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by murkhasya-garva
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<   2006年 05月 ( 13 )   > この月の画像一覧

「焼け石に水」(2000)
b0068787_0474926.jpg5月27日に京都みなみ会館で<歌う!フレンチ・シネマ・ナイト>で1本目に上映された作品です。フランス産のミュージカルといえば、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の「シェルブールの雨傘」「ロバと王女」を思い出します。今回のオールナイトはフランソワ・オゾンの「ぼくを葬る」公開を記念した企画だとか。一味違う雰囲気が楽しめました。

1970年、ドイツ。20歳になるフランツは、中年男性のレオポルドに誘われて一夜を共にする。以来レオと同棲を始めるが、2人の蜜月は長く続かない。ある日、元婚約者アナからフランツに連絡があり、再開を果たすが…
本作は2000年ベルリン国際映画祭テディ2000賞受賞。

「さすがフランス映画は違う…」知人が呟きました。良くも悪くも、恋愛のもつれを微細に描き出すことができた作品です。人間関係の極地ともいうべき関係は、観る側に何ともドロドロとした印象を与えます。これがフランスの文化なんだ、といわんばかりに愛憎が繰り広げられるわけです。背徳とまでは行きませんが、不条理なまでの展開になす術もありません。

レオポルドの部屋を舞台にストーリーは展開します。愛しあう2人がすれ違う様子を一室で描くという点で、最近公開された「ウォ・アイ・ニー」(2003)に似ている気がしましたが、それは前半だけ。後半からは別れた婚約相手のアナや捨てられた女性のヴェラが登場し、事態は複雑になります。そもそも同性愛が組み込まれるために少しややこしくなりますが、結局はフランツという青年の心の揺れを描いた作品と理解すれば、分かりやすいかと。

興味深いのは、各章で必ずベッドに横たわる人物とそれを見下ろす人物が映される点です。第1章ではフランツをレオが、第2章ではレオをフランツが、そして第3章ではアナをフランツが、と映され、それだけで立場関係が分かる。簡単に変わる立場を茶化すかのようにコミカルな音楽が流れるのが印象的です。

そう、この作品では音楽やダンスで、絡み合う人間関係を象徴し、時には事態を突き放して笑うように用いられるのです。抑圧された不満を表明するためかフランツは大音量でヴェルディのレクイエム、「怒りの日」を流します。または4人がそろった肝心な状況で突然踊りだすサンバ(「僕とサンバを踊ろう」トニー・ホリデイ)、レオとフランツの間で流すマーラーの「交響曲第4番ト長調」など…
これらの音楽があるおかげで、各々の状況がより分かりやすくなるようでもあります。

ストーリー全体を通して、象徴的な表現が台詞や各シーンにおいて多用されます。
ラストでは哀れなフランツを振り回すレオは暴君と化し、2人の女たちをも支配します。愚かで短絡的なアナとヴェラには、即物主義の王様であるレオに逆らう力はありません。ただ、フランツだけが夢と現実の狭間で迷い続けます。レオと対照的な存在であるからこそ、結局はフランツだけが彼の支配から脱出できたのかも知れません。

原作者のファスビンダーも、フランツを中心に置いてこの作品を作ったのかも知れません。思わず内容の細部の読みに目が行ってしまったこの作品、他に観た方はどういう印象を持ったのでしょうか。
「ぼくを葬る」に先駆けて、オゾンを知るために観てみるのもいいでしょう。
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by murkhasya-garva | 2006-05-29 00:49 | 映画

るにん

「るにん」(2004)
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2ヶ月くらい前に観たやつです。奥田瑛二第二回監督作品。前作の小沢まゆ主演「少女~an adolescent~」(2001)は、第17回パリ映画祭、第16回AFI映画祭でグランプリを受賞したそうです。
本作は第7回“the Method Fest”映画祭で最優秀作品賞を、松坂慶子は審査員特別賞を受賞。


絶海の孤島、八丈島には島流しにされた罪人が身を寄せ合って生き延びていた。花魁であった豊菊は、江戸へ戻るために自分の体や仲間を売っていた。そこに新たに罪人として喜三郎が送られてくる。喜三郎は彼女と共に島抜けを計画するが・・・

