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by murkhasya-garva
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<   2007年 05月 ( 4 )   > この月の画像一覧

西瓜

「西瓜」(2005)
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上映が始まった瞬間、どこのポルノ映画館に紛れ込んだのかと錯覚しましたが、ここは紛れもない京都の名画座、京都みなみ会館。キャストは「楽日」と変わらず寡黙だけど、この静かなフィルムはやっぱりすさまじく饒舌なのです。



ほぼ無人の通路、西瓜を抱えて歩くナースに目が行くのも束の間、彼女は西瓜を股に挟んでスイカプレイ。真っ赤な果肉はまさに彼女の体の一部。ある人は笑い、またある人はおもむろに足を組み。このコミカルで妙にリアルな情事を皮切りに、ミュージカルシーンと恋人たちの日常とが代わる代わる映されます。

夏の暑い日に偶然再会した二人。女(チェン・シャンチー)は男(リー・カンション)を自宅に呼び、スイカジュースを振舞います。しかし実はスイカジュースが苦手な男は、彼女が見ぬうちにこっそり窓から流してしまいます。
ちなみにスイカは一番初めに、明らかに性的な象徴として使われました。
スイカをむさぼる女と、スイカを拒む男。それなのに二人は、何故かどこまでも仲むつまじいのです。

性的な表現(ポルノ)が用いられながら、その中心に居るのはプラトニックな二人の恋人。このねじれは幻想、つまりミュージカルシーンに強く影響してきます。時折挟まれるミュージカルは、その前のシーンでの登場人物の心情を代弁します。まさに限りある現実を補うかのように、幻想が豊かにスクリーンを彩るのです。その幻想があまりにカラフルなので、現実/幻想は、影/光と立場が逆転してしまっているかのようです。もしかすると幻想とは、現実の原動力なのかもしれない、とも思わされます。

しかし、現実はかたくなに、二人が結ばれることを許しません。代わりに、現実世界には幻想的なシーン、または欲望がところどころに形を変えて滲み出してきます。鍵を掘り出した跡からは水が湧き出し、二人の影法師はカニをむさぼり、彼女はスイカを抱えて妊婦の真似ごとをします。何だか話が進むにつれてオカシナことになっていくのです。が、彼女が男の現在の職を知ってからその欲望は、ただ一つの方向に的を向け始めます。

余談ですが、この幻想/欲望の光景は、なぜ二人を介してとめどなく溢れ出すのでしょうか。あらゆるものが手に入る時代に、人は満足しきることをいまだ覚えません。今欲しいものが手に入れば、次の欲望が生まれる。しかも欲望の対象は、消費されるモノばかり。その中で人は“精神的な受け皿”を見失いそうになるのです。
監督は、その疑問に対して一つの答えを呈示すると同時に、その後のあり方を問うてきます。彼らを「空に浮かぶ二片の雲」に例え、何処へ行くのか、と。

本作はセックスという題材を通じて、人の現実と幻想の密接な関係を色濃く描き出します。考えてみれば、すぐに寝てしまう映画ほどつまらないものはありません。本作のプラトニックな二人は、スイカと言う性的な象徴を間に置きながら、かつてないほどエロティックで、そして(ここが重要)自由な光景を映し出します。不自由で、しかし目いっぱいに自由奔放な映像に、私たちは怯み、笑い、そして気付いたときには思わぬほどの活力をもらっていることでしょう。
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by murkhasya-garva | 2007-05-28 00:40 | 映画

楽日

「楽日」(2003)
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ツァイ・ミンリャン監督特集が京都みなみ会館で開催しています。もう5月25日、今週の金曜日にも上映は終了してしまうのですが。是非見なければ。そう思っていたのに、「迷子」「Hole」はまんまと見逃してしまった…ハチャー!!



