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by murkhasya-garva
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僕のスウィング

「僕のスウィング」
b0068787_16352266.jpg1月28日オールナイトの2本目。ジプシー音楽、ロマ文化が個人レベルで異文化に出会います。
トニー・ガトリフ監督はこの作品の他にも「愛より強い旅」「ガッジョ・ディーロ」などがありますね。彼らの音楽や環境を鮮やかに描き出すことで、失われゆくロマ文化に対し警鐘を鳴らします。

マックスは酒場で聴いたマヌーシュ・スウィングに憧れ、ギターを求めてスウィングのもとにやってきた。スウィングの父であるミラルドの元でギターを学び、その間をスウィングたちと過ごしながら、マックスはロマ文化に出会い、彼らを深く知ってゆく…

ぼく自身ロマ民族について語られた作品をそこまで多く目にしたわけではありません。しかし現代社会に浮遊する刹那的なそれとは違い、彼らの抱いている感覚が「生」そのものに脈々と根付いているのを必ず感じるのです。それは恐らく彼らしか感得できないもの。有り体に言えば、「哀しみ」なのか。

彼らの「哀しみ」は異文化を越えて共感されえるものではない。
たとえ、マックスのようにロマ民族に深く関わろうとする者がいたとしても。

オスカー・コップ演じるマックスは少々過保護な家族で育った少年。夏休みの間行ったストラスブールでのギターとの出会いは彼にとって衝撃的だったのでしょう。極端な話、初めて殻を破った雛が親を知るようなものかもしれません。
また、彼がロマ文化に興味を持ったのは同世代の少女、スウィングのお陰だともいえるでしょう。恋が何かのきっかけになるという好パターンです。

ルー・レッシュが演じるスウィングは黒く長い髪、大きく深い色を宿した瞳、屈託のない笑顔がとても魅力的です。マックスと対照的な存在でもあります。
ラストのシーンでは、マックスが素直に感情を表して涙を流しているのに対し、スウィングの表情はあくまで変わりません。ただ、彼女の黒い瞳の色が悲しみを呑み込むかのように深さをより増してゆくのがとても印象的です。
スウィングがマックスの渡した日記を置き去りにするのも注目しておきたいところです。彼女が文盲だから読みようがない、ということが結局2人の間の埋めがたい溝を示してはいないでしょうか。

分かり合えた、と思ってもそれは表層的なものに過ぎない。どれだけマックスがロマ民族を知ったところで、異文化圏の人間である彼の涙は、過去を無言で積み重ねてきたロマの人々の哀しみと同じになることは出来ないのです。それが伝わるラストはとても切なく、胸に迫ります。

また、音楽を愛する者たちの姿がとても美しい。体全体、いや、それ以上のもので音楽を体現するような感じ。ミラルドは「音楽を身に付けるのは、譜面からではない。心と耳からだ」という表現をしています。音楽が生活そのものの彼らの演奏は、彼らの積年の思いを表すものであり、それゆえ思わず踊りだすような力も持つものなのです。

ロマ民族について「物語」として十分に楽しめる作品だと思います。内容の受け取り方や感動の程度は人それぞれでしょうが、一見の価値はある作品です。
次は、じかにロマの土着社会と関わる青年の話。
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by murkhasya-garva | 2006-02-24 16:41 | 映画
5日ぶりです。遅くなりました。
「炎のジプシー・ブラス 地図にない村から」
b0068787_18165526.jpg去る1月28日のオールナイト、「<ジプシーの音楽、そしてガトリフ=ロマ=クストリッツァ>ナイト」の1本目。
地図にもない村、列車も通り過ぎるような村、ゼチェ・プラジーニ。ヘンリはこの村に惚れ込み、彼らの奏でる音楽に夢中になる。この音楽を各国の人々に聴かせたい、その思いが村人をツアーへと導く…


劇映画かと思ってみていたら、どうやらドキュメンタリーのようです。ヤマもオチも特にありませんが、いつも流れる音楽が観る者を惹きつけて離しません。のどかな村で生まれた陽気な音楽。彼らの生活の中心を音楽が占めているのです。

