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by murkhasya-garva
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ディセント

「ディセント」(2005)
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みなみ会館にて行われたホラーのオールナイト、4本目。やっぱりオールナイトはホラーに限る。最後までテンション上がりっぱなしです。本作は、上映当時にイギリスで一大センセーションを起こした新感覚ホラー。まさに人間の極限状態を描いた、恐怖の体験。



自動車事故で夫と娘を亡くし、一年経ってもそのトラウマを拭い去れないサラ。友人たちは彼女を心配し、彼女を洞窟探検へと誘うのだった。6人の女たちが潜り込んだ洞窟、そこには彼女たちの想像を絶する「何か」が待ち受けていた…

「途中怖くて映画館を出たくなった。それほど怖い」とTotalfilms誌は評します。確かに怖い。人の持つ不安を、底の方からえぐってくるような感覚。閉所恐怖、パラノイア、未知の生物…ぼく自身、怖すぎてテンションが上がり、何度叫ぼうと思ったか。…え、怖くなかったって?ホラー映画はガマン大会ではありません。強がるのは金の無駄です。実際に怖くなかった?それはご愁傷様としか言いようがありません。
ホラー映画の観客は、できる限り怖がるのが仕事です(…スルーしてやって下さい)。

序盤は確かに、「未知の洞窟に立ち向かう勇敢な女性たち」という、まるで「狩人と犬、最後の旅」(2004)にも通じるような大自然ものとも言えるでしょう。互いに非難し合いながらも、協力して困難を乗り越えて行く姿は、感動的でもあります。しかし中盤以降、モンスターが現れてからがさらに怖い。殺るか殺られるか、といったパニックシーンでは、モンスターの恐怖と同時に、人間の残虐さが描写されます。

これは「マタンゴ」の恐怖の理由にもつながるのですが、ホラーがホラーである要素は、「モンスターvs.人間」という以上に、「人間vs.人間」という同族争いに言及されるようです。お互いに殺しあう人間の姿は、モンスターを殲滅する姿よりもはるかにおぞましく、戦慄を覚えるものです。さらに、今回はそのモンスターまでもが人間の似姿であるということ。まさに悪夢としか言いようがありません。

もちろん本編の恐怖は、モンスターだけでなく「未知の洞窟」という環境にも原因があります。体ひとつしか入らないような細い穴に体をねじ込むという行為。「苦しい、息ができない」…主人公のサラには、息の詰まるような一年間と、この洞窟の閉塞感が重なったとしても無理はありません。

また、他の仲間にとっても、何が現れるか分からない「闇」への恐怖は、深い動揺を呼び起こします。誰がどこにいるのか、誰が敵なのか―人間の根源的な恐怖は、「闇」にあるとも言われます。

また本作は、同時にトラウマ=恐怖の克服劇とも捉えることができます。モンスターの姿が明らかになり、仲間殺しを越えた先の、強い人間像。復讐によって攻撃性を増した・・と比較されることで、「克服する」ことがどういうことなのかを示してもいるようです。それにしても、後半のサラは「地獄の黙示録」か「ランボー」か、というくらいの変わりよう。タンクトップがよく似合う。

洞窟―閉所という、象徴的な設定で展開されるこの作品。
塚本晋也監督の「HAZE」(2005)を具体的に肉付けするとこうなるんだろう、という感じです。血で血を洗う恐怖。見ていて体温が2度は上がりました。
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by murkhasya-garva | 2006-08-29 22:22 | 映画
「マタンゴ」(1963)
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約40年前、恐ろしい映画が総天然色で現れた。人間の醜いエゴや欲望を描ききり、多くの人々に計り知れないショックを与えた作品。本作の反響は大きく、日本映画ベスト100にも選ばれている。極彩色の怪キノコ、マタンゴ。人々の欲望を掻き立てる存在。






惹句はこれくらいでいいでしょう。実は、最近のホラーのような作品を想像していたのです。スピード感のあるパニックシーン、うごめく異形の生き物、飛び散る血しぶき。そういった作品群と比べて観てしまったものだから、何が怖いのか分かりませんでした。この記事の冒頭にも「一体、このセレクトはどういうつもりだ」と書くところでした。それだけぼくが刺激的な映像に慣れてしまったのが、惜しまれます。

