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by murkhasya-garva
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<   2006年 03月 ( 13 )   > この月の画像一覧

三年身籠る

「三年身籠る」
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西島秀俊、オセロの中島知子が出演するちょっと不思議な作品。もし3年間妊娠したら…というありえない設定のもと、現実感あふれる細かい設定で観客を引き込む。いかにも「ありそう」な思いにさせられて、何だか楽しい。




冬子(中島知子)は妊娠9ヶ月。もうすぐ母親になるという自覚がないまま10月10日を迎えようとしている。一方、夫の徹(西島秀俊)は浮気に忙しく、夜はビリヤードで恋人とデート。冬子は浮気に気付いているが、あきらめた様子。女系家族の末田家は、冬子がなかなか産気づかないのに結構のんびりしていて…。

京都シネマ、上映ラスト2日で観客はなかなかの大入り。しかも9割方は女性というのだから驚きです。少し肩身の狭い気がしましたが、なかなかどうして。映画を観ているときの楽しそうな反応がこっちまで伝わってきて、ほのぼの観ていました。

ありえない設定なのに何だか「ありそう」な気にさせられるのは、そこから積み重ねられる設定に無理がなく、鋭い視点で登場人物の細かな心情を汲み取っているからなんだろうな…、とそんなことを考えていました。いくつものフタの開かない容器を徹に開けてもらうシーンだとか、すこし大げさだけどやっぱり「ありそう」なネタがたくさん入っていて、所々で笑ってしまいます。

それにしても、三年間も妊娠していたら子供も中で育つんですね。中島知子のお腹を見るたびに「でっか!!」と言いそうになる。そりゃあのくらい大きかったら動けないよな。「育児をしなくてすむ」なんて冬子の母、桃子(木内みどり)は言う。そりゃそうだけど…。

妊娠27ヶ月の姿。誰も見たことがないからこそ、赤ちゃんがおなかの中で何をしようが、観ている側は決して否定できません。さらっと流されるシーンにぎょっとさせられることが何度かあるので、しっかり観ていたほうがいいです。その「ごく自然に」異常な感じがとてもいいんですよ。
それにしても、冬子をとりまく家族が、当然のようにその異常な状態を受け入れているのが何とも不思議な感じです。

この映画がキワモノ作品にならないのは、本来の目的がキワモノのそれとは違うからだと思います。キワモノなら、異常な人々や世界観を放り込んで、「どう?ヘンでしょ」と言わんばかりに観客を混乱させようとするでしょう。
しかしこの作品に限って各々の設定は、観客を驚かせるためではなく、大きなテーマを考えてもらうための潤滑油として働いているように感じます。オープニングのゴミ拾いだって、ただのシュール系ギャグではなく、妊娠時の感覚を言っているのでしょうか。

詳細はHPにありますが、監督は、子供を生むということ、育てるということの自覚について3年間の妊娠を想定したそうです。実際に時を追うごとに、家族は「家族らしさ」を身に付けていくのです。浮気をしていた徹は父親に、ぼんやりしていた冬子は母親に。
今の人間にとって10月10日の期間は、親になる準備をするには短すぎるのかもしれません。

そして、この作品を彩る脇役にも注目しておきたいところです。妹の緑子を演じる奥田恵梨華、そして恋人の海を演じる塩見三省。彼らは冬子夫婦のためにいるだけではなく、自分の人生をも展開させます。緑子の心情を上手く汲み取れないのが残念ですが、3年の妊娠の横で、彼女も自分自身を知ることが出来たのではないでしょうか。

一つ一つの設定に何かしらの意味があると思ってじっくりもう一度観てみたいものです。1回目は雰囲気を楽しむだけで十分でしょう。観てみる価値があります。とはいえ、なぜ女性がこんなに多かったのか分かる気がします。冬子を中心とした女性の心情は、男には理解しきれない・・・。
というか全然読み込めた気がしません。まだいっぱいあるのに。
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by murkhasya-garva | 2006-03-28 18:09 | 映画

スクールデイズ

「スクールデイズ」
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0歳で芸能界デビューを果たした相沢晴生(森山未來)は、普通の生活に憧れ突如の引退。しかし学校ではいじめられ、いいことなんて一つもない。友達の勧めがきっかけで学園ものドラマに出演するが、与えられる役柄はいじめられっ子…



「世界の中心で愛をさけぶ」の森山未來、初主演作品。大変気合が入っていて好ましい。セカチューなんかよりこっちのほうが好きだ。

個人的には見事に引き込まれてしまった作品でした。感動とかいう基準ではなく、なんというか共感してしまうんですね。この「痛い」感覚は身に迫るものがある。ただ単にいじめられる映画ではないのがポイントなのかも知れません。大抵モゾモゾしてしまうのに、見入っていて身動き一つ出来なかった。
ギャグで展開する前半で世界観を作っておき、後半は溜め込まれた違和感が膿のように噴き出す。その巧い仕掛けにはまってしまいました。