ツアーを行えば今までの貧しさから脱出できる。その理由で世界を駆け回っている、という言い方をすればまるでビジネスのようで無味乾燥な印象を受けそうです。しかし彼ら、ジプシーと呼ばれる人々には生活と音楽が不可分となっている印象を受けます。
生きることは、奏でること。…いや、もっと強い情熱なのかもしれません。その勢いは、今まで観た音楽映画の中で最も激しく、「生命の躍動」という形容がよく似合う。

ルーマニア、スペイン、東京…たくさんの国々で演奏する彼らの顔がいつも生き生きとしているのが胸を打ちます。そして東京で行われる異文化のセッションとも言うべきシーン。あれは感動的です。

彼らの生活を手放しで羨んでいるのではないのです。冬は雪に閉ざされ、村内での協力がなければ生活もままならない、そんな貧しさと隣り合わせに生きる人々が生活の糧として用いたのが、彼らの魂=「音楽」であったということが何ともロマンチックに感じられるんです。まあ異国情緒というとさらに無責任っぽいですが。

音楽に愛以上の感情を抱く人々。
今回のオールナイトの1本目は、ジプシーの音楽に生きる人々の現実をあくまで陽気に描き出したものでした。次は2本目を書きます。異文化との出会いをテーマにした感動作。
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by murkhasya-garva | 2006-02-22 18:17 | 映画

哀愁

「哀愁」(1940)
b0068787_183649.jpgOS名画座で鑑賞。
この当時の女優さんもまたきれい。オードリー・ヘップバーンといい、カトリーヌ・ドヌーヴといい清楚な感じがとても印象的です。
それとどうでもいいんだが、日本語タイトルを黒に赤で抜くのはどうかと思う。しかも明朝体で。何の引用だか知らないが、少し下品じゃないか?



一目で恋に落ちたモイラ(ヴィヴィアン・リー)とロイ(ロバート・テイラー)は、次の日には結婚を決める。しかし戦局が変化し、ロイは結婚の手続きを済ますことなく出征してしまった。ロイを待つモイラのもとに伝わってきたのは彼の戦死の報せであった…

今まで観てきた戦争を背景とした映画には、「シェルブールの雨傘」と「慕情」が記憶に新しいですね。「慕情」はいまだ感想が手付かずで何ともアレですが…。
最近の映画は戦争が絡むと、必ずといっていいほど何らかの思想性を帯びてくるもんです。しかし今挙げたような作品は、戦争という背景を前提にして、そこで生まれる悲恋に焦点を当てるのです。思想性を介入させていない、と。誰かがこれらの作品を「戦争を主軸としたエンターテインメント」という風に言っていたような気がしますが、昨今の喧しさを考えればこれらは立派なエンターテインメントなんでしょうね。

とはいえ悲恋でもエンターテインメント、というのは腑に落ちませんが、内容は素晴らしく良く出来た作品でした。泣きかけました。だから名画なんだろうけど。ロイとモイラの恋、モイラの解雇、ロイの出征、それからの2人の避けられないすれ違い。必然的で、突っ込みようがありません。分かっていて決して実らない恋というのは、見ていて切ないものです。

ロイが出征から帰ってきてからのモイラの妙な態度も、本当に気を揉ませてくれます。一体彼女は何を隠しているのか、ずっと気になりながらも成り行きを見守るしかない。もしかして、もしかして…と思っていながら実際に分かってしまったときの哀しさ。

また、すごいと思ったのが、ラストでモイラが身を投げるシーン。軍用車のエンジン音の音量を上げつつ、軍用車とモイラを交互に映していくのです。モイラの顔には車のライトがだんだんと濃くなり…。観る者の不安を掻き立ててくれます。とても効果的な演出がニクイ。

そもそも戦争という大問題を前に呑気な映画を作るとは…!と野暮を言う方もいないと思いますが、これらの映画のテーマには多少の違いが当然あるようです。「哀愁」に限っては、戦争についての言及が少しあったよう気がします。つまり、戦争が悲恋を引き起こす、というわけなんですが、ラストのシーンは非常に示唆的です。