本編では異形の生命体―マタンゴやそれを食べた人間が数多く現れます。当時の特殊メイクを駆使して、グロテスクな演出を試みたのでしょうが、きょうび朝の戦隊モノでもそんなのやってねえ。今ではピンク映画でこの程度のメイクが使われるばかりです。例えば、井口昇監督の「恋する幼虫」(2003)の方がグロさで言ったら勝っていますね。演出方法でも、黒沢年男主演の「血を吸う薔薇」(1974)方がよほどドキッとさせられる。

そういった映像技術は、今ではすでに怖くもありません。では内容はどうか。極限状況に追い詰められた青年たちは、食欲や性欲といった、むき出しの欲望をさらけ出します。互いにいがみ合い、自分だけが助かろうとするその姿は、醜悪としか言いようがありません。これは確かに、子どもに見せるとショックを受けそうな内容です。当時は騒然となったのかもしれませんが、今では…ねえ。

いやいや、本来今の作品群と比較すべきではないのでしょう。後世の人々が、この作品を通過して更なる良作を手がけてきたことを考えると、この作品を捕まえて良し悪しを言いたてるのは、本当に詮無いことです。今や、沢山の映画が現れ、消費されていく。その中で古今東西ひっくるめて作品たちを評価するためには、さてどうすればいいのでしょうか。

ともあれ、本作ではマタンゴという怪キノコが内容にも大きく関わってきます。
「東京も、あの無人島と同じ化け物ばかりだ。ぼくもあの無人島に残れば良かったのかも」
一人生き残った青年の独白は、本作の政治思想的なメッセージまで浮き上がらせているようです。当時の時代背景や、製作者の意図を読み取るという意味では面白い作品です。

「最恐伝説」やら「絶叫」というタイトルでくくるべきではなかったですね。以前、新文芸座のオールナイトで「怪奇人間」と銘打っていた方が、よほどしっくり来ています。
昔のB級ホラーとしては有名ですので、未見の方はこれを機に観てみて下さい。
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by murkhasya-garva | 2006-08-29 16:14 | 映画
「女優霊」(1996)
b0068787_191840.jpg今回、長野から帰ったばかりで、体力が消耗気味の時にオールナイトを観に行きました。よほど疲れていたのか、2本目の「月下の恋」は内容も分からないくらい寝てました。ありえねえ・・・カフェイン代をケチったのがまずかった。しかも、前回のポップコーンナイトではほぼ満席だったというのに、今回はたったの30人そこら。
そんなにホラーが嫌い?


新人監督、村田(柳ユーレイ)は、第一回目となる映画を製作していた。ある日、映像チェックで全く別の映像が重なっていた。村井は更に、そこに奇怪な女の姿を発見する。それからというもの、次々に奇妙なことが起こり始める・・・

この作品、4月頭に東京は池袋の、新文芸座で怪奇映画のオールナイトで観たものでした。その時、中田秀夫監督がトークに来ていました。映画の内容と逆に、撮影は終始和やかだったこと、「笑いと紙一重じゃないと怖くならない」ということなど、興味深いものばかり。そして、本作の撮影では「出なかった」が、日活のスタジオは実際に「出る」とも。キャットウォークを走る黒い影がいたとか・・・

再度観てもやはり怖い。「いるはずのないもの」がいるということ。気配がする。声がする。そしてその姿が見える…。それらの「存在」は、普段感じる現実とは違う位相から、突然こちらに姿を現します。その姿が現れる映像に思わず鳥肌が立つ。人の姿なのに、人とは思えない違和感が、余計怖いのです。

本作は全編がドキュメンタリーのように撮影されます。ざわざわとした何気ない様子を映し、また役者の演技が、時には背景のような自然さで行われます。あえて台詞をはっきり録らなかったり、一人ひとりが出しゃばらなかったりと、その自然さは好感が持てるほど。役者さんたちも、知名度の低い、凡庸さの残る(失礼)俳優さんを起用することで、どこにでもありそうな、ドキュメンタリー風の撮影風景にしています。

