりや、引用的な映像や音楽に込められた「裏」の意味に気付いていくことで、作品全体の世界観や意図を理解が深まっていくようです。

例えば2体のロボットとは、ダフトパンクのメンバーであるトーマ・バンガルテルとギ=マニュエルのことでしょう。実際に2人ともアンドロイドだと自称し、仮面をかぶり素顔を見せません。
世界観では、“遠い昔、人間が忘れ去った場所に、ロボットたちの世界が秘かに息づいている”、と考えると、デジャヴ感も人間の文明の名残のひとつとして役割を果たしているように思えてきます。BGMでは、例えばロボットの手が燃え出すときに流れる、ショパンの「24の前奏曲作品28 第4番ホ短調」。これはショパンの葬儀のときに演奏されたものなのだとか。ロボットの死の予感がショパンの曲によって、いっそう終末感を匂わせます。

本作で挙げられる「映画的引用=サンプリング」や音楽とは、ダフトパンクというアンドロイドユニットの世界観の一翼を担い、ひいては彼らの音楽が持つ背景や志向性としても理解できます。本作では、何とダフトパンク自身の楽曲は一切使われません。用いられているのは、全て他の作曲者の手によるものばかり。つまり、敢えてオリジナルを使わないことで、本作が引用と背景によって成立していることをより明確に示す、ということでしょうか。

どこかで観たシーン、どこかで聴いた音楽・・・でもその出所は皆目見当がつかない(単に映画の知識が足りないだけ、とも言いますが)。解説に『映画的引用<サンプリング>の豊かさとその音楽に共通するストーリーの深淵とを意識させる』とあるくらいなので、相当な量で引用がされているんでしょう。そういえばどこかで、ゴダールが「映画はもはや模倣に過ぎない」みたいなことを言っていたような気がしますが、「映画的引用」と言ってしまえば、模倣であることの嘆きは既に問題にすらなりません。そもそもオリジナルとは模倣の集積だと指摘した方がいました。ようやく映画も、模倣が作品に力を与えるだけの歴史を持つようになった。そう考えると、この作品は映画の新たな意義を明らかに打ち出した、新時代の作品の一つだと言うことだってできるでしょう。

映像は確かに幻想的で、それを追っていくだけでもそれなりに楽しいのですが、この作品の醍醐味は読み解きにあると思います。公式サイトにも読み解け、といわんばかりの音楽のリスト。
よーし、やったろうじゃねえかって気になってきませんか?
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by murkhasya-garva | 2007-07-06 18:18 | 映画