休止中。


by murkhasya-garva
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

カテゴリ:映画( 322 )

と、言うわけで本当に気が向いたときのグダグダ日記になってしまったけど、まだまだグダグダやりますよ映画評?ブログ。
今回は、京都みなみ会館で1/17に行われたオールナイト「黒沢清・西島秀俊、合格ナイト」の感想。今回は一つ一つをあげるのではなく、全体評として。


上映作品:「神田川淫乱戦争」「ニンゲン合格」「ドレミファ娘の血は騒ぐ」「LOFT」

全評:ナレーションのない作品が全て。黒沢清監督の潔さなのか、ナレーションに頼らないのは努力の結果とも見ることができる。大きなテーマを語るときに、人はつい言葉に頼りたくなるものである。「言葉」とは簡略化の最も簡単な方便である。それを非言語的な表現でもって伝えようとするとき、そこには多大な努力が求められる。さらに、その上で表現者はまた、自分の持つ傾向・偏向に無自覚なままである場合が多い。何らかの無責任な倫理の押し付けや、抑圧への不満の発露として用いられた表現物は、また作者のそういった浅薄さを強く感じさせることになる。その点で、黒沢清監督の作品は、基本水準をとうに超えている。

各作品にみられる共通点は、思考や思想、そういった定式化されたものへの独特な態度である。「神田川淫乱戦争」では、性行為が軽やかなバロックに乗り、「ドレミファ娘の血は騒ぐ」では、林の脇で行われる劇中劇の撮影過程のような場面でプラカードを持った青年が不思議なメッセージ――まるで自問自答のような――を掲げる。まさかこれらの唐突で可視的な表現が本作そのもののメッセージだとは到底考えにくい。「LOFT」では、作品それ自体が既存のパターンに挑戦しているようなものである。

こういった当り前とされている表現形式を、少し位相をずらして見せる、という方法が観客に違和感として伝わる。もし違和感としてしか残らなければ、それは印象評論の域を出ない「面白い/面白くない」の二分化、あるいは「意味が分からない」「ベタすぎる」といった皮相な表現批判にとどまることだろう。しかし、これが作り手の思惑であれば…黒沢作品はその可能性がとても大きい。虚飾を剥ぎとられた表現に従来の視点を超越した視点、すなわち上位構造に目を向けてみることが必要となる――「なぜそのような言動をとったのか」「なぜそう表現せざるを得なかったか」「その結果は、共通点は、テーマは何なのか」。黒沢氏の作品は全体を通じて、更に考えることの余地を十分に残す、というよりそう考えなければ真意を汲み取ることのできないものが多分にあるのだ。

さらに、そういった背景――つまり既存の表現を用いた異化作業を観客に求める、という姿勢――があるゆえに、多くの場面で既視感を覚えるカットが様々なところに見られる。特に「神田川淫乱戦争」は顕著であった。赤いワンピースを着た女性は、ライター、タバコ、ラジオ、そして望遠鏡さえも捨てる。この70年代のフランス映画を彷彿とさせる無意味で軽妙な運動の連続(しかも、ラストには川向うから助け出した浪人生、そして主人公さえも屋上から転落してしまうのだ!もちろん、その後のエピソード回収は行われず、散文詩のようにふっつりと終幕を迎える)。作品自体が、否定や違和感を通じてテーマを見出すためのものであるゆえ、オリジナリティに重きが置かれないのだ。しかも、その後の作品、たとえば「ニンゲン合格」ではそれを超えて登場人物の心情の機微を絶妙に織り込んでいる。西島秀俊演ずるユタカの何気ないたたずみ、足取りは14歳のままで留まった幼さを強く感じさせる。乱暴な見方をすれば、彼自身が異化作業の対象となっているのである。そこに見出される“ニンゲン”として“合格”する在り方も考えることができるだろう。

ナレーションや一人語り、BGMを欠いた作品からは、一見乾いた印象を抱くかもしれない。そこには、人々の姿が淡々と描かれている。感情の余分な喚起が徹底的に排されている。しかし、それでもなお湧き立たざるを得ない作品の余情。そこにこそ黒沢監督は賭けているのではないだろうか。
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-01-20 02:22 | 映画