そんな、どこにでもありそうな中に侵入する、「異物」の存在は、よけいに怖さを際立たせます。ふと現れるぼやけた女の姿、声、それらがドキッとさせる音響と共に出るたびに、肌が粟立ってきます。
中田氏は、演出技術の評価が高い監督だそうです。たしかに、登場人物の感情が高まるシーンはうまい。例えば、いいタイミングで役者さんの顔をアップにすることで、感情が伝わってくるようです。それにしても柳ユーレイの表情、いいですよね。

しかし、残念なのはラスト。一番の見所であるパニックシーンで、すべてをはっきり映すことが、逆に現実感を失わせます。今まで「何気なさ」の演出に好い感じで浸ってきたのに、チープさが目立って興ざめなのです。最後をもう少し練ってくれれば、満足しきれたのですが・・・。

とはいえ、霊の姿が出るシーンはけっこう怖い。好きなホラー作品の一つです。
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by murkhasya-garva | 2006-08-28 01:11 | 映画

長野、飯田線にて

行きは、電車の揺れに微睡んでいた。
ふと気が付くと、両側を緑に囲まれた駅。
何処に迷い込んだのかと思い、不安がよぎった。
西日は暖かく車内を照らし、草木は匂うように鮮やかに映える。
わずか数人の乗客は立ち上がり、めいめいに外の景色を興味深げに眺めていた。
迷いの森と、眼下の壮大な河。
遠野の夢へ、今。


帰りは、飯田駅より高校生が詰め乗る。
若々しくせわしない視線の行き交いは昔を呼び起こし、気を落ち着かなくさせる。
やがて駅を継ぐに従い、一人一人と減ってゆく。
代わりに夕闇が忍び寄り、壮大な姿は身を潜める。
黄昏時の伊那小沢駅、携帯電話の電波も途切れる深山幽谷、ざわめく森に灯りが二つ。
公衆電話は静かに光る。

夜闇を走る飯田線。乗り込む疲れた女性のシャツには"REALITY"のプリント。
水窪-みさくぼ-駅では、祭りが始まろうとしている。
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by murkhasya-garva | 2006-08-25 20:14 | ほぼ日記
「メタル ヘッドバンガーズ・ジャーニー」(2005)
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メタルファンの人類学者、サミュエル・ダンが、「なぜ“メタル”は嫌い、非難されるのか」をテーマにヨーロッパ各地を巡り、フィールドワークを行った映画。
京都みなみ会館にて8月23日に鑑賞。初日だし大入りかと思っていたが、たったの20人弱。少ねえな…


ここまでパワフルに、直接感覚に語りかけてくる作品はそうそうない。ほぼ全編にわたって用いられるヘヴィメタル。特にオープニングは傑作だ。サム・ダンが旅立つ、その後ろ姿と共に激しい音楽が流れる。ありありと感じられる躍動感と、これからの旅への期待は、製作者である彼の、ヘヴィメタルへの深い愛情を強く感じる。このシーンは感動的ですらあり、思わず身もだえしそうになったほどだ。

しかし、確かにヘヴィメタルは、周囲でも聞く人がほとんどいない。暴力的、悪魔的、下品、そんな言葉が付いて回ると共に、その外見の凄まじい異形は否応なく人の目を引く。ぼく自身、高校の頃に興味本意で、マリリン・マンソンの「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」を借りて聴いたものの、凶悪すぎて吐きそうになった記憶がある。

最近コミック化された「デトロイト・メタル・シティ」は、ヘヴィメタルの中でも過激なパフォーマンスを行うデスメタルを扱ったギャグマンガ。これが予想外のヒットを飛ばした。また、以前からメジャー音楽の中にもジョークとして混ぜられることもあり、知名度は決して低くないといえる。しかし問題は、先にも述べたように、この35年間、世に「認知」されてこなかったことなのだ。それは一体、何故なのだろうか。