今まで観た時代劇とは違った雰囲気を持った作品でした。確かにぼくが見たことのある時代劇なんて、水戸黄門や大岡越前くらいのもの。映画では、黒澤作品を数本といったところで高が知れています。その中で比べるのも気が引けますが、人間の描写が基本的に違うように見えたのです。
つまりテレビで放映されるような作品は、勧善懲悪のような決まった形式が多いですし、黒澤作品は見終わってすっきりするような大団円の形が多かったように思います。また、どちらも視聴者に素直に活力を与えてくれる、単純明快なものばかりです。

しかしこの作品の登場人物は、その境遇ゆえに必死に生に執着し、悲劇から逃れることはもはや不可能に近い。江戸時代の流刑者という、きわめて特殊な立場の人々が織り成す人間模様は私たちの心を確実に深く刻んでゆきます。群像劇という体裁も、「るにん」と呼ばれる人たちの関係を俯瞰して描写する上で少なからず効果を挙げています。
例えば、これが豊菊の視点からのみにすると、逆に一定の倫理や道徳観がでしゃばって「るにん」の世界を忠実に描けなくなるのではないでしょうか。経験的に言っても。

ここではまた、群像劇という方法が島の住人の関係を描写する重要なポイントになります。一人の行動が他の人間の行動を促し、そしてそれが他の人に影響する。連綿と続く人々の運命は、図らずも、かつ必然的に誰かを悲しみの淵に落としてしまうのです。そもそもの原因は豊菊(松坂慶子)に惚れた新入りの喜三郎(西島千博)なのですが、彼は八丈島の住人の秩序を中心部分から揺るがす役割を担うことになります。

そして、この作品は人間の宿業を正面から見つめるため、人々の行動は必然的に凄惨さがにじむものとなります。明らかに残酷なシーンを絶妙なタイミングで避ける代わりに、人々の追い詰められた感情が、力ある役者陣によって表情豊かに描かれます。特に行き場を失った花鳥(麻里也)の表情がすばらしい。彼女の目を真っ赤にした必死の形相は、今でも忘れられません。

喜三郎の豊菊と共に逃げようとする姿は涙を誘います。考えてみると、その姿はキリストに重ねられないでしょうか。島の住人を苦境から放とうとし、自分も責任を負う姿は献身的ですらあります。そして、肝心の豊菊もまた、彼女の境遇や末路から見るとマグダラのマリアのように思えます。

映像の美しさもそうですが、内容も手抜きを感じさせない徹底した印象を受けます。あからさまにテーマを放り込まず、ストーリーの流れを重視してじわりじわりと描写する。それだけで観る側に何らかの感動を呼び起こすのです。力強い作品です。一見の価値あり。
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by murkhasya-garva | 2006-05-27 00:30 | 映画

街の灯

「街の灯」(1931)
b0068787_1016913.jpgさる5月17日、かねてから楽しみにしていたチャップリンの名作「街の灯」が京都会館にて上映されました。この「オーケストラ・ライブ・シネマ」の第二回目となる企画、作品中の音楽を本物のオーケストラによって演奏しようという何とも贅沢なもの。京都市交響楽団が齊藤一郎氏を指揮者に見事な演奏を行ってくれました。





時は不景気のまっただなか。浮浪者のチャーリーは、街角で花を売る盲目の貧しい娘に出会った。花を一輪買った彼は金持ちの紳士と誤解されてしまう。彼はその貧しさから娘を救おうとして金策に走ることになるが・・・

チャップリンといえば知らない人はいないほどの名優であり、この「街の灯」もチャップリンの作品中で傑作中の傑作といわれる作品だそうです。実は救いがたいことにぼくは彼の作品を1本も観たことがないのです。初鑑賞がこんな極上の体験になるなんて全くもって幸福この上ありません。