この作品は、一貫して「現実と虚構の区別」に焦点が当てられます。オープニングでは本当に某有名監督やベテラン俳優が大真面目にコメントしていたり、実際に曲を提供しているハイロウズの名が出てきたりと、現実の境目がわからなくなる予感がしてきます。
また伝説のドラマの「はみだし!スクール★デイズ」はそのまんま金八先生のパロディ。現実ではありえない現実を描くドラマが、観る側をいつのまにか眩惑させる役割をするのです。
そしてこれが本作品のタイトルである「スクールデイズ」の意味。“daze”は「めまい」のことです。

相沢晴生は役に入れ込みすぎてノイローゼになった経験のある少年。現実でもドラマでもいじめられる彼は結局ドラマに没頭しておかしくなっていく。耐えられない現実の負荷が大きくなるだけ、彼の錯乱はひどくなっていくのです。
憧れの赤井豪(田辺誠一)、もとい鴻ノ池幸一先生がどこからともなく現れて、晴生にアドバイスをくれる。もっとも、それは至極真っ当なアドバイスなのですが。

現実逃避の一方で、晴生はドラマには異常なほどのリアリティへのこだわりを見せます。スタントをいれずに階段落ちを敢行したりと、身の危険なんかそっちのけ。この現実と虚構の逆転現象をなぜ彼は望んでいるのか。それは彼にとっての現実が、本当の苦しい現実ではなく、居心地のいい「スクール★デイズ」に他ならないからです。

もっとも、現実感のないのは晴生だけではありません。彼をいじめる間山たちも同じことです。痛みへの想像力が欠けていることを、最後に晴生は現実と虚構の境目で伝えたのです。「人の痛みは、自分の痛み。君も知ったほうがいい」と。

劇中劇となる「スクール★デイズ」はものすごい単純さでストーリーが進行します。しかも強引なオチでのラスト、キャスト降板の辻褄あわせなどその不自然きわまりない世界は、長寿番組の学園ものの現状を皮肉るという役割も持っているようです。と同時に、ノー天気な雰囲気は結果的にシリアスに張り付きそうになるところを脱力させてくれもします。山本太郎は本当にいいキャラを演じてくれる。

観た後に満足!!といえる性質の作品とはまた違いますが、確実に見ごたえのある作品だと思います。深刻になるのではなく、むしろ「痛い」ほうかと。観客の方がうつむき加減に映画館を出て行っていたのが印象的でした(笑)
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by murkhasya-garva | 2006-03-26 16:16 | 映画

イーオン・フラックス

「イーオン・フラックス」
b0068787_14544168.jpgシャーリーズ・セロン主演作品の3作目。「モンスター」「スタンドアップ」で大変好評だった彼女が、今度はSF映画に挑戦。
また近々ナタリー・ポートマン主演の「V フォー・ヴェンデッタ」が出るので、近未来の連作ものか?と思っていたが違うようだ。しかし今後は目白押しになる模様。


シャーリーズ・セロンを観るのはこれが初めて。前作を観ていないのに今回観るのはすごくミーハー丸出しで何だか気が引ける。

2015年、人類の98%がウィルスによって滅亡した。残された人類は一箇所に集められ、隔離されたその地で理想郷を作り上げた。グッドチャイルド家により代々その管理されてきた社会、ブレーニャで、人々は何一つ不満なく生活していた。しかし、一方でこの体制に反抗する組織「モニカン」が秘かに作られていたのだ…

何がすごいってシャーリーズ・セロンがすごい。髪を黒く染め、恐ろしく均整の取れたスタイルで近未来的な服装を颯爽と着こなす彼女の魅力と演技力はハンパではない。アクションも素晴らしく、体一つで敵を斃していく姿がカッコよすぎる。この作品は彼女で成り立っている、といっても過言ではない。それだけ彼女の魅力が強いのだ。

この作品は大部分が戦闘シーンである。であるがゆえに、戦闘にはしっかりと力を入れているようだ。武器の使用にしても体術にしても無駄な飾りがなく、戦闘シーンの美しさを十二分に出せている。それでいて、前回の「ナルニア」のような現実感のなさも解消するだけの入魂ぶりにとても好感が持てる。

ストーリーでもあまり退屈させない。随所に散りばめられた世界観の謎も、出し惜しみすることなくスムーズに話の展開に沿って解き明かされるので、欲求不満にならなくてすむ。ただ多少複雑になっているのか、ストーリーをちゃんと追っていかないと流されるがままになっていまいそうだ。とはいえ、観ているだけで楽しめるとも思うが。

また、SFであるべく多くのアイテムが未来的(悪く言えば突飛)だが、パチンコ玉型ロボットや皮膚移植など、さりげなく使っていてわざとらしさを感じさせない。必要な所で的確に使うアイテムが、作品全体への違和感を減らしていると思う。監督の中でちゃんと各アイデアが消化されているということだろう。