筋金入りのヘヴィメタルファンであるサム・ダンは、この問題に大真面目で取り組む。ヘヴィメタルの歴史、背景、歌唱法、環境、悪魔崇拝との関係…一つずつが人々の証言と資料によって解き明かされていく。
例えば、音楽の性質は、重低音をベースに用いられることから、ワーグナー、ベートーヴェンとの共通性が指摘される。また一時期から、ブルース・ディッキンソン(アイアン・メイデン)がオペラの歌唱法を取り入れるようになって以来、急速にこの方法が普及したというのだ。

しかし、より驚かされるのはファンの言葉だ。わずか13歳の少女が、自分の言葉で自分の立場をはっきり表現する。「自分の言葉で表現できない人たち」からの逸脱者であり、ヘヴィメタルファンであることに誇りを持っている。また、他のファンは「既存社会との決別」と言う。押し付けられた未来ではなく、自分自身で将来を選択する、という強烈な意思表示…
「決してお前の言う通りにはしない」 この歌詞の持つ意味は思った以上に深い。

何よりも、35年間社会に認知されなかった「ヘヴィメタル」というジャンルからは、表面上の過激な表現と共に、通常目にしないほどの強い「怒り」のエネルギーを感じる。一般的に、ヘヴィメタルは暴力や犯罪の直接の原因である、と考えられがちだ。もっとヘヴィメタルに関わる人たちの言葉を聞き、姿勢を見れば、そのような短絡的な判断はできなくなることだろう。

ヘヴィメタルに興味があろうとなかろうと、この作品は、自分が「逸脱者」であることを意識している方には共感できる点が非常に多いことだろう。サム・ダンの旅は、思った以上の感動を呼び起こす。
ヘヴィメタルを選び取ることは、彼らにとって「生き方を選択する」ことなのだ。
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by murkhasya-garva | 2006-08-23 17:14 | 映画

インサイド・マン

「インサイド・マン」(2006)
b0068787_111918.jpgスパイク・リー監督作品。銀行強盗を「簡単だ」と言ってのける男が仕組んだ完全犯罪を、一部始終にわたって描いた作品。謎めいた映像にヒントを散りばめ、「解いてみろ」と言わんばかりの挑戦的な内容が、とてもリズミカルに映し出されます。
クライブ・オーウェン、デンゼル・ワシントン、ジョディ・フォスターなど出演。


この作品、大阪は天六ホクテン座にて鑑賞しました。ここも地元に密着、といった風情の映画館です。ユウラク座よりも整った内装だけど、よく見ると壁紙の端が変色していたり、おっちゃんおばちゃんが上映開始後にもぼちぼちと入ってきて、何かやってたり…。とはいっても、この空間自体が、そういう“紛れ”を許容しているような雰囲気があり、いちいち目くじら立てるのは違うような気がしていました。

チラシでは「50人全員が容疑者 あなたにはこの謎が解けるか」とあり、まるで「アンブレイカブル」のような謎解かせ作品を思わせる点が印象的です。何でもなさそうな、しかし少し違和感のある映像。謎めいた、何らかのキーワードになるような台詞。一体どこに目をつけたらいいのか…と一人で混乱していました。
実際にラストで謎は解かれるので、心配しなくてもよかったのですが。

主犯格のダルトン(クライブ・オーウェン)が仕掛ける完全犯罪の主軸は、「実行犯と人質が見分けられない」という点。人質には実行犯と同じ服装と覆面をさせます。そしてことあるごとに、その人質をトランプのようにシャフリング…実行犯のメンバーも紛れ込み、一体誰が犯人なのか分からなくなっていきます。
主犯格のクライブの作戦は、この主軸をもとに素晴らしく知的に遂行されてゆきます。

しかし、「謎を解け」と言われると、どこまで解けばいいのか分からなくなります。ただでさえ情報が少ないと、推測でおぎなう部分が大きくなり、果てにはストーリーを理解しているのか、設定に突っ込んでいるのかまで分からなくなってしまう。そういう時は、黙って観ていると何とか帳尻が合って、いちおう満足してしまうものではありますが…