モイラが軍用車に身を投げたのは何故なんでしょうか。それはロイへの断ち切れない想いかもしれません。それとも一度身を落とした自分を罰するため?または覚束ない頭で、自分の仕事に戻ろうとしたのかもしれない。いずれにせよ救いようのない哀しさがそこにはあるのですが。

深読みをして、ロイとモイラの間には戦争という大きな存在が影を落としていたのだ、なんて言ってみましょうか。モイラを強く想っていたロイも、結局は身を沈めた彼女を止めることは出来なかった。つまり戦争の加担者に過ぎなかった、と。モイラが身を投じたのは帰還した軍人相手の娼婦。彼女は軍人、ひいては戦争という事象に身を捧げるモノとなってしまったのです。

そこにはロイの罪深さがもろに表れます。娼婦、ひいてはダンサーという身分の忌避という一面もありますが、彼女の戦争の副産物とも言える側面を肯定しているようなものです。戦争のために辛い人生を送ることになった人間を黙認しています。ロイの戦争礼賛者とも取られる行動は、この時代の深刻さを表しているようでもあります。
まったく彼はノスタルジーに浸っている場合じゃないですね。

「幸福のお守り」とモイラがロイに渡しているのはどうやらビリケンさんのようです。ビリケンさんって一体何なんでしょう。これが大阪で上映した理由の一つっぽいですが。
名作は機会を作ってでも観るべきだと思います。やっぱり新作だけでは見つからない新しい発見がありますよ。
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by murkhasya-garva | 2006-02-17 18:38 | 映画

天空の草原のナンサ

「天空の草原のナンサ」
b0068787_1822749.jpg
モンゴルの草原で生活するバットチュルーン一家の生活を映した作品。ある日、ナンサは背にブチのある犬を洞窟で見つける。オオカミを警戒する父親に反対されながらも、ナンサは内緒でその犬を飼うことにした…



なんと子供たちの愛くるしいことか。小学生になったばっかりのナンサはあどけない表情がとてもかわいらしい。妹や弟も小さく、無邪気で本当にかわいい。子供らしさが思わず笑みを誘う。つぶらな瞳、赤い頬、たどたどしい手つき、天真爛漫な笑顔。温かさを感じる可愛さである。「ハチミツとクローバー」で花本先生がはぐちゃんを思い出してしまうのが分かる気がする。

限りなく素の生活を撮ることに成功した、ということだろうか。この作品で登場する家族の姿がとても自然なものに見える。「子供たちとは遊ぶような感覚で撮った」と監督は言う。子供たちの言動が巧まれたものでないことが、観客を何とも心地よくさせる要素の一つなのだろう、と思う。

末の弟が母親と草原に出て、注がれたミルクを飲ませてもらう。そのときの楽しそうな顔と言ったらない。母親に返杯(?)するのにも驚いたが、幼い子が温かい家庭で何にも囚われることなく生きる姿が我々にも幸福を呼ぶように思えてくるから不思議だ。

ここには、我々「現代人」が失った生活が映されている。「ALWAYS 三丁目の夕日」を観ると古き良き時代を懐かしむことはできるが、「天空の草原のナンサ」では、人々の生活をより原点に立ち返って描き出しているように思う。日本には、もはやこの作品のような風景はない。我々は昔を「再現」するしかないのだ。仕方のないことだが、作られた風景よりも手の加えられない風景のほうが魅力的に見えてしまう。
この作品に匹敵するほどのものは、それこそドキュメンタリーでしかないのかもしれない。

監督は、伝統文化と現代文化の関わりについて危機感を抱いている。それが、バイクや町から買ってきたプラスティックの手桶、ピンクの犬のおもちゃといったアイテムで端的に理解することが出来るだろう。
これらは自分たちの生活を便利にしてくれる。しかし「便利」になることは、それまでの旧い方法を捨てることでもあるのだ。伝統文化が失われゆくことに危機感を抱く感覚は全うなものだと思う。