熱烈なファンが付いているこの作品と名優チャップリンにケチをつけようとは微塵も思いません。実際に観てみて、その質の高さ、素晴らしさに感涙を抑えられなかったほどです。繰り広げられる極上のコメディに腹を抱えて笑い、同時にこんな素晴らしい作品があったことに感激して涙で息が詰まりそうになる、まさに「泣き笑い」。

内容に関しては、社会から遊離した浮浪者、チャーリーをめぐって話が展開します。
登場する盲目の娘と金落ちの男は、実はとても対照的な存在であるようです。盲目であるにせよ酔っているにせよ、2人とも現実が「見えて」いない点では同じであり、その間はチャーリーの温かみを感じることができます。しかし、目が覚めて/開いてしまうと「浮浪者」というレッテルが目に入り、チャーリーの価値は地に落ちてしまうのです。また他のシーンでも同様に、貧富のギャップが随所で見事に表現されます。
この作品は心の豊かさを主題にすると同時に、現実世界に巣食う「貧富」の深刻さを露骨に描写しているようです。しかしこれを笑って飛ばせる作品に仕立てたところに、チャップリンの上手さが感じられます。

一番好きなのがボクシングのシーンです。早回しでテンポ良く繰り出されるギャグ。繰り返し行われるネタ。ギャグの伏線が明らかであり何が起きるか分かりきっているのに、何度も何度も笑ってしまう。この種類の笑いは吉本新喜劇に似ている、と一緒に行った方はコメントしていました。

古典とも呼ばれる作品の大半が、なぜ現在に至るまで惜しみない賞賛を受けているのでしょうか。そもそもこの作品自体がサイレント映画という限定された環境で、必然的に音楽も後付けされざるを得ないものだったはずです。技術で言えば現代のほうが遥かに上であり、一見現代のほうがより質の高い作品を作れそうなはずなのに。

しかしこの作品を観ていると、ある考えが浮かんできます。限定された状況だからこそ、求められる質は逆に高くなるのではないか、と。極限まで削られた言葉。それに対してパントマイム役者であるチャップリンの、万人に理解を呼ぶパフォーマンス。誰にでも分かるギャグ。映像と音楽の絶妙なマッチング。よく見ると細かな動作さえもが音楽のテンポにあっているのです。

1930年代前後はトーキー(有声)映画が徐々に普及していた時期だったのに、あえてサイレント映画を選択したところにチャップリンの何らかの意図を感じます。彼はこう語ります(孫引きですが)。
「それに、元々私はパントマイム役者だった。その限りでは誰にも出来ないものを持っていたつもりだし、心にもない謙遜など抜きにして言えば、名人というくらいの自信はあった」
「第一に、無声映画は全世界に通ずる表現形式である。トーキーは、どうしても領域が限られる。ある民族のある言語に縛られる」

進歩した技術が作品の幅を限定してしまう、そう確信していた彼は自分の表現力を信じ、最高の作品を世に送り出したのです。最も普遍性が高く、万人の共感を呼ぶ要素を持った作品を。そこには彼の天才性を感じざるを得ません。

未見の人は、必ず観るべき作品です。この作品に、現在までのコメディの原点が凝縮されているといっても過言ではありません。保証したっていい。
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by murkhasya-garva | 2006-05-22 10:16 | 映画

好きだ、

「好きだ、」(2005)
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滋賀会館シネマホールにて鑑賞。関西圏では5月14日が最終日だったので慌てて近鉄東西線に乗り、観にいきました。ジャージにビーサンで鑑賞、とうとうやってしまった。少しは服装に気を使うのが最後の砦だったのですが、これから本当に適当になりそうです。やばい。


17歳。互いに抱いていた想いは伝えられることなく、二人は会わなくなった。そして34歳。偶然にも再会を果たした二人は、何かを確認しあうように過去を紡ぎ合わせる。あの頃の想いは、今も続いているだろうか…

互いに想いを伝えられない二人を温かい視線で見つめ、大半を占める沈黙や静寂で、彼らのもどかしくもある非常に細やかな感情表現を生々しく浮き彫りにします。特に宮﨑あおいの表情がたまらない。言葉にならない感情がちょっとした顔の動きで豊かに伝わってきます。これこそ宮﨑あおいです。「害虫」や「ラブドガン」で見た彼女の魅力が発揮されています。