ダルトンの信条は「誇りを失わないこと」。彼は、冷酷非道な犯罪者としてではなく、誇り高い人間として描かれています。なぜ彼がこの銀行を襲ったのか、そして何をしようとし、結果的に何をしたのか…そこから浮かび上がる実行犯ダルトンの姿は、実は「義賊」なのです。
知的なクライム・アクションだが、……監督の確固とした信念が感じられます。

オープニング映像から暗に示されるヒントは、「情報は時間とともに跡形もなく消えさる」でしょうか。注意深く観ておきたいものです。作品全体にわたって散りばめられる知的な仕掛けと、会話に見られるユーモアセンス。
監督のユニークな視点が、映画の中でも異彩を放ちます。
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by murkhasya-garva | 2006-08-23 01:12 | 映画
「ティント・ブラスの白日夢」(2005)
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上映作品を物色していると、たまに普段お目にかかれないような作品を見つけます。本作はいわゆるピンクエロスに当たる作品で、大阪は天六ユウラク座にて上映されていました。ふだんこの類の映画は観ることもなく、好奇心に駆られていそいそと足を運んだわけですが・・・


上映した天六ユウラク座という映画館、今は数少ない名画座のニオイがします。店先には生々しいまでの手書きの看板、ドアを開けると受付のおばちゃんが「いらっしゃい」と声を掛けてくれる。場内の微妙な古めかしさは、以前行ったトビタシネマを思い出させます。といってもあそこまで雑然とはしていませんが。

この作品は、結婚して半年を経た女性が、夫との関係に満足できず奔放な性を求める、という内容。いやはや、扇情的の一言に尽きます。男性の欲望をひたすら掻き立てるために作られたようなものです。そこには、性を通じてのテーマというものはなく、ただエロティックさを求めた描写が延々と続きます。
お願いだから横のおっさん、モゾモゾしないでくれ~。心配で集中できない…。

かつてラス・メイヤーは「巨乳」を好んで撮りましたが、ティント・ブラスは「巨尻」が好みなのだそう。若く肉付きのよいマルチナ(アンナ・ジムスカヤ)が肢体をくねらせ、淫蕩の限りを尽くす姿は、妄想逞しい殿方にはたまらないものがあることでしょう。
美術館にはノーブラで足を運び、パーティにはノーパンで臨む彼女。ひたすら自分自身の欲望に忠実な女性像からは、男性の願望が丸出しです。少々妄想に過ぎるようですが。

また、この作品の性的な方向性を強めるために、道徳的な視点が小道具に使われます。序盤では人目を拒み、夫に秘密を隠す主人公、後半では眉をひそめる周囲の人々というように、性に奔放であることへの背徳感が端々で示されるのです。この背徳感、持てば持つほど人は燃え上がるようです。背徳感を感じながらも交情にいそしむ姿は、逆に性への情熱を高めることになります。

同時に、おそらく本作はあらゆる価値観を引きずり下ろし、等質にしているようです。主人公は、美術館のフレスコ画に描かれた男性器を見て欲情し、ある男はパーティで「所詮、宗教と性が一番もうかる」と言います。また、足を引きずるウェイターや妙な私服のオペラ歌手、痴呆の老女など、さまざまな問題を抱える描写が無造作に放り込んであります。これは、恐らく監督が意図して、ソドムの町のような有り様を作ったのかとも読めますが、推測の域を出ません。

ともあれ、殿方が好みそうな作品です。原題の「monamour」、実は男性器の隠語だということも考えると、監督は“本格的”なピンクエロス映画を作ろうと意気込んだのでしょう。しかし現実は、妄想半分の内容から、かなりの安っぽさが目立つ作品でもあります。上映終了後にすぐ席を立てなかった方も何人かいるくらい、エロティックではありますが…
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by murkhasya-garva | 2006-08-21 20:40 | 映画
「才女気質」(1959)
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今回のポップコーン・ナイト、最後の作品は、「至極のモダニスト」中平康によるソフィスティケイティッド・コメディ。当時の京都の界隈、そしてあのイノダコーヒなど、かつての姿が映し出されます。京都の表具師の家で起こる世代の衝突をコミカルかつシニカルに描いた逸品。        