スカイ・クロラ(2008)

b0068787_1591056.jpg


思春期の姿のまま永遠に生き続ける子供“キルドレ”が兵士として参加する戦争が、ショーとしてテレビ中継される世界。キルドレのユーイチは、とある基地に戦闘機パイロットとして配属され、女性司令官のスイトと出会う。(MovieWalkerより引用)












解釈の方に意識が行って映画を楽しめなくなる、というのが私の悪い癖だ。そろそろ見直さなければいけない。「で、どう思ったの?」と聞かれた時に御託を並べる奴に話を聞きたいと思うだろうか?無理に考えようとすることに少々自己嫌悪を覚えて映画館を出るが、自分にも解釈一辺倒で映画を見ていた時期は確実にあった。その時に比べれば多少は変わったのかも知れない。今回は『解釈することに違和感を持った自分』というのを通して、改めて本作はいったいどんなものなのかを考えてみたい(・・・希望)。

原作を読んでいない者にはそれがなんのことやら、まああらすじでネタばれをしてはしょうがないのだけれど。本作を観て、きわめて無機質だが、そんな雰囲気が何かを押し隠しているのかもしれない、と思うのはもっと後半になってからだ。少なくとも初めの話の展開の見えなさ――飛行機に乗り、敵機を撃ち落とし、帰ってくる――には少々退屈さえ感じる。しかし、今思えば、その感覚自体が「スカイ・クロラ」の世界観に取り込まれている証拠なのかもしれない、とも思う。なぜなら、その世界にある登場人物も環境も何一つ変わろうとする意志を見せないものばかりだからである。一人ひとりの思惑は違えど、それは大同小異というやつで、前半は何度あくびをしたことか。つまらない、とさえ感じた。

しかし、その一方で観客である私は、「ここで語られているのはどういうことか」と思う。この疑問と同期して登場人物のルーチンな世界との関わりが見え始め、少しずつその“無機的”な世界は私の言葉に変換されて戻ってくる。

キルドレが子どもの姿のまま生き続けるという。…少なくとも、キルドレは子どもでいなければならない必然性があるのだろう。自分たちの活躍をテレビで放映されるのを見ても、ユーイチは何の感情も示さない。ただ、“ああ、そうなんだ”という程度の表情。自分たちのやっていることが実感の伴わないことなのか。また、スイトは自分たちを応援するという団体が見学に訪れるのを嫌がる。「だって、見学っていうの自体どうもね」とユダガワも言う。どういうことだろうか。彼らのやっていることは見世物である。そしてパイロット自身もそれを十分に気づいていると言える。(もちろん「ゲーム」と明言されている)。そして、途中で登場するティーチャーは大人である。しかも「絶対に倒せない」。つまり、このゲームの世界は、大人が子どもたちに上から与えるルールによって支配されているとも考えられる。

ここからが問題だ。この時点ではまだパイロットが子どもでいなければならない必然性はない。
 たとえば何らかの罪を犯した者が収監後に洗脳されてパイロットに仕立てられてもいいはずだ。しかし元犯罪者がパイロットになる、ということになると倫理上の問題が生じる。つまり、彼らの世界の外にいる人々と直接に責任問題がかかわってきてしまう。そうなると都合が悪い。見世物であるパイロットや戦闘は彼らの良心を痛めないものでなければならない。しかもそれは一般の人々にとって無自覚にクリアされる必要がある。パイロットが、外の人々にとっていわゆる道義的責任を負わない存在であるためには、パイロットの世界は純粋なものである必要がある・・・となると、パイロットはまず人々と同じ人間であってはならない。人間でない人間・・・ここでクローンという存在があてはまる。いちおう、一般大衆である外の人々にとっては、これさえクリアされていればいいはず。<パイロット=クローン>。
② ではパイロットが子どもである理由は?見学に来ていた応援団体も(恐らく)ユーイチが子どもであることに疑問を呈していなかったため、外の人々にとっても当然のことだと言える。となると、パイロットたちが住む世界の創造者に今度は疑問が向く。考えられるものをいくつか挙げよう。(1)創造者は「子どもは大人が支配するもの」と思っていた。(2)パイロットが子どもであれば、それを支配制圧する者が大人ということに、倒せないことの必然性を感じさせることが容易だと思っていた。