作品自体の雰囲気が非常に特徴的です。大方の映画の登場人物は、作中で他のキャラに愛されるか、でなければ観客に愛されるような存在として造形される場合が多いはずです。しかし、主要キャラであるユウとヨースケはさして作中において存在感が大きいわけでもなく、ただ単に脚光を浴びた普通の人物のように思われるのです。この際立たなさ、一般の映画の中では異様さすら感じます。

34歳のヨースケは「音楽という器の、一番はじで何とか食いつないでいた」と自分のことを表現します。
人々の中に確実にユウとヨースケは存在しているのに、この世の中に2人だけ忘れられた、そんな隔絶感が強く息づいているのです。しかし、2人の間でいつまでも鮮やかに残る相手への想い。ごく普通の、ちっぽけな人間の持つ鮮やかな恋心はとても現実味を帯びていて、ひしひしと観る者に伝わってきます。

また、17歳のユウと34歳のヨースケにはいくつかの符合があります。例えば、2人がキスをしたときの、互いの気持ちのすれ違いを引きずっているし、入院する人間は、各エピソードの主人公の相手が気にしている人だったりします。このような小さい、しかし重要な符合がいくつも重なってストーリーの重層性を持たせるのです。まるでそれは2人の気持ちが奥底でつながっていることを象徴しているようでもあります。

この作品で外せないのは、頻繁に写される青空。登場人物の心情を象徴すると共に、作品自体の透明感を引き立たせるアイテムとなっています。黙って見つめられる空には、なぜか「哀しさ」が伴います。ガス・ヴァン・サントの「エレファント」で映される空によく似ています。沈黙。そしてかすかに息の詰まる緊張感。

ごく普通のちっぽけな、しかし互いに強く惹かれあう2人の人間の心情を、言葉と音楽を極力排除することによって、非常に繊細な部分まで描ききった作品です。ここまで徹底した表現をする監督もなかなか見当たりません。もう上映時期は過ぎてしまいましたが、一応観ておきたい一品です。
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by murkhasya-garva | 2006-05-19 20:28 | 映画

デュエリスト

「デュエリスト」(2005)
b0068787_784512.jpg韓国映画を観たのは本当に久しぶりです。最近の話題作といえば「タイフーン」「連理の枝」「ダンサーの純情」「DAISY」「ぼくの世界の中心は、君だ」など。韓流ブームも段々と沈静化してはいますが、今なお韓国スターファンには喜ばしい作品が次々と公開されています。これだけ上映されているなら観にいってもいいものですが、驚くほどに韓国作品は観ていません。

朝鮮王朝時代。国中を揺るがす偽金事件が勃発し、その裏に隠れる陰謀を暴くため刑事たちが乗り込んだ。武術に長けたナムスン(ハ・ジウォン)も潜入するが、彼女の前には刺客(カン・ドンウォン)が立ち塞がる。彼と剣を交えるうちにナムスンの彼への想いは燃え上がるように募り…

最も面白かったのは、オープニングとエンディングでした。
まず初めに、剣舞を披露する男の動きに目を奪われます。その速さは人々の足を止め、剣の一閃は追っ手の動きを止めます。ポーズがいちいちかっこよくてキメ過ぎな感はありますが、BGMとうまくマッチして非常に流麗な映像が目を引くことでしょう。つまりオープニングに象徴されるように、この作品の最大の魅力は「剣舞」であると断言できます。

ここでは剣舞、とあえて言います。バトルシーンには通常の戦闘のような緊迫感がない代わりに舞踊のようなリズム感のよさが感じられるからです。そんな剣舞はいたるところで行われます。最後まで愛を紡ぐかのように行われる2人の剣舞。暗転した舞台で舞う、というのは「陰陽師」で行われた野村萬歳の狂言を思い出させます。

また朝鮮王朝という時代背景ながら色彩は市井でも邸宅でも、無理なく鮮やかに映し出されます。そして映像を飾るのは、カン・ドンウォンのビジュアル。彼は「新撰組!」の土方歳三を演じた山本耕史に似て、長髪からのぞく大きな目が魅力的です。ハ・ジウォンも後半に向かうにつれて映像に馴染んでいきますし、実際に美しくなっていきます。