まず説明から。上記のソフィ何ちゃらとは、都会的な会話とその妙で笑わせようとする、洗練された作品を指すそうです。監督の中平康に冠された言葉は、ミルクマン斉藤氏の本「至極のモダニスト 中平康」からいただきました。彼はモダンとソフィスティケイション(言いにくい…)を好み、テクニックを至上のものとする方だったとか。彼が一躍話題となった作品は「狂った果実」(1956)。石原裕次郎主演作です。

個人的な好みでいったら、轟由起子演じる登代の役柄が本当に好かんのです。一家を纏め上げるほどのバイタリティ、そして負けん気の強さと頑固さ。うちの母ちゃんを見ているようで胸焼けしてきます。悪い人なんかじゃないんだけど、融通の利かないところがなんとも腹立たしいやら…まだまだ僕も若い。
そんな彼女が最後にカラカラと笑うのを見ていて、僕は「あほくさ、しょーもなっ」と呟いたのでした。

作品自体は、ものすごく歯切れがいいのです。たとえば、登代を中心に登場人物のせりふ回しがやたら早い。もちろんプリントの保存も良いのでしょうが、彼らのこなれた京都弁は必死にならずとも聞き取れるんです。シャキシャキと弁の立つ登代と対照的に、とぼけた雰囲気の似合う、大坂志郎演ずる市松の適当な加減がとてもほほえましい。

そして何よりも若く華やぎを持った女優たち。表情もせりふもクルクルとよく回り、可愛らしいとはこういうことを言うのだなあ、と感心していました。因みにここで出演する吉行和子は、出演で(新人)と付いています。時代の流れに驚きます。周りも「新人?!」とざわついていました。

彼女をはじめ新しい世代は、登代の言うことなど聞きもしません。息子の令吉(長門裕之)に嫁いだ呉服屋の娘は、家にじっとしていない。娘の宏子(中原早苗)も、あれほど反対した一夫(葉山良二)と結婚して家を出て行く。中国帰りの一夫には、笑顔で「母さんと話していても埒は明きませんから」と言い切られ・・・

我を張り通し、人の意見も聞かない登代。憎たらしくも、一家の台風の目として立ち回る強烈なキャラは、確かに印象的です。また周囲の人々とのやりとりも、どこにでもありそうで、その軽妙さや機転の利き方が舌を巻くほど巧みです。往年の作品の中でもある種、異色の傑作だと思います。ぼくもあと20年位したら納得しながら観ていることでしょう。
中平康の作品、一度は見てみるべきですよ。
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by murkhasya-garva | 2006-08-18 01:59 | 映画
「2番目のキス」(2005)
b0068787_11571319.jpgさて、ポップコーン・ナイトの3本目は、野球チームの熱狂的ファンの恋物語。しかし、原題が「FEVER PITCH」(熱投?)にも関わらず、主演のドリュー・バリモアのキス・シリーズ最新作として売り出されてしまい、「ひどい邦題だ!」とお怒りの方もいるとか。
ぜひトラキチの方には観ていただきたい。
関西では11月公開。


野球を題材にした作品は数多くあります。約1世紀にわたって人々を魅了し続けてきた野球には、ファンや選手の想いが詰まっているものです。そのため、野球にまつわるエピソードは数知れず、ときには人生と比べるほどの愛情が込められていることも少なくありません。

月並みですが、こういう映画に出会えてよかった!!と、観終わってつくづく思いました。本当に心がじんわり温まる作品なのです。等身大の人間が人生の選択に悩み、そしてハッピーエンドに終わるのを見るのは、何だかんだ言って幸福なものです。野球ファンならずとも、共感できるところは非常に多いでしょう。

ベン(ジミー・ファロン)は、すべてが野球最優先の男。7歳の頃に、伯父に野球の観戦に連れて行かれて以来、23年間レッドソックスのために人生を捧げてきた。そんな彼が好きになったのは、やり手のキャリアウーマンのリンジー(ドリュー・バリモア)。彼女も彼のことを知ろうと、彼の愛する野球を知ろうと努力するが・・・