この作品は、恐らく多くの作品を下敷きにしているだろう部分がかなり見受けられる。精神界で他人と出会い、対話するというアイデアはナイト・シャマラン監督の「セル」によく似ている。精神界内部のデザインのイメージが奇抜なのが面白い。この作品の根幹に当たるアイデアは「アイランド」によく似ている。このネタは以前から使い古されている感があるが、よくアレンジしていると思う。

全体のデザインが目を引く。日本風のしつらいが色々なところに配置されていて、しかもそれぞれが空間にそれなりに落ち着いているのが面白い。洋画によくみる日本好き好きオーラが空回りしているのとは違い、一定のコンセプトをもっているように思える。和風+ポップアートの部屋が個人的には好き。

しかし、この作品で残念なのは、肝心のアクションのリアルさに物足りなさを感じるところである。どれだけ兵士の首が勢いよく折れても、「セロンかっこいいなあ」で終わってしまう。トレヴァー()が兵士に撃たれても、状況がすぐに把握できない。そして、SF要素が強すぎるのかどうも「痛み」のような現実感に欠ける。
こういったアクションの優雅さや背景の美しさやSF的背景、といったメリットが他の部分の魅力を妨げているような気がするのだ。
謎解きの部分もそうだ。謎解きを本格的にさせようとするのでもないし、かといってすべてが理解しやすいわけでもない。

それぞれが不十分なのではない。各ポイントが十分すぎて、かえって全体のバランスを崩しているようなのだ。それぞれの魅力を伝えようとしすぎて、失敗してしまったような感じがする。本当に残念な作品だ。
ただそれらのバランスの悪さとは別次元に、この作品の柱となり得るのは主演のシャーリーズ・セロンである。彼女の魅力についていけば、この作品は満足できるといっていいだろう。
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by murkhasya-garva | 2006-03-24 14:57 | 映画
「ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女」
b0068787_17494378.jpgファンタジーものが次々と世に出る中、とうとうこの名作までも映画化されたか…。小学生の頃、引き込まれるように読んだ記憶がある。とはいえ、もう10年以上前の話。ろくに覚えちゃいないが、秘密の抜け道を通って異世界へと旅立つ、という設定が当時の自分にはたまらなく魅力的だった。

異世界での夢溢れる冒険劇。ディズニーが手がけるナルニアは、どれほどの感動を与えてくれるのだろうか。原作はC.S.ルイスの物語。

戦時中、空襲から逃れるためにピーターたち4人兄妹はマクレディ家に疎開する。ある雨の日、末っ子のルーシーはかくれんぼの最中に大きな衣装棚を見つけた。分け入った棚の奥には、なんと雪景色が広がっていたのだ…。

一言で言えば、皆が満足できる内容だといえる。夢の世界に飛び込む魅力を十分に味わうことができるのではないだろうか。さすがディズニー、ホームエンターテインメントは得意分野らしい。とりあえず、何観る?と迷ったときに選んでも外れることはない作品だろう。
分かりやすく、世界観に入りやすい。つまり、安心して観ることができるのだ。

だが、全年齢対象であるが故の欠点もやはり見つかる。
この手の作品の特長は、裏を返せば簡単に不満点となりえる。
まず誰でも安心して観られる、ということは、全編にわたって「お約束」で固められたものである、ということである。主人公=善は結果的に勝利し、ハッピーエンドとなることが分かっている。また奇抜なネタは極力排除される。そのために作品全体に緊迫感がなく、ともすれば退屈な作品ともなりかねない。
しかし誰にとっても見るに堪えるものであるには、作品全体の構図も単純でなければならないのだ。

全体を分かり易くするためには、全体の水準を下げる必要がある。つまり戦いが中心であれば、戦闘シーンも理解しやすい必要がある。ピーターと魔女の戦闘など、はっきり言って子供だましだ。剣技はゆっくりで、魔女までもが剣に関しては初心者に見える。しかし剣の重さを知らないかのように魔女が剣を振り回し、その剣はピーターの一撃で易々とたたき折られる。どう考えても現実感がない。

そして原作自体に関わることかもしれないが、魔女も4兄妹もいようといまいとナルニアの存続には影響なかったのではないか。アスランの存在が大きすぎて、結局どんなに猛威を振るっても魔女は見事に典型的な「悪」でしかない。それと同時に、アスランはその存在感で、結局ピーター4兄妹の行為すらもかき消してしまう。まるで彼らの戦いが茶番だとでも言わんばかりに。

しかし、そもそもナルニアが「夢」の世界であり、彼らの内面の反映だと考えると、ナルニアと兄妹の関係は意味がある。兄妹はナルニアに望まれて王になったのであり、その過程で戦闘をはじめとして様々な体験をした。ナルニアから戻ってきたときには、一回り精神的な成長を遂げていることだろう。つまり、ナルニアが必ずしも彼らを必要としていなくても、彼らにとっては必要な「通過儀礼」のための世界だったのだ。