ただ途中で挿まれるギャグのセンスがどうにもいただけない。不必要さが妙に際立って鼻につきます。まさかあのタイミングで笑いもないもんだ、というのが何点か見受けられました。また戦闘場面では先ほど「流麗な」という表現をしましたが、全体を通して、映像を美しく見せるためにスローや静寂のシーンを多用するのです。これが逆に退屈の原因にもなりかねません。

ここまで書いてきましたが、今回内容について殆ど言及していません。それもそのはず、この作品についてはストーリーは特筆するところがないのです。よくあるパターンに陥っているようでもあります。しかし、ラストに限って言えば、悲恋を剣舞によって昇華するというのは、この作品の醍醐味とも言えるのではないでしょうか。
恐らく良いところも気に入らないところも同じくらい見つかる作品。観たい人は観ればいいという程度かと思います。
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by murkhasya-garva | 2006-05-16 07:10 | 映画
「ブロークバック・マウンテン」(2005)
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アメリカ公開後数多くのを受賞し、また一方で内容に関して上映を禁止した州も出たという作品。予告編や上映直前で受賞した映画賞を一気にスタッフロールのように流すという、他では真似できないようなことをやってみせた。「今、映画の歴史が変えられようとしている」なんて惹句も。


1963年、ワイオミング州。ブロークバック・マウンテンの農牧場での季節労働者として、イニス(ヒース・レジャー)とジャック(ジェイク・ギレンホール)は出会った。共に助け合いながらひと夏を過ごし、性格の異なる2人は深い友情を築く。それは、程なく友情を超えた関係へと変わっていったのだが…

多分、ここ最近でこれほどまでにセンシティブな映画が出たことはないと思います。確かに男同士の愛情を扱ったという点でもですが、それ以上にストーリーそのものが本当に繊細で、じわりじわりと胸を締め付ける感動が広がってくるのです。まるで昔の名画を見ているような感じ。相手を狂おしいまでに愛しいと思う。その気持ちを真正面から描いた作品です。

ゲイ映画という位置付けからこの作品を観るのはともかく、色モノを見るかのようにこの作品を扱うべきではありません。確かに今までの作品の多くは、同性愛という愛の形が「異質」であることを前提とし、時には逆説的な方法を取って(例えば「僕の恋、彼の秘密」)、観客に理解を促してきた傾向があります。しかし、この作品に限っていえば、なぜ彼らが愛し合うようになったのか、ごく自然な流れとして観る者に伝わるはずです。すべての愛に通じるかたちがここにあるのです。

もちろん、男同士という社会的に許されない関係ならではの特殊な状況も多く出てきます。イニスの妻の「浮気されている」ことの苛立ちなど、通常はあまり考えられません。つまり、今まで描かれた数多くの男女間の恋愛もの、それとの比較構図をやすやすと超える新鮮さがこの作品を評価の高いものにしているとも考えられます。もちろんアン・リー監督がそれを丁寧に描写できたからだ、ということも忘れてはいけません。

良い映画であるとはどういうことなのか。時代を追うごとに撮影技術は高度なものとなり、映像効果をCGによって求める作品が増えてきました。また奇をてらった内容ばかりに目が行きがちでもあります。本作はそんな作品とは正反対の方向を行き、そしていまだ映画の王道であり続ける要素を盛り込んだものになっています。
2人の男を大きく包み込み、まばゆく光るブロークバック・マウンテンの自然。優しく見守るように奏でられる音楽。無駄のないストーリー展開。そして苦悩する男を繊細に深く演じるヒース・レジャー。どれをとってもあの切ない感動を呼び起こすのです。

しかし、最近の刺激の強い映画を当然と思っている人には多少物足りなさを持たれるかもしれません。流れるように展開するストーリーに、臆面もなく「だから、何?」と言う感覚。この作品がいかに緻密に作り上げられているかを考えれば言えない台詞ですが、ぼくも含めてそう言いかねない人が増えていることは恐ろしいことです。
観ていない人は、是非とも観るべし。観た人は、もう一度観るべし。もっとも、上映時期はほぼ終わっているのですが…。
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by murkhasya-garva | 2006-05-13 23:47 | 映画