(ちょっとめんどくさくなってきた・・・)

少なくとも、ここには世代特有の感覚に基づいた世界がある。押し込められたような抑鬱的な世界。自分が何者かも分からず、ただ役割を与えられて働き続ける。スイトは、その「当然の構造」に穴をあけるように、子どもを作り、他のパイロットに影響を与える。与えられた役割が不確かな世代感覚。
また、ゲーム――鈴木光司のホラー三部作とも共通する。自分たちの世界が実は「つくられたもの」だったとしたら?あるブログではこう言っていた。「差別や下にみる視線は社会に構造化されていて、その構造をわたしたち大人は暗黙のうちに内部化し、フロイト風にいえば、「超自我化」させてしまうものだからです。そうしてみずからで、みずからの良識と判断を組み立てることによって、社会を成り立たせるわけです。」《Cool Culture Critics》  本作を「大人vs子供」と安易に構造化するのも気が引けるが、そういう見方がまずは頭に浮かぶ。世代的瞬間にしか現れない感覚を秩序化させるものとして、キルドレ達の世界が現れているのかもしれない。
[PR]
by murkhasya-garva | 2008-11-13 15:10 | 映画
b0068787_14144468.jpg
彼の死ぬ瞬間が頭から離れない。人は死ぬとき、大きく、大きく喉の奥から唸りを立てるように息を吸ってから死ぬらしい。「血と骨」でビートたけし演ずる主人公もまた大きく息を吸って死んだ。伊丹十三の「大往生」でもそうだった。




しかし、本作と「血と骨」は、「大往生」とは違う凄まじさがあった。それは世界を一挙に吸いこもうとするかのような最後のあがきのようでもある。ただ1人で己を貫き通し、誰にも見守られることなく死んでいくというこの凄絶なまでの孤独。独居老人が静かに死ぬようなイメージとはかけ離れている。

クリス・マッカンドレス。彼は裕福な家庭に育ち、優秀な成績で大学を卒業する。しかしある時、家族の元から去り、自分自身をスーパートランプ(超放浪者)と名乗り、ひたすら物質社会から離れて生きようとする。彼の想いはどこにあったのだろうか。単なる厭世主義者とだけで括ることのできない彼自身は、旅先で出会うヒッピーや老人とも真摯に向き合い、語りあっている。

真の自由と幸福・・・どんなものがどこにあると言うのか。周囲の人々は恐らく疑問にもつだろう。私だってそうだ。彼は単なる理想主義者にしか見えない。どれほど人間の営む社会から離れたとしても、彼は全てを捨てられなかったではないか。彼が死んだのも植物事典の誤った記述によってであるし、彼は山奥に捨てられた廃バスの中で暖を取っていた。

彼が行ったことを単なる過ちだったと私も言いたい。しかしこの作品が今なぜ、敢えて映画化されたのかを考えてみたい。それは、ケツの青い理想主義者の末路をせせら笑うものではない。少なくとも、彼の死はあまりに凄絶に描かれていた。彼の放浪には、彼の育った家庭が必ずしも幸福ではなかったという事実が影となって付きまとっている。家庭によって形成されるルーツへの確信、それによって自分もまたその継承者たらんとする人間の本能。それを失った者はどのような行動に出るだろう。

彼は不幸にも優秀すぎた。優秀すぎるが故に徹底的に本質を追い求め、結果として自信を追い詰めることしかできなかった。少しでも彼が愚かで妥協的な人間だったら、埃塵にまみれて生きることを選択したかもしれない。しかし、彼にはそれができなかった。彼は真の自由と幸福を求めて旅立つ。今振り返ってみると、彼の真の自由と幸福とは、「死」そのものではなかったのではないかと思われる。社会的なつながりを断ち切ることは、事実上自分を殺すことにほかならない。いかに彼が生きようとしていたとはいえ、そこまで想像できなかったとは思えない。もし想像できなかったとすれば、彼は理想に燃えた才気走った若者であったということだし、自分の過去という呪縛から逃れられなかった人間だということになる。