だがぼくには、新しいものに憧れ、それを取り入れようとする彼らの姿が好ましくもあった。「三丁目の夕日」でテレビや冷蔵庫を購入した家族のように映ったのだ。「豊か」になる幸せをかみしめる。ピンクの犬を家族みんな笑顔で囲む光景はとても素朴で、温かい。
現代文化を取り入れるごとに伝統文化以上のものを人々は失ってゆくことだろう。現代文化との接点で見せるその一瞬の幸福な光景を評価することは無責任な行為かもしれないが、昔への憧憬ともいえるものを我々が見過ごすことができるはずもない。

話を戻そう。遊牧民である彼らの生活に注目したい。子供たちがのびのびとしているのは、両親にほとんど行動を制約されないからだろう。初めての牛の糞拾いをナンサは1人で行き、「パパに教えてもらった」と遠くまで馬に乗って羊追いをこなす。末の弟が1人で羊の番をするのを見ても、親はとがめない。今の子供たちには見られないたくましさがあるように感じた。

ものの考え方もとてものびのびとしていて、無邪気。雲がキリンに見えたと妹が言ったことでさえも、ナンサには昨日教えてもらった前世のはなしと繋がって驚くくらいに大事なことなのだ。また、それを十分に伝えてくれるのが字幕だ。字幕担当の方のおかげで言葉遣いに細やかな気配りが届いており、ナンサたちの心情がよく伝わり、彼女たちが本当にかわいらしく思える。

音楽は作中でそこまで多く使われない。悠久の大地の美しさを描くのに音楽を多用する必要はないのだろう。夜遅くまで起きて朝イチに行ったのがいけなかったのか、静かなシーンでうとうとしてしまった。本当に残念。仕方ないので大阪に行った際に2回目を観た、という…。
ともかく、民族音楽を中心にすえたBGMや、母親や祖母の歌う音楽はモンゴルの風土ならではの雰囲気をかもし出していると思う。

何より子供たちがかわいい。ポップな「ヘイフラワーとキルトシュー」とは違った子供たちのかわいらしさが見られることだと思う。全年齢対応の、心温まるドキュメンタリー風作品です。
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by murkhasya-garva | 2006-02-16 18:27 | 映画

キング・コング

「キング・コング」
b0068787_1721688.jpg「ロード・オブ・ザ・リング」の監督、ピーター・ジャクソンが作った超大作。1933年の原作リメイクで評価が高い。さほど乗り気でなかったのですが…。
実はこの作品の前に同監督のキウィ・ホラー「ブレインデッド」を見てしまい、あまりのありえなさに腰が砕けてしまったのです。こんな映画作る奴は絶対オカシイ。



アン・ダロウは運のない舞台役者。遂に勤めていた舞台のオーナーにも夜逃げされる。野心家で売れない監督は、次回作に見合う女優にアンを見初める。地図にもない謎の孤島での撮影を決行、一行はまだ見ぬ島へ漕ぎ出した。たどり着いた島で彼らが目にしたものは…

こりゃすごい。内容はシンプルなのに、密度の濃さはただものじゃない。3時間20分と相当な長尺だが、見るに堪えるだけの質の高さがあります。ストーリーのつながりを丁寧に描写しており、脳内補完の必要がありません。ヒロインであるアン・ダロウが監督に見初められるエピソードが個人的には好きです。

キャストにも注目です。女優アン・ダロウを演じるのはナオミ・ワッツ。ニコール・キッドマンから冷たさを抜いた柔らかい雰囲気。体を張った懸命な演技にとても好感をもてます。作家のドリスコルには「戦場のピアニスト」の主役を張ったエイドリアン・ブロディ。相変わらずの頼りなさが「文学者臭さ」にぴったり合っています。

CGの多用には往々にして危険なワナが潜んでいるものです。ストーリーテリングと映像技術の両立は難しいのでしょう。映像にこだわるあまりに大味な内容となった作品は数知れません。今回はCGの使用によって圧倒的な迫力を与えており、また緻密な映像により生き生きとした動物たちの動きが現実感たっぷりに映し出されています。特にキング・コングの表情の細やかさは見事と言うしかない。