アカルイミライ

「アカルイミライ」(2003)
b0068787_162668.jpg京都みなみ会館で催された「続・オダギリジョー・オトコ前ナイト」では、カンヌ国際映画祭に出品した海外バージョン(日本未公開)の「アカルイミライ」が上映されました。本作は日本公開版(115分)と違い93分と大幅にカットされています。内容は同じですが、少し趣の異なる作品になっていました。なぜか大好きな作品の一つです。

仁村(オダギリジョー)は、いつも何かにイライラしていた。彼が心を許せるのは、同僚の守(浅野忠信)だけだった。守は仁村の苛立ちを抑え、代弁してくれる存在でもあった。そんな彼が突然彼の前から姿を消す。行き先を失った彼は守の父の真一郎のもとで働くようになったが…

オダギリジョー、浅野忠信といえば日本の実力派俳優として有名です。その2人が共演とはなんと贅沢なことか。ストーリーや演出もですが、この作品は俳優の魅力に負うところも大きい気がします。20代の若者が持つであろう浮遊感―未来への漠然とした不安やほのかな希望―が何とも言えず印象的です。

黒沢清監督は、「CURE」や「カリスマ」もだったのですが、とても独特な空気を持つ映像を作ります。薄暗い場所をそのままに撮影したり無駄なくBGMを配することで、ドキュメンタリーを観ているような感覚になると同時に、いつの間にか現代の寓話世界に引き込まれていくのです。そして本作品はBGMがとても良く、現実と虚構の境目を行く温かなメロディが登場人物へのいとおしさを倍加させます。

日本公開版ではその空気感を表現するために、丁寧に仁村の姿を映し出します。同じ世代だからか、その感情の震えが良く伝わってきます。行き場がなく社会から遊離した若者。守は「クラゲ」となって東京という秩序から離れていきますが、仁村は時が経つにつれて現実を直視し、未来に向かって歩き出すのです。

一方海外バージョンでは、そんな各エピソードの導入シーンを潔くカットしていました。主要な部分のみを映すことで、物語の流れがストレートに分かるようになっているのです。海外に本作品を発信する際に、外国の人にも理解しやすいように配慮したのでしょうか。
また、仁村のシーンを多少削って守に焦点を当てている点も重要です。仁村はただの落ち着きのない青年になります。そして本当にイラついているのは守で、仁村をコントロールして自分自身の苛立ちを代弁させているようにも見えます。ここは日本版ではなかなか分からなかった側面です。

これらの各シーンの入れ替えや、「切り返し(クロス・カッティング)」といわれる方法(だろう、たぶん)で、それぞれの関係と象徴性が明らかになり、作品の全体像が分かりやすくなっています。日本公開版と比べて海外バージョンは雰囲気の演出という点で物足りなさが残るけど、はるかに分かりやすい。日本でも公開してもらいたいものです。

個人的には、守の父が現実を見ようとしない仁村に、「ほっとけないよ。じれったいんだよ」と詰め寄るシーンが本当に身につまされました。まるで自分を見ているかのような錯覚に陥ります。身につまされすぎて辛くなる人もいそうですが、これは若い人、そして子を持つ親に観てもらいたい作品です。温かく、いとおしくなる映画です。
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by murkhasya-garva | 2006-05-11 16:26 | 映画

世界の孫

今回は映画ではなくマンガについて。
前回「転がれ!たま子」で紹介した「世界の孫」なんですが、マンガつながりで調べる機会があり、意外な事実が確認されました。

ちなみに「世界の孫」は、高校生の甘栗甘水が天然の孫感を漂わせ、孫っ可愛がりな老人たちはおろか周囲の人間をも巻き込んでいくという内容。ギャグマンガです。というかそんなネタをよく持ってきたもんだ。