極端から学ぶことは多い。彼の思考は受け継がれるべきだ。自分のルーツ、根源をためらうことなく切り開き続ける姿には、私は賛同する。それによって、今まで見えなかった自分の姿が分かるかもしれない。ただ、自分のやったことを問うことができなかった、それだけが彼の過ちであろう。

彼が最後に見上げた空はどうしようもないほどに青かった。彼はそこで何をつかみ取ったのだろうか。答えは、観客にゆだねられている。
[PR]
by murkhasya-garva | 2008-11-13 14:15 | 映画
b0068787_1394756.jpg
原作の単行本第1巻が発売され、あの「アマレスけんちゃん」の作者がなんかやってるな、と買って読んでみた私は衝撃を受けた。デスメタルとポップの間でもがく根岸の姿がイタすぎる。こんな平均値をぶっちぎったギャップの激しさに呑み込まれたのは何年前だったろうか。それが映画化されると言うのだ。否が応にも気になる。



周囲の高評価を裏切らず、本作も相当楽しい出来だった。デスメタルの使者、クラウザーⅡ世が現実に降臨したとなると、死神リュークがフィルムに映り込んでいるどころの騒ぎではなかろう。もう暴走しまくる彼らを見るだけで十分満足。ただ難があるとすればラストがぬるいということだけ。

また、主人公の根岸がなぜここまでデスメタルに馴染んでしまうのかが原作よりもちゃんと練られている。鬱屈した恨みやらなんやらの反動で放出される負のエネルギーのなせる技、と言うだけではない。やはり根岸も人の子、どんなに才能があっても迷いはする。そもそも自分にデスメタルの才能があるなんてこれっぽちも信じちゃいない。

夢を持つなんてバカなこと、そう言って悲観する根岸にかける母親の言葉は強かった。どんな変わったことでもいい、そこから力をもらっている人がいるんだ、と。母親に後押しをされて彼は自分のアイデンティティを再確認する。ぼくが皆に夢を与えられるんだ!と根岸がライブに乗り込む姿からは異形ながらも正統な成長譚という印象を抱くが、それが押しつけがましくないのはひとえに軽い悪ノリのおかげだ。根岸の苦悩も滑稽に映る。そして彼を突き放して笑い飛ばせるように出来ているからこそ、この作品は受け入れやすくなっているのかも知れない。ともあれ松山ケンイチはいい仕事してます。一見の価値ありとはこういう掘り出し物的発見の感がある作品に与えられる言葉だと思う。
[PR]
by murkhasya-garva | 2008-11-13 01:40 | 映画

アリゾナ・ドリーム(1992)

b0068787_174371.jpg



アクセルは、叔父の結婚式の為にアリゾナへやって来た。そこで彼は、夫を射殺した過去を持つ未亡人の家に住み込み、自殺願望癖の娘と恋に落ちる。そして、それぞれの夢を抱いた人々は、自ら破滅の道を辿り始めるが……。









おそらく「アリゾナ・ドリーム」で語られていることの一つは『夢』だ。眠っている時であれ、起きている時であれ、人間がここではないどこかのことを思うそれのことだ。ここでの登場人物すべてが夢を持っている。アクセル(ジョニー・デップ)はアラスカに行くこと、おじのレオ(ジェリー・ルイス)は車を売って月に行くこと、ポール(ヴィンセント・ギャロ)は役者になること、グレース(リリ・テイラー)はカメに生まれ変わること、エレイン(フェイ・ダナウェイ)は空を飛ぶこと。みなそれぞれが自分の身の丈に合わない、大きな夢を持っている。しかし、現実はそれを叶えてくれるほどの可能性をもっていない。それでも、彼らは自分たちには出来る、今にも可能だと信じて疑わない。みな、本気で自分の夢が現実のものだという表情をしている。エレインは夢中になって空を飛ぶ。グレースはアクセルに愛を囁き、雨の中を歩く。