また、オープニングでは戦闘機が夜空を飛び交っていた。あの戦火の中、当時のイギリスでは誰もが鬱屈した思いを抱えていたことだろう。そんな時に兄妹が覗いた世界は、彼らの行き場のなさを払拭してくれるものだと思う。当時の抑圧感からの解放、はけ口としてナルニアは彼らを待っていたのだ。

現実に、当時の閉塞感を抱えた人々にとって、「ナルニア国物語」は心を豊かにするものであったろう。未知の世界への冒険、主人公の勝利、精神的な成長。今の平和な時代にも語り継がれるこの名作は、原作の発表時期には、おそらく大変な好評を博したことだろう。

春休み、手始めに観るならこの作品だ。一緒に観る相手がいるのなら、なおさらである。原作の力も借りて、この映画はファンタジー作品としては上出来な部類に入るだろう。満足はできることだろう。
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by murkhasya-garva | 2006-03-22 17:51 | 映画

酔画仙

「酔画仙」
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2002年カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。
朝鮮の天才水墨画家の人生を描いた作品。壮大な自然を相手に絵を描くスンオプは、酒と女をたずさえて、ひたすら自分の画力を高め続ける。
炸裂する才能を味わうべし。



この作品も神戸のシネ・ピピアで催された「2005年映画傑作選」で観てきたもの。映画設備としては優れたものとはあまり言いにくい。しかし観客からのリクエストを随時受け付け、特集を組むというのはいいアイデア。ミニシアターならではの方法。

本作品の魅力は、天才画家チャン・スンオプの溢れんばかりの才能。奔放な生活を続け、自ら水墨画の修行に明け暮れる姿が、あまりに潔く、スケールが大きい。時折描かれる美しい絵が、作品の魅力の一つとなっている。絵画の価値がどれほどのものかは分からないけど、彼の絵が見事な演出で映し出されるたびに息を呑んでしまう。常人離れした能力で周りの人間をいやでも揺り動かす、ということに自分が憧れているからかもしれないが。

若い頃こそ先輩格の絵師たちに疎まれていたが、彼は年を経るごとに世に容れられるのである。晩年には「彼は国家の宝だ」と言われ特別な計らいを受けるまでに。彼が世の絵の流れを作るまでに。それこそが彼のただならぬ才能の力なのだ。

ではなぜ彼はそれまでに世に影響を与えるほどの存在となったのか。酒を飲み、女を抱き、放埓な人生を送ってきた彼が何故?それは、彼自身が絵に一生涯を捧げたからだろう。彼は自分の才能を信じて疑わず、常によい絵を描き続けようとする“求道”の姿勢を貫いた。

そして彼の一貫した姿勢は、意外な面でも現れている。口さがない先輩には目もくれないが、師匠と呼べる人間には必ず敬意を払うのだ。野良犬は己の本能に従って生きる、とは言いすぎだが外れてもいないだろう。真に良いものを求め続ける当然の結果かもしれない。
ラストも圧巻である。あれは彼の生き方を象徴した姿だ。

またスンオプの絵は大半が自然物である。彼のやっていることが茶番に見えるくらい、その対象物、つまり自然の存在が大きすぎるように思われることにも注目したい。彼が絵に真剣であるほど、自然は大きくなるのだ。彼が鳥の群れを冬空に見上げるシーンは、その一端を示すいい例だ。
同時に、監督の映し出す自然風景にもはっとさせられる。彼の風景の切り取り方は、一枚の絵画のようでもある。全体を通して映像の美しさへのこだわりを感じてみるのもいいかもしれない。

この作品が高い評価を受けるのは、映像の美しさだけではない。時代の変遷とともに変化するものを明瞭に示せている。つまり、当時主流の画法であり、スンオプの人生観であり、朝鮮の思想の変化なのだ。そういったものが彼の絵を通じて語られるのが、とても好ましく思われる。

スンオプを演じるのは「オールド・ボーイ」主演のチェ・ミンシク。彼は老け役が本当に良く似合う。老境に差し掛かった者の眼差しが印象的である。しかし、若いスンオプ役の少年が5年後に、彼になるというのはどうしても納得いかない。あれでは5年ではなく15年は経っているだろう。

ともかく。スンオプという「絵を描く獣」の壮大な人生を大自然とともに描かれるこの作品は、問題がある部分を差し引いても感動できるのではないだろうか。ここまで個人のパワーを正面から描いた、ある意味正直な作品は最近なかなかない。この際ナショナリズム云々は言いっこなしである。
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by murkhasya-garva | 2006-03-18 22:48 | 映画