SABE(さべ):
「主にエロ漫画雑誌で活躍している。レディースコミックで活躍する漫画家、南Q太(女性)と結婚して一児をなしたが、離婚。作風は、エロティックあるいはフェティッシュな題材のギャグ漫画。とりわけ女性用体育着のブルマーを偏愛しており、作中の美少女キャラクターの大半がブルマーを着用している。」

<作品>
BEAUTIFUL MONEY(1998年、ワニマガジン社)
ブルマー1999(1999年、ワニマガジン社)
地獄組の女(2000年、久保書店)
串やきP(2000年、コミックフラッパー、メディアファクトリー)
阿佐ヶ谷腐れ酢学園(2003年、快楽天、ワニマガジン社)
世界の孫(2005年、月刊アフタヌーン、講談社)
ブルマー200X(2005年、ワニマガジン社)
(wikipediaからそのまま引用)

これだけ読んで少しショックを受けました。いや、ぼくがモラリストだとか訳の分からないことをいうつもりはないです。むしろ、そんなコアな作家だったのか…と感動しているくらいです。
コミックフラッパーは購読してませんし、エロ雑誌は全くといって良いほど読みません。それで今回の「世界の孫」はデビュー作品かと思っていたんです。
確かに不条理ギャグがいい感じで回転していますし、絵も結構安定しているので新人臭さがないな、と感じていたんですがこの経歴には驚いた。

コミックを早速買ってみたいと思います。
エロ漫画にはあまり理解がないので多分ダメでしょうけど…。

それにしても最近はダメ人間マンガによく魅力を感じます。
例えば、ヤングアニマル連載の「みたむらくん」(えりちん)、アフタヌーン連載の「ラブやん」(田丸裕史)、コミックビーム連載の「敗北DNA」(市橋俊介)などなど。
また不条理系ギャグもけっこう好き。「おしゃれ手帖」(長尾謙一郎、全10巻)は代表的です。

そんなぼくの琴線に触れる「世界の孫」は、多分どちらかの要素が強いのかもしれません。
ともあれ今後の活躍に期待したい強力な作家です。
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by murkhasya-garva | 2006-05-06 23:56 | 活字・マンガ

マンダレイ

「マンダレイ」(2005)
b0068787_19154663.jpg2003年に公開された「ドッグヴィル」の続編。この作品の特徴は、平板な床にラインを引き、申し訳程度にアイテムをおいただけで舞台としてしまうという大胆な手法にあります。一般の映画とは、多くの意味で一線を画す意図をふんだんに盛り込んだ社会派映画。見ごたえはあります。



ドッグヴィルを離れたグレースたちがたどり着いたのは、マンダレイという小さな村。突然黒人の女がグレースに駆け寄り、自分たちの窮状を訴えた。グレースはこの村の旧態依然としたルールに憤り、この村の制度を変えるべく村に残ることを決意する・・・
監督はラース・フォン・トリアー。カンヌ国際映画祭では観客に大きな衝撃を与えた。

まず気になったのは、主人公のグレースが前回演じたニコール・キッドマンではなく、ブライス・ダラス・ハワードという役者に代わっていたこと。「ドッグヴィル」でのキッドマンのインパクトは大きく、その俳優としてのパワーに圧倒されたのが記憶に残っています。しかしなぜ今回役者を変更したのか。確かにキッドマンは撮影終了後「こんなに大変な仕事はなかった。もう二度とやりたくない」と言っていたが、本当にやらないとは夢にも思いませんでした。というか続編が出ることすら忘れていたっての。

だから今回の感想だって前作を見てから書こうと思っていたのですが、そんな時間は他の映画鑑賞に費やされてしまうわけです。まったくどんだけ時間使ってんだという話です。

ともかく、前作もそうでしたけどこの作品にはある種の緊張が伴います。余分なものをこそぎ落とした舞台で、丁寧な説明を施すナレーションが淡々と状況を解説する。時々俯瞰する視点から人々を映すことがあり、ラインだけで区切られた空間内をめいめいに動く人々を見ていると、まるで登場人物の行く末があらかじめ運命付けられているような錯覚に陥るのです。
本当に語りたいことだけを語る。そんな徹底した姿勢を貫いているこの作品は、筋肉と骨だけを残した人体模型を彷彿とさせます。