しかしだ。不思議と哀しさは全編を通して感じられない。現実から躁病的に高く高く飛躍しようとする彼らの姿は見ていてぞっとさせられるのに、まるで哀しさなんてとうの昔に忘れてしまったかのようで、なぜかそこには軽快なリズムが流れ、そして深い絶望だけが底流しているのだ。アクセルは何度かこう口にする。「おれはもう大人だよ」と。自分がもう夢を抱けない人間だということを知っているのだ。それでも、必死に何かにすがろうとしている。夢を捨てることすなわち大人になることだと簡単に言うのは容易いが、ここにはそういった人間の成長というテーマでくくることのできない複雑な気分がどうしても残る。たとえば、「ライフ・イズ・ビューティフル」でも似たことが語られているように、監督のクストリッツァ自身が大人になっても何か単純な人間賛歌では終わらせられない複雑さを抱えているからだとも言える。この何とも言い難い気分を底抜けの陽気さで押し隠してしまおうとする態度こそが、ある種の哀歌を奏でていると言えないだろうか。
[PR]
by murkhasya-garva | 2008-11-13 01:09 | 映画

ダークマン(1990)

『ダークナイト』と、合わせて観たい『ダークマン』。575。駄句失礼。
b0068787_23303711.jpg


人口皮膚の研究をしている科学者のペイトン(リーアム・ニーソン)は、突然やってきた男達に痛めつけられる。研究所も爆破される。全身の40%に火傷(特に顔と手が重傷)を負ったペイトンは自分の研究機器をなんとかかき集めて人工皮膚マスクをつくる。そしてペイトンは、自分を襲った男達へひとりづつ復讐していく。やがて恋人のジュリー(フランシス・マクドーマンド)が、本性を現した敵の親玉に捕まる。ペイトンはジュリーを助けるために戦いを挑む。






この夏上映されたヒット作『ダークナイト』から、もう少しアメコミの実写を物色する気になり、目に留まったのが本作だった。タイトルが似ている…それだけの理由で借りたが、思った以上の面白さだった。ご都合主義な展開は抑えられ、主人公は何度も窮地に立たされる。所詮、超人的な力と衝動的な怒りという恐るべき武器を持った主人公・ペイトン=ダークマンでさえ、基本的には無力なんだということを見せつけてくれる。もちろん最後はダークマンの勝利で終わるが、爽快というには程遠い印象が残る。現実の社会に即した世界観、その導入されたリアリティは皮肉なことに、ヒーローものだというのに、ヒーローから一定の距離を取ったある種突き放したようなスタンスをもたらす。ファンタジーの世界から引きずりおろされたヒーローは、童心にかえることのできるような爽快感の代わりに、より私たち一般の人間に近いが故に重厚なメッセージを残してくれる。

また本作は恐らく、一部『ダークナイト』の下敷きになっている。年季の入った映画ファンならばすでに知っていることかもしれないが、ともかく驚きだった。

本作はラストで、ダークマンが彼の最後の敵を追い詰める。建造中のビルの先からルイス(コリン・フリールズ)の片足を持ってぶら下げ、今にも落とさんとする。「俺を殺せばお前はもっと悪に染まるぞ」とペイトン、もといダークマンを脅す。対して『ダークナイト』では、バットマンによってビルの端にぶら下げられたジョーカーは、バットマンに「お前も所詮俺がいなければただの狂人だ」みたいなことを言っていた。ヒーローにとって自分自身こそ実は悪なんだ、ということを突きつけられること―しかも「悪」の側の存在から―は、ある種の危険な“踏み越え”の瞬間であるように思われる。自身の正義を並々ならず信じている者だからこそである。結局、ダークマンもバットマンも結局世に容れられることなく闇に消える。“ダークマン”“ダークナイト”という名前は、それゆえに自分自身へのレッテルとなる。そうでしかあり得ないヒーローの存在・・・スーパーマンやスパイダーマンの世界のように、ヒーローに対して大手を広げて歓迎してくれる世界に彼らは生きていない。彼らには、悲しいまでにシビアな現実しか用意されてないのだ。