博士の愛した数式

「博士の愛した数式」
b0068787_20561749.jpg原作は小川洋子の小説。もうすぐ春が訪れる時期にぴったりの心温まる作品でした。出演は寺尾聰、深津絵里、浅丘ルリコ、吉岡秀隆など。
ルートの母(深津)は、新しい家政婦として呼ばれてきた。義姉は、離れに住む義弟(寺尾)の世話をしてやって欲しいという。彼は若い頃の事故で記憶が80分しかもたないのだ・・・

久しぶりに深津絵里が出演している作品を観た。以前観たのは「阿修羅のごとく」。四姉妹の一人として出演していましたが、今回は母親役です。まだそんな年でもないだろうと思っていましたが、なかなかこれがあっている。若い母というイメージが適役。何より彼女の魅力である健康的な笑顔が、キャラ作りに一役買っているようでもあります。

寺尾聰はここ最近映画によく出演しています。「半落ち」、「イージスの盾」と特別に目を引くわけでもないけど、無理のなさというか、安定感のある演技が印象に残ります。今回は記憶障害を抱えた博士。不変の存在としての役柄なのですが、話の展開ごとに映る彼の様子は微妙に異なっているのが興味深いです。

今回は小説の映画化として、成功した例ではないでしょうか。もっとも、原作を読んでいないのであれこれ突っ込めるわけではないんですが。重要なシーンがはっきりしていて、何を言いたいのかが比較的分かりやすいように思います。

まず、「博士の記憶は80分しかもたない」という設定を中心に、人々の心情が展開されます。
そこで主となる義姉と母の姿は対照的です。時の止まった博士に抵抗し、しかし昔と変わりない愛に囚われる義姉。そして変わらない博士を信じ、自分の中に新たな愛をはぐくむ母。この違いは、キーワードとなる台詞が効果的におかれることで明らかになります。
さらに、映像にすることで対照性は際立ちます。浅丘ルリコでは若い頃の写真まで使って年老いたことを強調しているのに、深津絵里は(多分ですが・・)息子のルート(吉岡秀隆)が成長しても若いままなんです。

では、この対照性の出所というのが、“数”に当たるようなのです。数は博士が追求し続けたものであるため、博士の性質を表すアイテムともなっています。(先に挙げた設定も、博士が数学者であることと密接に関わるようです)実際に、義姉は博士(=数)を理解するため正確さ、厳格さと理解し、その姿勢を貫いてきました。一方で母は、数に「愛」を見出すようになりました。それは博士のいう「友愛数」「親和数」、根号(ルート)の説明が、人間に喩えて行われることからも分かると思います。
2人が知った数の性質は異なるものでしたが、しかしそのどちらもが正しいのです。ただ、どちらがより「人間的」かという点で、ルートの母の方が分かっていたんでしょう。

こう見ると、本作が相当に細かい設定を持っていたのが分かります。博士にしても、バックグラウンドや性格、性質は、すべて“数”の性質から着実に連想してきたのでしょう。一般の数学者に付きまといがちなキャラクターとはまた違うわけです。何より人間味溢れる人物であったのがとても好ましい。

もちろんこれはフィクションであり、その有り得なさはまさに「現代のおとぎ話」です。それでも観る側がつよい親近感を持つことができるのは、現実的な描写や全体に流れる温かい空気、そして出演した俳優の方々の持つ、程よいバランスのとれた人間臭さのおかげではないでしょうか。

無理なく観ることのできる、心温まる作品です。あれこれ細かく考えずともその雰囲気に入り込むことが出来るでしょう。
(というかこの映画を観て謎解きをしようということ自体、野暮ったい←おれのことだ)
「良い」映画を観たいならコレです。
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by murkhasya-garva | 2006-03-16 21:13 | 映画
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」
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最近邦画を観ていない。味のある俳優を見たい。一癖ありそうな映画を観たい。そんなマイナー作品欠乏症にかかっていた時にすっ飛んで観にいった作品。浅野忠信を見るのは、「乱歩地獄」以来。「誰がために」観たかった~。監督は「EUREKA」の青山真治。



2015年、世界中に人を自殺に追い込むレミング病という奇病が蔓延していた。ミヤギ(筒井康隆)はレミング病に罹ったハナ(宮﨑あおい)を救うべく、症状を抑制する音楽を作るミュージシャン、ミズイ(浅野忠信)とアスハラ(中原昌也)のもとを訪れるが・・・

予想通り不思議な映画だった。さわりだけだと、近頃聞かないくらい驚くべき陳腐な筋立て。ヒーローものの出来損ない?しかし監督は青山真治、出演は浅野忠信に宮﨑あおい。こりゃ何かあると考えるのが当然なわけで。全編を通して流れるノイズミュージック。世界の果てを思わせる広大無辺な風景。そのためか感じる人間同士の無機的な関係、一人ひとりの抱える孤独感。