ドッグヴィルの苦い経験を経て少しは賢くなったとはいえ、愚かなグレースはマンダレイの因習に無力でしかありません。そもそもなぜ奴隷解放以来70年もこの村で奴隷制度が続いていたのか。その根深い原因を問うことなくひたすら理想主義へ向かうことの危険性を、彼女は知らなければならないようです。

この作品を観ていて様々な思いが去来します。すべての暗喩を解説した後に作品に残される含意はどこにあるのかとか、老人の子殺しとはどういう意味なのかとか。
特に感じたのはスタッフロール時の写真について。人種問題を扱うとき、悲惨さを訴えたいときはそう感じるような資料を強調すればいい。しかし、現象そのものを全側面から描き出すそうとするとき、それ以上に現象自体の悪夢性やおぞましさが浮き彫りにされるようです。
それにしても、とにかく一つ一つのシーンや構成が訳ありげで、頭を抱えるに事欠かない作品なのです。
ある種非常に挑発的で、そして恐ろしいくらいに誠実な作品であるともいえます。

ドッグヴィルを観ずともこの作品のパワーは感じることが出来ます。「ナイト・ウォッチ」のような消極的な意味合いでなく、次回の第3部作「WASINGTON」が本当に楽しみです。
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by murkhasya-garva | 2006-05-05 19:19 | 映画

バイバイ、ママ

「バイバイ、ママ」(2004)
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放任主義の両親に育てられ、寂しい思いをしてきたエミリー(キラ・セジウィック)は、全ての愛情を注げる子供がほしいと願う。授かった1人息子のポール(ドミニク・スコット・ケイ)を溺愛し、外界との接触を一切断ってエミリーは2人だけの世界を築こうとするが…



ケヴィン・ベーコンが監督として長編に初めて挑んだ作品。キラ・セジウィックが彼の妻であるなど、キャスト・スタッフは彼の親戚が何名か起用されているという。

子供を異常なまでに溺愛し、学校にも行かせようとしない母。確かにそんなキャラはサイコな映画につきものですが、本作品はそれをわざわざサスペンスタッチで強調することはしません。その原因となった彼女の過去をさりげなくエピソードに挿み、彼女の行動をユーモラスに描きます。だからエミリーの情熱も視聴者に受け入れられやすいし、好感を持って見守ることができるのでしょう。

何といっても母のエミリーを演じるキラ・セジウィックは相当に魅力的だし、息子のポール演じるドミニク・スコット・ケイはとてつもなくキュート。笑顔がたまらん。ポスターを見て女の子かと見間違ったほどです。こんなに我が子が可愛かったら誰でも手放したくなくなるような気がします。

それでもエミリーの愛し方はすごい。原題のとおり、彼女はポールを「LOVERBOY」と呼びます。これは‘愛しい子’、もっといえば‘私の小さな恋人’とも訳しますが、そう呼び続けるあたりどれだけ息子を愛しんでいたかが推察できるというものです。ポールが自分のもとを離れようとすると必死で止めるし、彼を学校に送るときや人に預けるときのエミリーは何ともいえず切ない表情をするのです。
そこまで愛されれば子供も幸せでしょう。少なくとも、学校に行く年齢までは。

その愛情も、社会に背を向けるようになれば「異常」になります。成長していくわが子、思い通りにならない二人の愛の世界。最後に彼女がとった行動に、思わず胸が詰まります。あくまで母親に好意的な視点とはいえ、このテンションの変わりようには少なからずショックを受けてしまう。

ちなみにエミリーの理想の女性にはサンドラ・ブロックが出るのですが、かつて大舞台で騒がれた女優が脇役として薄幸の女性を演じているのを見ると、時代の流れを感じると共に少しだけ物悲しくなります。

役者陣が安定していて、落ち着いてみていられる良い作品です。「何か良いのない?」と聞かれたらこれを勧めてあげて下さい。
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by murkhasya-garva | 2006-05-04 07:07 | 映画