本来、現実社会にとって(スーパー)ヒーローなどというものは厄介な存在だ。社会の秩序から大きく逸脱し、まさに<自分=秩序、法>を体現しているようなもので、そんな身勝手な存在はヒーローどころか「異形の者」というレッテルを貼られてもおかしくはない。そういえば、『ハンコック』でも同様のことが示されていた。ハンコックは自分の隠れ家に『フランケンシュタイン』のチケットを持っていた。彼も、超人的な力を持つ者が社会の鼻つまみ者だということを自覚していたのだ。出る杭は打たれる、ではないが、<異形の者>に対する扱いは昔から変わっていない。超人的な力という“神に嘉された”能力を持ちながら必然的に世に受け入れられず、己の存在意義を問い続け、苦悩するヒーローの存在のほうが、親近感もわいてくるというものだ。

渋いぜ、ダークマン。2作目も一瞬見たくなったが、たぶん別モノのような気がするのでやめておこう。傑作の第2作なら、もっと有名になっているはず。
[PR]
by murkhasya-garva | 2008-09-24 23:32 | 映画

28週後…(2007)

「28日後…」の続編らしい。観ていない。今回はメモ。
b0068787_0555042.jpg
あらすじは…たった一滴の血液によって感染し、瞬時に凶暴性を引き起こしては見境なく人間を襲いだす新種ウィルス『RAGE』。ロンドンに蔓延し、発生してから28日後にイギリスは崩壊。11週間後に米軍がイギリスへ上陸し、18週間後にはRAGEは根絶されたと宣言される。やがて24週後、イギリス国民は都市の再構築を始めた。しかし誰に知られる事もなくRAGEはある一人の体内に潜伏していたのだ。そして28週後、再び目覚める日がやってきた・・(Chateau de perleより引用;)






レイジウイルスが蔓延し、狂気の暴徒化する人々が増え続ける街。これはウイルス感染者といえど、もはやゾンビである。しかし一連のゾンビものと違うのは、人々の恐怖を描きつくすための作品ではなく、それによって世界がどうなるかをあまりに冷静な視点で観察する作品である。まさにダニー・ボイル式ゾンビ映画である。この作品は、人々がパニックになる姿すら哀しい。どこまでも淡々とした音楽が流れ、登場するすべての人物の愚かさ、哀しさを嘆いているかのようである。どこにも奇跡はおきないし、超人的なアイデアや力を持った人間もいない。ただ必然によって彩られる悲劇。運命的ですらある。この架空の出来事にリアリティという鋳型をもって流しこむとき、本作はすばらしい作品となる。人々の愚かな選択もすべて一つのテーマに還元されるようである。
[PR]
by murkhasya-garva | 2008-09-24 01:01 | 映画

皆月(1999)

調子に乗って連日更新していますが、続くとは到底思えないので気長に見ていってください(笑)

b0068787_07124.jpg

風采の上がらない40がらみの男、諏訪(奥田瑛二)。のそのそと歩く鈍重な姿。そんな男の元から、妻が逃げた。「みんな月でした。がまんの限界です。さようなら」。義弟・アキラ(北村一輝)のつてでソープ嬢・由美(吉本多香美)と知り合い、同棲する。義弟が身を寄せる組から抜けて、妻と逃げた男を追い、3人は旅に出る。





花村萬月が原作だが、期待していたほどの暴力性は感じなかった。暴力を花村萬月から引いたら旅とセックスが残る。どれも人の奥底に眠る根源的な衝迫に突き動かされるたぐいのものだ。作品自体は、視聴者の持つ視線を変えるというより、じわじわと沁み込んでいくような雰囲気をもつ。むしろロードムービーとしての様相がある。旅の中で少しずつ変わってゆくのは人々の心情である。

たとえば彼の義弟であるアキラは、半端者のわりには妙に諦念を漂わせたように見える。彼が殺人ゆえの逃亡という意味合いも持って旅を続けていることから、彼自身が自分の運命を徐々に受け入れていく過程をとっているようにも感じる。