それを支えるカメラワークもすごい。巨大な草食獣に追われ逃げ惑う乗船者の姿を映すのだけど、視点がテンポよく変わるためにパニック感が身に迫るように伝わってくる。突然開ける景色。草食獣の重みで崩れ落ちる断崖。誰が助かるか分からない状況で、あっという間に人が落ちてゆく。思わず息を詰めて見入ってしまいます。

そして最も冷酷なサバイバルシーンといえば、巨大昆虫との戦いです。異形の生物を前に必死に戦うわけですが、甲虫に見られるようなあの一種の無機的な姿や、軟体動物の生理的嫌悪感を催す姿が迫ってくるさまは本当に怖気が走ります。あえてBGMを抑えた薄暗いシーンで、人々のなす術のなさが恐怖感を煽ります。
巨大ムカデが目の前に、というのは個人的に一番気持ち悪い。耐えられず「ひ~」とか呻いてると、前のほうでも「うああ~」とか声が聞こえる。全く監督はいやなツボをよく心得ています。

演出もたいしたものです。孤島の砦を臨む場面で景色を大写しにして観客を一気に引き込む。一発の槍で原住民の襲撃の恐怖をじわじわと浸透させる。そして何よりも効果的なのがアン・ダロウの絶叫。うとうとしていても一発で目が覚める(笑

突っ込みどころもあるにはあります。ドリスコルはコングに追われた際に、ツタを使ってそもそもどこへ行く気だったのかとか、車で逃げる際にほうぼう回る必要性があったのかなど、いまいち掴めない。切迫した環境で思わず、とか偶然だった、と言うとお終いなんですが。とはいえそんな疑問を吹き飛ばすくらいに迫力があるから、特に目くじらを立てる必要もないのです。
でもまあ、コングに情を寄せたアンはこれから人間の世界でやってけんのか…とか勝手に心配してましたし、アンの汚れたドレスが途中できれいになってるのは流石に救いがたいとは思いましたけどね。

そもそもこの作品は「美女と野獣」を下敷きにしたものなんでしょうか。悲劇的な内容でとても纏まりの良い作品でした。作中のアホ監督の「兵器が野獣を殺したのではない。美女が野獣を殺したのだ」という間抜けな台詞を抜きにすればですが。お前が殺したようなもんだろ、お前が!!
ぜひ観てください。これこそ家族で観られる数少ないエンターテインメントです。
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by murkhasya-garva | 2006-02-15 17:30 | 映画

サイレン

「サイレン」
b0068787_231197.jpg同名ゲームの映画化。ゲームはここ4、5年やっていないが、数年前の深夜のCMの異様さにいたく興味をそそられた。しかし怖すぎて子供が怯えるとかいう苦情のせいで放送中止になる。というかこのCMが放送されるのは夜11時以降だったはず。そんな時間に子供にテレビ見せんなボケが!!と怒っていたような記憶があります。

知人は「サイレン」を隠れた名作と評していました。相当に人気を博したのだろう、今回の映画化は「サイレン2」の宣伝も兼ねているのか?最近は変な映画によく出る阿部寛、キワモノキャラで出演する高橋真唯が出演。「逆境ナイン」以来の田中直樹もいます。

序盤から奇妙な空気。不快な大音量で神経をひっかく。不安感などを煽るための方法として、音を大きめで使っているのが特徴的です。しかしいわゆるメジャーシーンのアクション、ホラーとは少し違い、ウワーッと次第に強めるような感じ。また、音楽ではなく自然音や電子音などの音響を使っているようです。
サウンド・サイコ・スリラーと称していたので音に注目してみました。

怖さの程度は、実を言うとそうでもなかった。異常な雰囲気に飲み込まれたら楽しめるんでしょうが、違和感を最初に持ってしまって、なんか気持ち悪いなという感覚が付きまとうくらいのものでした。それでも各ポイントではビビッてはいたけど。
ゲジゲジが飛びかかるシーンなんて鳥肌ものです。節足類はほんと無理です。それにゲジゲジを売るとか有り得ない。気色悪すぎる。許せない。

恐怖シーンではなかなか焦点が定まらず、ドッキリ感がありません。その代わりに奇妙な世界で迷い続ける怖さが始終ついてきます。ただ、目から血を流した父親のアップでドッキリしたのだけが別物です。
こうしてみると、恐怖シーンは一定のパターンに基づいてしか作られないような気がします。大音量+突然のアップとか、流血などの残酷シーンであるとか。今回はそのどちらも薄かったから怖くなかったのかも。