まずこの作品を観るに当たって多くの人々にとって関門となるのがノイズミュージックだ。長時間にわたって流れるノイズは、未体験の観客にある種の忍耐を強いる。ともすれば集中が途切れて寝てしまいそうになるのを必死にこらえ、付いていくのに苦労する。特にオープニングの部分。全く話の筋が見えない上に、ほぼ無言で「音」を採集する2人。淡々としすぎていて、辛かった。
ミヤギやハナたちが登場して、会話を始めるだけで話が急に展開する。
それはまさに天祐(笑)。

ミュージシャンの2人はひたすら音を集める。作業自体が楽しいのかどことなく口元が笑っている。それは自殺した人々を見ても、仲間が燃されていても同じことである。彼らが音楽(ノイズ?)に身を捧げているのが分かる。彼らの徹底さは、ライブのシーンからも分かるように、孤高で異質。救世主というより、村の外れに住むおかしな知恵者、といった感じ。しかし納骨の仕方も相当おかしい。知恵者というより宇宙人のようでもある。

レミング病については一応の説明がなされている。空気感染し、刺激を与えると人の神経系に作用して自殺願望を引き起こすとか。もしこの奇病に説明がなければ、「病気なのか、ただの自殺なのか分からない」ことにぶち当たり、トンデモストーリーになること間違いなし。

またレミング病は、人間、特に現代人の感覚を描写する際の有効なアイテムとして用いられる。つまり登場する人々は誰もが何らかの形で深い孤独を抱えている。そこでレミング病は彼らにいっそう「死」を意識させることとなる。発症(自殺)しないからといって感染していないわけでもないという不安。自分の自殺願望は「病気」なのか?という疑問。 誰もが死と隣り合わせなのだ。

当然、ミズイやアスハラも例外ではない。自分自身の暗い過去や内面を抱えて生きる者であることには変わりない。ただ、彼らは他大多数の人と違って、自分のために好きなように生きる、という選択をすることによって虚無感から離れることができただけだ。生き残った老人たちも同様だろう。自分なりの生き方を確立した者の強み、ということだろうか。
そう考えると、「東京節」を2人で口ずさむミヤギと探偵ナツイシの、最後の行動の違いの意味も自ずと見えてくる。

この病気はノイズミュージックの存在感を引き立てるツールだとも言えよう。アスハラも、「病気が音楽を餌にしている」と言う。唯一、症状を抑制する効果のあるとされるノイズミュージックは、実際に視聴者に「眠気を誘う」と言わせ、「意識がクリアになる」といった効果を感じさせるそうだ。作中ではハナが、4台の大きなスピーカーの間で大きく「揺り動かされる」のがとても印象的である。あの映像効果や演出は、やはり実体験に基づくのだろう…。

とはいえ、今まで雑音としか聞いてこなかった音をすぐさま評価することなど出来ない。ひたすら弦を引っかき続けるシーン、ラストの演奏シーンなどで集中力は途切れてしまう。理解の出来ない作品をどう評価しろというのか。
しかし、この作品をすぐさま頭ごなしに否定はできない。他のサイトでは「考える」のではなく「感じる」作品だという方もいる。だとすると、まず未体験の観客は少なくとも、作品の異様な空気にただただ呑まれるべきなのだ。そしてそれが正攻法だということなのだろう。

ともあれ、「エリエリ」をきっかけにノイズミュージックが何かを多少知ることができた。いままで、一定の旋律や意味を含んでいる音楽を聴きながらでは集中が難しいことを感じていた。意味に気をとられることなく、ただ聴いていられる音楽。それがノイズミュージックなのかもしれない。
出演している中原昌也は、自身が「暴力温泉芸者」「Hairstylistics」として活動するアーティスト。まずはそこから体験してみたい。

ノイズミュージックの雰囲気を知るという意味ではとても有意義な作品。全体的にも、空間的な広さや静寂が空虚感と混じっていて、登場人物の設定とも通じる、一貫した印象を受ける。演技のよしあしを見るより、まずこの作品を「感じる」べきである。一見の価値あり。
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by murkhasya-garva | 2006-03-14 20:06 | 映画

ヴェラ・ドレイク

「ヴェラ・ドレイク」
b0068787_17113812.jpg兵庫県の宝塚シネ・ピピアで鑑賞してきました。ここでは「2005年映画傑作選」が先日まで催されており、数多くの素晴らしい映画が上映されました。他にも「酔画仙」「ベルリン・フィルと子供たち」を鑑賞。さすがに傑作選というだけあって、全部当たりの充実した時間でした。

ロンドンの労働者階級の人々が住む界隈に、ヴェラ・ドレイクは暮らしていた。体の調子が良くない人の面倒を見、貧しい青年を食卓に招く。周囲の人への思いやりを怠らない彼女は、家族から愛され、尊敬されていた。しかし、彼女にはまだ誰にも話していないことがあったのだ・・・
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞・主演女優賞を受賞した作品。

以前、あらすじだけ読んで「秘密?」と何だか陳腐なサスペンスものを想像していたけれど、この作品は違いました。一種の社会問題を取り上げた、心を深くえぐる作品です。聖人的な主人公の体現する倫理観と、施行される厳格な法律。社会の格差に潜む悲劇が、静かに世に問われるのです。