特にトラキチの方々には、身につまされることが多いのではないでしょうか。「野球と恋人、どっちを取る?!」こんな厳しい選択、できるはずがない。付き合った頃は「野球に情熱を傾けられるあなたが好き」と言ってくれたのに。野球も彼女も好きだけど、どっちが好きか、なんて答えようがない。
しかも「野球への愛が、いつか私に向いてくれるだろうと思っていたのに・・・」なんて告げられた日には、どうしようもありません。

彼女の悩みも共感できる点があります。相手を好きになってしまうと、仕事の方に手が回らなくなってしまう。そんな自分を「軽蔑すべき人間」と評します。そこにもやはり、恋と仕事、どちらも大事なのに両立できないことの焦りが滲み出ているようです。また、なぜこの人は野球をこんなにも愛し続けているのか?という根本的な戸惑いさえも見え隠れします。

こういった悩みから、自分を殺して恋人と折り合い、結局心のどこかに後悔を引きずって生きる人もいれば、結局どちらも分かり合えずに別れてしまう人もいる。この作品の主人公のように、相手のことが野球と同じくらい好きなんだ、ということをお互いに分かり合えたら、どんなにいいことでしょうか。

本作では、そんな恋の駆け引きが、レッドソックスの優勝までの道程と重ねあわさって語られます。悲観的にも楽観的にもなりすぎることなく、その絶妙なテンポで観る者のテンションを下げることはありません。
ラストのシーン、分かっていても感動して泣けてくる。とても心温まる作品です。
サッカーの熱狂的ファンを描いた「フーリガン」も面白そうですが、こっちの方が共感できるのでは?
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by murkhasya-garva | 2006-08-16 11:59 | 映画
「ハックル」(2002)
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ポップコーンナイト2本目は、これまた異色作。弱冠28歳であった監督が、映画学校の卒業制作で作った作品を国際的に評価され、数々の映画賞を受賞。観る者を不思議な世界のとりこにします。
タイトルはハンガリー語でしゃっくりのこと。



ハンガリーの田舎でしゃっくりを続ける老人。老人の周りでひびく自然音、生活音が織り交ざり、不思議な空間を作り出します。台詞もなく、ドラマもない。あるのはただ、色鮮やかな田舎の風景と「音」です。
そこで思い出したのが、以前観た「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」。この自然音の連なりは、ノイズミュージックに近いのではないでしょうか。

それにしても、色々な音と映像をつなぎ合わせるだけで、こんなに面白い作品が出来るとは。確かに上映終了後に「寝とったわ~」という声はちらほら聞こえました。ぼくも寝てしまうのを心配していたのですが、なぜかスクリーンから目が離せないのです。次に何が出るのかという期待と、ナンセンスの中でも何とかドラマ性を見出そうとする癖が、興味を持たせていたのかもしれません。

前半は、牧歌的な風景が流れ、音が鮮やかに響きます。そして、段々と奇妙な光景が挟まれるようになる。村人に配られる小びん、池の中の水死体、女を見つめる警官、突然倒れる老人・・・。

何かドラマが起きるのかと思ったものの、これらの奇妙な光景はいとも簡単にスルーされてしまいます。それはまるで、「音」の連続の中では、モラルの区別すら存在しないかのようです。そして、生と死にとどまらず、可視のものから不可視のものまで、大から小まで、あらゆるものを網羅するように、豊潤なイメージが映像となって広がります。

その豊かなイメージの中心となっているのが、しゃっくりをする老人。彼はまさに、村という小宇宙の生命の中心となっているようです。「しゃっくりひとつで、世界がひっくり返る」ほどではありませんが、彼のしゃっくりは、この世界の心臓の鼓動のようにも思えてきます。

他の映画とは一風違った作品。台詞がなく、ひたすら自然の風景や人工物を、音とともに映し出すという点では「ナコイカッツィ」などQATSI三部作に似ているような気もします。興味のある方は見てみるのもいいかも。意外とはまります。
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by murkhasya-garva | 2006-08-16 09:44 | 映画