ストーリーに関しては、上手くまとめようとした感があります。序盤~中盤はどこがキーポイントになるのか分からず色々と考えていたのですが、ラストのオチで見事にやられた。ああいう締め方をされると本当にがっかりする。今までの重層性の期待が裏切られるようで。
それをいっちゃあおしまいよ、というやつです。

もし仮にラストのオチを核としてこの作品が作られたとするなら、それまでの演出は豪勢なオブラートに過ぎないわけでしょ。どんでん返しの驚きを狙ったのなら、これはいけない。たくさんの伏線が小さくまとまってしまうだけじゃないか。なんか一杯食わされた感じがします。全額返せとは言わない。500円くらい返せ。
注目すべきは締め方。あれは「着信アリ」の第一作にそっくり。

この作品の監督の堤幸彦は奇妙な世界を構築することは長けているそうです。ドラマだったら成功するかもしれないのに、と。今回は映画という小さい枠でまとめようとしたためにションボリな内容になったのかも。

また本来、夜美島にまつわる云々は情報量が多いはず。「サイレン」「サイレン2」のネタであろう部分がいくつかあったんですが、結局さばき切れずに本編に直接関わらず、異様な世界観のアイテムでしかなくなっている。

この映画は本当にゲームの宣伝を狙って作られたんでしょうか。でも全くのアナザーストーリーで、宣伝にもなってないんじゃ?と知人は言ってました。それでも満足のご様子だったのでいいんですが。こりゃゲームもやってみなきゃ分からんかな、という感じの作品でした。
そういえば、予告編に「TRICK2」を紹介していた。あのCMはよく出来ています。もしかしたら「TRICK2」の紹介がメインなのかも。
いまひとつ入り込めなかった。残念。デート用くらいにはおすすめできます。
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by murkhasya-garva | 2006-02-14 07:26 | 映画
「ニュー・シネマ・パラダイス」
b0068787_22345364.jpg
トトの住んでいる村には映画館があった。映画は村の住人の唯一の娯楽であり、トトも多分に漏れず映画に熱中する少年であった。トトは映写室のアルフレードと仲良くなり、彼の手伝いをするようになる。ある日、映写中に目を放した隙にフィルムが燃え出し…

およそ15年前に世界の映画賞の多くを受賞した映画らしい。実に感動的な作品です。映画と共に育った少年が成長してゆくさまを描くのですが、この作品は30年以上も村に帰らなかった男の回想、という形でストーリーが構成されるのです。

何故彼は30年以上村に帰らないのか。彼に電話をするといつも違う女の声がする、と彼の母が言うのは何故か。根幹とも言うべきポイントはストーリーの展開によって次第に明らかになっていきます。

ぼくの好きなイタリア映画に「ペッピーノの百歩」というのがあります。実在した青年の生き様を描き出した作品なのですが、若者の感受性をありありと描写したという点でこの作品と非常に似ています。さらに言えば、友情や愛といった人と人の絆を描く作品については、イタリア映画界は他国よりも秀でているのかもしれません。

キャストで気になったのが大人のトトを演じたジャック・ぺラン。彼は「コーラス」でも、年経たピエールの役で出演しています。過去を回想するという形式が見事に共通しています。「コーラス」はこの作品を下敷きに作られたんでしょうか。

トトがアルフレードに「ぼくも11歳だよ。友達になって」という場面がとても印象的です。アルフレードは壮年の映写技師。トトの無邪気さが言わせたのでしょうか。アルフレードもそれに応え、トトをわが子のように扱います。トトに旅立たねばならない時が来るまで…。
お互いの年齢の差を埋める親愛、尊敬の情が胸を打ちます。

若者の成長は、人の成長の中で最も瑞々しく輝くのかもしれません。世界を知り、新たな感性が磨かれる時期。この作品でもトトの少年・青年時代が描かれるのです。友情、恋愛、それらが最も甘美な形で。
そしてそれらは、人々のつながりの温かみの中で育まれます。お節介とも見えるくらいの人々の繋がりこそ良き思い出となりえるのかも知れません。現代の社会から段々と薄れていっている感覚でもあります。