この作品は俳優の演技がとても上手い。脚光を浴びるような身分とは正反対の、小さな街の名もなき労働者たち。ヴェラの周りにいる人々は特に、飾ることのない善良な人々の姿が印象的です。嫌味なところがなく、あまりに人間らしい彼らの思いにいつの間にか同調していきます。

また、ヴェラの家族に見られる一家団欒のシーンは、ある種の完成された幸せ、といったものを感じます。隣人のレジーを招き、食事をし、食後の一服を楽しむ・・・たったそれだけの光景にとても温もりがあるのです。慎ましい家庭の「完成された」幸せ。異なった社会に住む私たちにも、何とも心地よい気分が伝わります。

しかし、法律と倫理観のせめぎ合いにあったとき、人々の反応は少しずつ異なってきます。「法を犯した」という行為を許せない息子のシド。悲しみにくれる娘のエセル。いかなる時にもヴェラを愛する夫のスタン。いつも彼女とその家族を避けてきた、スタンの弟嫁のジョイス。

目を引いたのはシドの態度。どんなに家族が説得しても、母を許すことが出来ません。むしろ、法廷で裁かれる彼女に怒りを持っています。この態度の変わりようは何なのか。若さゆえの正義感が「犯罪者」というレッテルを貼られた者を拒んだのでしょう。しかし彼の生きる社会は、母が「人助け」のために自ら法を犯していた社会でもあるのです。そこで彼の態度は少々異質に映ってしまう。

つまり、法律という存在が社会を分化し切れていない様子が見えるのです。母体を危険に晒すという理由から中絶が禁止されたとはいえ、そこで課される処罰は法の成立以前にあった人々の倫理観さえも歪めてしまいます。人を愛する、助けるという行為が法に規制されるという何ともやるせない現実に、倫理と法とどちらが大切なのかと思わず考えさせられます。

しかも、貧しい者たちにとって一般の手続きではあまりに金が掛かりすぎるのです。そう見ると彼女の行為は責められるものではない。「聖人」と呼ばれるヴェラは、困っている人に手を差し伸べることは当然ですらありました。ただ、命を危険に晒してまで行うことが果たして本当に良いことなのか…と考えると、この問題はやにわに複雑なものとなります。

今回はその是非は置いておくとして、周りの人にとってヴェラの存在がどのように映っているのかもとても興味深いところです。裁判官は彼女を犯罪者として「配慮」したり、ジョイスは事件に関わらず終始ヴェラを避けていたり。ヴェラは、それだけ人によって見方が変わりえる人間であるのです。

人としての役割と、その是非を深く考えさせられる作品だと思います。彼女の、覚悟を決めたような、戸惑いを隠しきれないような悲痛な表情もあって、胸に迫るような悲しみがとても印象深いです。感動作、というより心が揺さぶられる作品、といって邦画いいかもしれません。ぜひオススメです。
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by murkhasya-garva | 2006-03-11 17:14 | 映画
こんなバトンを頂きましたので急遽回答。

☆ルール☆
見た人は全員やること! 絶対だから!嘘つきはだめ! 足跡に証拠残ります。
(と、書いてますがお好きにどうぞ)

●今、どこにいる?
パソコンをいじっているといったら、もう9割方自分の部屋しかない。
知っている方は知っているが、京都内の寮で相部屋に住んでいる。

●今、一番近くに誰がいる?
部屋の同居人がコタツで寝ている。映りの悪いテレビをつけっぱなしに。

●今、どんな服装?
部屋着しかないでしょう。
着心地のいい安物ジーンズ、黒のトレーナーにジャージ(デサント)を引っ掛けている。

●今、何食べたい?
ボリュームはなくていいから、旨い日本料理が食べたい。
精進料理のような、味わい深いものを。なるべく薄味で。

●今、何飲みたい?
梅昆布茶。少し塩味の効いた「細い」感じの味がいいっす。

●今、真後ろには何がある?
もう1人の同居人の机。なかなか帰ってこないのでいつも同じ状態で散らかっている。
一体いつ帰っているんだか。

●今、まわりを見渡していちばん目についたものは?
靴下。なぜか机の上に使用済みの靴下が片方・・・もう一方はどこ行った。

●今、誰に会いたい?
有能な霊視者。時間的に「オーラの泉」をやっているのもあるけど。

●今、その人に伝えたいことは?
伝えたいというより、聞いてみたい。
今、自分がどんな状態なのか、以前と比べてどのくらい変わったのか教えて欲しい。

●今、一番歌いたい曲は?
氷川きよしの「きよしのズンドコ節」。やっとオリジナルのメロディが分かった。
か~ぜにふっかっれってはながちるう~…ええっちゅうのに。

●今、頭の中でパッと思い浮かんだ言葉もしくは台詞?
「試練」。何故これかをいちいち考えはしないでおこう。そういう時期なのかもしれない。

●今の体調は?
良好。食生活と運動を適度にしているので熱を出すこともない。

●今、どんな気持ち?
穏やかというか、あまりどんづまるような悩みを抱えていない良い気持ち。
一年間オマケがついたが、まあ何とかなるし、くらいに考えている。
こんなことを聞いたら黙っていない人もいそうだが…