『ヴェネチア映画祭でのこの映画の上映は、ちょっとしたハプニングとして今も語り継がれている』とチラシは語ります。ラスト5分間にわたる無人の観客席を映すショットに観客が困惑したというのです。たしかに無人の観客席は、まるでここにいる私たち観客を映し出すような思いを抱かせます。

『何かの間違いではないか』
そんなはずはない。それまでの語り口を見ていれば分かることじゃないか。ぼくはこのショットからスタッフロールの間に、全てが流れ込んできたような感覚に襲われました。去り行く映画館への想い、そこここの出演者たちの存在、長い長いショット群の饒舌な沈黙。静かに、しかし確実に何かが見る者の心に染み込んでゆき、ラストショットを我が身に感じながら劇場を後にするのです。

ただ最期を待つ映画館をめぐる静かなショットは、なぜあれほど私たちにそれぞれ深い想いを抱かせるのでしょうか。そこには映画の「鏡」としての力が見えてきます。
観客はスクリーンをじっと見つめ、何らかの意味を見出そうとします。しかし本作は多くを語りません。普段はあんなに口うるさい映画が沈黙すると、私たちは逆に想像を凝らします。すると何も語らないはずのスクリーンは各個人の過去や気持ちを映し出し、とたんに饒舌になるのです。まさに映画は、私たちを映し出す「鏡」なのだと思います。

しかも本作は、年経た映画館を隅々まで映します。まばらに人のいる観客席、温もりを求める青年、館内の至る所を歩き回る人々、受付の女性がめぐる劇場の裏、あらゆる場所に映画館の記憶が染み付いているのです。この新鮮ながらもどこか懐かしい光景に、観客の人々は改めて監督の、そして自分自身の映画館への想いを確認することでしょう。

往年の名作が上映されるひと時、無人の映画館に思い出があふれます。丹念に選び取られた長いショット群は決して退屈なものなんかではありません。今まで私たちが感じてきた映画館への愛と、見過ごしてきたショットの積み重ねとしての映画の大切さを再認識させてくれる大切な瞬間なのです。

かつてない形で映し出された本作は、しかし私たちの映画体験の原風景でもあります。身震いするような感動ではなく、いつまでも胸に沁み込んで行くような幸福に、鳥肌を抑えることができません。
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by murkhasya-garva | 2007-05-24 19:21

リーピング

「リーピング」(2007)
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おすぎの映画ブログにも書いてあったのですが、大きく宣伝されていないが良い作品というのはままあるものです。ホラー専門制作会社のダークキャッスルが放つ、ヒラリー・スワンク主演作品。手堅くて、演出も良いと思うんだけど…。



ダークキャッスルと言うと、「ゴーストシップ」「ゴシカ」「蝋人形の館」の記憶があります。どれも評価は高くなかったけど、ホラーとしての要素を持った、ホラーらしい作品ばかりだったような…と。そして今回も何かまあそんな感じです。最近見た作品の“怖さ”に比べれば一枚も二枚も劣るような気がするのですが。

さて本作は、旧約聖書の「出エジプト記」にある十の災いが下敷きです。ヒラリー・スワンク扮する大学教授キャサリンが、ルイジアナの片田舎ヘイブンで起こった怪現象を科学的に解明しようと向かいます。というのもヘイブンで起きた怪現象が旧約の呪いに似ているというのです。しかも、事件の中心にいるのが、まだ幼い少女だという。キャサリンは過去の個人的事情からも興味を持ちます。

ご存知のとおり旧約聖書とは、キリスト生誕以前の物語です。エジプト王がユダヤ人を解放しようとせず、神がエジプトに対し災いをもたらしたというのが、この「十の災い」。つまり、言わば邪悪な存在に対して災いが落とされるわけです。本作でもそれはラストまで一貫しているはず。
しかし話は二転三転します。一体誰が悪魔だったのか?

ここに、本作の“怖さ”があると思うのです。もちろんドーン!!と何度も衝撃音にビビり、至近距離で襲い掛かるイナゴの大群に鳥肌、というのも充分ありなのですが、それ以上に、真実や現実がはっきりしないのは怖さの原因になります。今まで敵/味方とおもっていた相手が実は逆だった、それが何度も繰り返されれば段々と疑心暗鬼になります。本当にこいつは自分の見方なのか、まだ自分は騙されているんじゃないのか、と。