これらのエピソードを支えるのは音楽。殆どの人々が知っているであろう有名な旋律。バイオリンの繊細でノスタルジックな調べが、トトの世界と見事にマッチし涙を誘うのです。ぼくもラストあたりでグッときてしまいました。

おそらくこの作品が世界で高い評価を受けたのは、あまたある映画の中で、人々の持つ郷愁や青春時代の記憶をこの上なく甘美に紡ぎだしたからなのだと思います。先にあげた「ペッピーノの百歩」との差は、それがより万人受けする形に作り上げられたということに尽きるのでしょう。要は政治的思想の有無、ということか?

質が高く、良い作品だと思います。また観にいったら本当に泣くんじゃないだろうか。
「ミリオンズ」以来の感動。
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by murkhasya-garva | 2006-02-12 19:08 | 映画

発見

面白いことに気付いた。
体のどこかを痛めると、その弾みで体全体の調子が一気に狂うことがある。

今日は自転車をこいでいて、民家に肩をしこたまぶつけた。
スピードを出していたため、軽くではすまなかった。
前を歩いていた子連れの女性らが「わ~いたそ~」「大丈夫かー?」と声を上げる。
大丈夫ですすみません、と言えばよかったが、自分が勝手に失敗したのを人に同情されるのは気持ちのいいものではない。何より痛くてそれどころではない。

それから段々と体の調子がおかしくなる。肩こり、神経の痛み、悪寒、軽い吐き気。
これを見れば、皆さんは風邪だろうと思うことだろう。確かにその可能性はある。
しかし、以前もこういうことがあったのだ。右ひざを脱臼したときに、やはり体調を崩した。
わき腹を打撲したときも同じだった。

怪我をすると自己治癒能力のため熱が出るのと同じなのか?
あれは化膿したり破傷風にかかったりすると熱が出るのか?
よく分からないが体調がおかしいことには変わりない。

体調がよくなることを祈って、今日は早く寝ます。
おやすみなさい。
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by murkhasya-garva | 2006-02-12 00:08 | ほぼ日記
「ヘイフラワーとキルトシュー」
b0068787_18284972.jpgフィンランドの小さな姉妹の物語。最近こどもの出る映画に弱いことを知ってしまい、ぜひ観にいきたい1本でした。予告編でもやたら可愛いんだもんよ。
1本の時間には72分と短いからか、「もぐらの物語」という10分間のアニメもついています。



ヘイフラワーはとてもいい子で、妹のキルトシューの面倒をいつも見ている。おまけに何もできない両親の代わりに家事をやってあげる始末。そんなヘイフラワーももうすぐ小学生。学校に行ったらキルトシューが独りぼっちになっちゃう…

どう表現しても誤解を招きそうですが、あえて言わせてもらうと、「可愛い!」の一言に尽きます。愛くるしいです。物分りのいいヘイフラワーの細やかな気配りも可愛いし、わがまま放題のキルトシューもその無邪気さ、小悪魔っぷりが何とも可愛らしい。とにかく彼女らの表情がツボにはまってしまいました。アップになるたびに「か、かわええ~」とかほざいてました。
念のため言っておきますが、ぼくはそういう方向の気はありません。

子供らしいといったらむしろ妹のキルトシュー。相当のわがままで、現にこんなのがいたら絶対に一回は小突いてることでしょう。しかしなぜかあまり腹が立たない。両親が頼りなさすぎて、文句を言われてもしょうがないからか。それとも外見があまりに可愛い過ぎるから?
ヘイフラワーも妹の言うことを聞いてあげたり、家族のことを神様にお祈りしたりと、いじらしい姿が目に止まります。ここまで気配りが出来る子なんておらんで。
しっかし麦わら帽をかぶったヘイフラワーはかわいい~。穏やかな笑顔で、長く伸ばした金色の前髪を耳の前で垂らし、小さな麦わらを頭に乗せているのがよく似合っています。