●今すぐこのバトンやってもらいたい人?
誰でもええよ。この記事にコメントくれた人に渡しましょう。
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by murkhasya-garva | 2006-03-09 01:34

ロバと王女

「ロバと王女」
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「シェルブールの雨傘」に続き、カトリーヌ・ドヌーヴ主演×ジャック・ドゥミ監督×ミシェル・ルグラン音楽で6年後に手がけられた作品。それをデジタル処理したということでしょうか。色彩に目を奪われること間違いなし。今回もミュージカル風に仕立てられた、何だか不思議なおとぎ話です。


とある国の王妃様が病に倒れ、王様(ジャン・マレー)に遺言を残した。「私よりも美しい人と再婚して…」なかなか相手は見つからない。侍従が最後に示したのは娘である王女様。王様は王女様に求婚するも、王女様が結婚に乗り気なはずもなく…

導入を見ても、何だか首を傾げたくなるような展開が待っているのです。どこかで見聞きしたことのある昔話にどこか似ている。でも所々でずれているというか、エキセントリックというか。まず結婚相手で娘を候補に挙げない!王様も惚れ直さない!どれだけ娘を見てこなかったんだか。
王女様も困って難題を出しますが、王様に叶えてもらう内にその気になるなよ、と。
でもこのあたりは、昔話に類型を探し出すことが可能なので、現代人の感覚とのズレと読んでおいてもいいのかも。

しかしもっと困ったことに、劇中でこんな言葉、アイテムが出現します。「電池」「電話」「ヘリコプター」・・・ここまでくると、分かっててやってる感が濃厚です。しかし配置の仕方があまりにさりげなく、当然のようになされているので思わず笑ってしまうんですね。そのいたずらぶりは、名付け親のリラの妖精のようです。「あら、そう?」と関心のなさそうにしておいて、こっちをちょっと振り返って口元で笑いそうな感じの洒落っ気で。
「昔」に「今」をあえて混入させることで、観る側の期待をいい感じに裏切ってくれます。つまりここが2つ目のズレ。

と同時に、昔話に期待する展開とのズレも確認できます。王女様は王子様が迎えにきてくれるもの、そう思っていないでしょうか。この作品では、むしろ王女様が(リラの妖精と組んで?)王子様をおびき出しているような感じにすらなります。王子様がくるのを分かっていて着飾ったり、お菓子に指輪を込めたり、と準備は万端。ヒロイン=受身を信じていると、王女様のアクティヴさをあざといと思う人も出るのかも。
そして、これはラストシーンでのリラの妖精にも同様のことが言えるでしょう。
この2人は作中で特に異彩を放っているのです。

そしてそれに振り回される周りの人物。恋に悩む王子様(ジャック・ペラン)。王子をわざわざ診察する医師団。城に集まる国中の女たち。彼らの行動もコミカルで、しかしそれを大真面目にやっているところが余計に笑えるのです。

注目すべきはその音楽、舞台。ここまでの大掛かりなジョーク(ここではあえてそう呼びます)を完成させるにはその外堀がしっかりしていないといけないようです。目の眩むようなカラフルさ。青や赤に塗られた人や動物たち。美しいデザインの豪華な衣装や道具、その徹底ぶりには思わずため息が漏れます。また変なアイテムも時折混ぜられていますので、突っ込み放題というオプションがもれなく付いてきます。
音楽も素晴らしい。主軸となる2曲がとても印象的です。インコが盛んに鳴きたてる歌「愛、そして愛」と、お菓子を作るときの歌「愛のケーキの作り方」。どちらも美しく、しかし現代的な雰囲気があるのか、なかなか記憶から離れてくれないインパクトの強さがあります。

原題は「Peau d’Ane」つまりロバの皮。王女様が逃げる際に身を隠し、自身がそう呼ばれたからなのですが(ここ辺りは「シンデレラ」=‘灰かぶり’に似ていますね)、当のロバ自体はそこまで作中で重要な役割ではない。単なるアイテムなのです。邦題の「ロバと王女」で期待し過ぎたのかもしれません。どうせなら「ロバの皮」を邦題にしても良かったようにも思います。

何だか病み付きになってしまいそうな不思議な作品。新解釈おとぎ話といった内容と、美しい音楽と舞台に酔いしれて下さい。話の元ネタを探ったり、作品の時代背景を考えるのもアリでしょうけど、まずは楽しむことから!ぜひ観てください。
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by murkhasya-garva | 2006-03-07 20:12 | 映画