それは、現実が自分の手を離れる瞬間、と言ってもいいでしょう。今まで信じていたことが崩れていく、主人公はその体験を何度も経験するわけです。愛娘を失って信仰を棄て、本物の奇跡を目の当たりにして科学をあきらめ、そしてやっと見つけたと思った神の存在を見失って。本作では彼女の行く先に答えを与えません。この後、彼女は本当に信仰を棄てるのでしょうか。それとも現実を見極める理性すら捨ててしまうのでしょうか。

ありきたりにも見えますが、自分の現実(価値観とも言う)を失うという体験はなかなか恐ろしいものです。誰が神で、誰が悪魔なのか。もしかすると、自分が頼りにする神はどこにもいないのかもしれません。
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by murkhasya-garva | 2007-05-23 11:38 | 映画
「こま撮りえいが こまねこ」(2007)
b0068787_16295839.jpg京都みなみ会館に映画を見に行くと、予告篇で決まってこの作品が流れるんです。ゆったり、ほのぼのとした挿入曲が良い感じを出しています。新たなコマ撮り人形アニメーションが、NHKで「どーもくん」を作ったコンビ、合田経郎監督とアニメーター峰岸裕和によって作られました。



かわいいかわいいかわいい。そういえば羽海野チカがマンガ単行本の帯にそう書いていた。何の単行本だったかは忘れたけど。「こまねこ」にもその賞賛をあげたい。もうっカワイイ!!最近は「カワイイ」という表現が色々なものに使われていますが、これはいわば王道のカワイイ。なぜそんなにカワイイのかと言うと…もうそろそろカワイイがカイワレとかカイヨワとかカイワイに見えてきたでしょう。やり過ぎはいけません。

本作品は、東京都写真美術館にて「公開制作プロジェクト」として行われたのがきっかけの短編人形アニメーションです。ぬいぐるみ、切り紙、ペン画を用いたそれぞれのコマ撮りで、こまねこのこまちゃんをめぐるショートストーリー数編が描かれます。

このかわいさは、言い換えれば「愛らしさ」です。例えば丸みを帯びたキャラクター造形。とある人は、円形の対象に人が好感を覚えるのは、赤ん坊をいとおしむ感覚からきているのだ、と言ったとか。主人公のこまちゃんも丸みを帯びたシルエットで、本作のキャラクターの中でも群を抜いて好感を持てると思います。個人的にはこまちゃんの上唇にあたるお肉のフワフワ感にやられました。

でも、キャラクターもなかなかのもの。例えばいぬ子はこまちゃんと対照的で、その憂いや寂しさを湛えた姿が印象的なのです。もうあの二重まぶたとぽてっとした下唇がたまりません。
え?ぬいぐるみからそんなことが分かるわけないって?変態かって?分かるんです。それに変態じゃないよ!!ふ~・・・。一般論に過ぎませんが、人間は相手のささいな仕草から様々なことを想像するじゃないですか。彼らにはそのニュアンスを読み取らせるだけの微妙な仕草があるんです。そう、本作のキャラクターは、そのかすかな身振り、表情がとても情感豊かに表現されています。その瞬間に、『可愛らしいものが(しかも)ナチュラルに動く』ことの醍醐味が込められているとも言っていいでしょう。

また、映像だけではなく音声も、作風を支える大切な役割を担っています。まず全てのキャラクターに台詞がなく、代わりに「ふうん」などの呟きとか「にゃあ」「わん」といった擬音語を話します。言語を介さないコミュニケーションは、私たちの限定的な生活場面をすり抜け、もっと人の心の深い部分で波紋を起こします。言ってみれば、より多くの人が分かるものになると思うのです。
また、言語を使わない擬音語のみのコミュニケーションは、その『音』が映画作品の一部ともなります。こまちゃんの愛らしい声、おじいさんのつぶやきも風景となり、感覚での理解が可能となります。オタール・イオセリアーニの「四月」もそんな感じでしたね。

「ひとコマひとコマ愛をこめて制作された」と言うだけあって、本作品はていねいなキャラクター造形、繊細なニュアンスがたくさん詰め込まれたものとなっています。可愛いもの好きには是非オススメですが、そうでない人にもこの感覚は通じるはずです。もーかわいいっ!!
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by murkhasya-garva | 2007-05-10 16:30 | 映画