可愛い姉妹とは対照的に周りの大人がかっこ悪すぎる。むしろやりすぎ、悪ノリ?いかにも冴えないイモ科学者のお父さんに、学歴にこだわって家事もいまだにできないお母さん。しかも警官まで何だか頼りない。お隣さんが「パン生地セラピー」で幼児語を使っていたのはかなり引きました。何というか社会不適合者の集まりのようで、あまりいい感じではないっす。
まあ、だからこそ2人の姉妹の魅力が引き立つというわけなんだろうけど…。

お隣さんの色彩センスだけでなく、全体的に華やぎのある淡い色が散りばめられています。こういうのはガーリッシュというのか、女性受けしそうではあります。それに上映時間も短いということは、恐らく低年齢層向けに作られたのかも知れませんね。内容も比較的単純ですし。

もっとも、大きいお友達注目の作品になっていないか心配ですが。
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by murkhasya-garva | 2006-02-11 18:31 | 映画

用心棒

「用心棒」(1961)
b0068787_18214811.jpg風来坊の侍が寂れた村に流れ着き、用心棒で稼ごうとするが、村では二つの極道一家が何かと小競り合いを続けていた。彼はそれを引っ掻き回して楽しもうとするが…

三船敏郎が侍役をやっている。名前なんてどうでもいいらしく外の桑畑を眺め「桑畑三十郎」、もうすぐ四十郎だとか名乗る。余裕ありげにぶらついて、小競り合いをはたでニヤニヤしながら見ている割には、刀を抜けば一級の腕前。それでいて人情には滅法弱いなんて、なんだかかっこいい。




そんなしぶいおっさん侍が演じる舞台は小さな村。不思議なことに、村自体の個性のようなものがありません。スクリーンに映し出される場所が非常に限定されているからでしょうか。また、登場人物はストーリーに絡んでくる人しか登場しません。余計な情報を排除し、内容を洗練させた印象が強いですね。

実際にストーリーは一本筋が通っていて、無駄なエピソードすらも挟まれていないんです。そのため物語を肩肘張らず純粋に楽しむことができるだけの作品に仕上がっている。これぞ映画の王道、とこの作品を評しても過言ではないでしょう。ある意味、エンターテインメントとしての映画を追求した結果というか。

だからといって話の流れまで単純化されているわけではありません。ヒーローであるはずの侍は、上手く立ち回っている時に彼の弱点ともいえる人情で手痛いミスをし、窮地に追い込まれます。確かにお約束といえばお約束なんですが、上手いタイミングでハプニングが起きるものだから思わず見入ってしまう。
これくらいはっきりと場面転換してくれると、観る側もすんなりと理解できるのかもしれません。

登場する脇役もキャラがはっきりしています。剣は強いが単純な猪(いの)、ぶっきらぼうだが人情味のある居酒屋の親爺、得体の知れなさを秘めた拳銃持ちの若(?)などなど。一人ひとりが敵味方問わず親しみを持てるんです。彼らが無理なく、しかし愛嬌たっぷりのキャラで立ち回るのは観ていて楽しくなります。

しかし、もしストーリーがテレビの時代劇にありがちな勧善懲悪を筋にしていたらこの作品は傑作になれなかったでしょう。二転三転するストーリーを支えているのはあくまで人間臭さの残る主人公であり、そこに焦点を当てているからこそ作品自体にもに魅力を感じられるのだと思います。

ただ残念なことに、昔の作品であるために音割れがおきているようでした。
結構大事な台詞を言っているはずなのによく聞こえない。それに登場人物みんなの台詞回しが早いような気もするし…。年輩の方々は所々で笑っているが、何で笑ってるのか分からんのです。おいおい困ったなあ、耳と頭どっちが悪くなったんだ…と内心焦っていました。
多分、年輩の方は何度か観ているから分かってて笑っているんだろう、と理解することにしました。

一度は観ておきたい名作です。黒澤明監督の作品が何故面白いか。それは今の映画と比べてどこが違うのかを知ることで、よりいっそう鮮明に分かるかも。
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by murkhasya-garva | 2006-02-07 18:23 | 映画