凡庸だが生真面目な主人公の周りを非日常がまとわりつき、そして各々がまるで浄化されるかのように自分の道を自覚していく様子は、諏訪(奥田瑛二)自身が、ささやかなものではあるが自分の「旅」を通して何らかの変容を体験しているようである。前半でアキラは彼に“兄さんらしくなった”と一言感想を言うが、生真面目だった男が今までとは違う世界に自分なりに正面から向かったとき、化学変化が起こる。彼自身が無力であるからこそ、生真面目さはただ純粋にその眼差しを周囲に感じさせる。では変容していく世界とは何のことを指しているのか。それは彼自身の『道程』―つまり本作をロードムービーと呼ぶ所以―である。

それゆえ、作中のそこらそこらに潜む、端境の本当に何でもないような言葉や感情(それはかなり微妙で、文字通りにすんなりと理解できないものだったりする)さえも含みこみ、しかしそれが同時にかけがえのない瞬間を生み出す。原作の書き文字をそのまま台詞に起こしたであろう堅さの残る言葉も散見されるが、不自然である一方でその「場」を端的に示すものであることが多い。原作がそのまま映像になったかのような作品なのだろう。原作は読んでいないけど。

あと、吉村多香美という女優を知らなかったのだけど、彼女はどこかで見たような顔をしている。これ、というようなインパクトがないのが魅力的で、またソープ嬢としてレオタード?を身につけているのがまたよい。こういうささやかなエロスは好きだ。本編では“普通に寄り添われる性”とも言うべきものが通底していることもあり、彼女は相当に本作にしっくりはまっている。しかしささやかと言っても、自分ではどうしようもないほど人とのつながりを欲していて、その結果セックスがまとわりつくような切実さのことを言うのだけど。「おっさん、私から離れてっちゃやだよう」そんな切実な台詞も主人公にかかれば、淡々と受け止められしまうような雰囲気がなかなかの滋味を出しているように感じる。……しかし由美の年齢の設定は23,4だったか。そんなものなのか?別の世界のことだなあ。こんなに人生煮込んだような眼をした子は周りにいないので、カルチャーショックを受ける。もっとあけすけに言うと、彼女はとても23歳には見えないということ。

知り合いが借りたDVDを観てみたのだが、こういう作品は自分からまず観ないなあ、と思う。他の人間の視点は時に自分自身にとって有益であったりする。
[PR]
by murkhasya-garva | 2008-09-12 00:11 | 映画

悪魔のいけにえ(1974)

b0068787_3241862.jpg
トビー・フーパー監督によって1974年に作成された伝説的ホラー映画。あらすじといえば、“テキサス州に帰郷した5人の男女が、人皮によって創られたマスクを被った大男「レザーフェイス」により殺害されていく様子をとらえた”作品である。あまりにも有名すぎる。

wikiによれば、“殺人鬼であるレザーフェイスの真に迫った精神異常の描写や、外面的な行動のみを捕え、同情を誘うような描写を一切廃したプロット”が数多くのフォロワーを生んだという。



しかし私といえば30年前のホラー作品と完全に舐めくさっていて、いわゆる古典的作品だし、何年か前に観たナイト・オブ・ザ・リビングデッドだったか(冒頭で自動車が川に突っ込むシーンを覚えている。ご存じないだろうか)、モノクロの作品が全然怖くないどころか、これを怖いと思う時代もあったんだなあ…なんてゾンビ特集のオールナイトにて寝ぼけ頭で呑気に考えておったことを思い出し、どれどれその古典的作品のたぐいを見ておこうか位の気分だった。

ところがこの作品、その考えが完全に誤っておったことを嫌というほど痛感させる。
これはとんでもない作品だ。私は当時日記に簡単にこう記した。
「画像や音声の粗さ、無造作に引きちぎったようなラスト。理不尽なほどに現実的なむごさ。誇張がないのに、いや、誇張も無駄もないからこそ、残酷なシーンが最高に引き立てられているのか」
その言葉が私の中ではまだ生きているようだ。何でこんなに怖いのかといったら、だいたいにして何故にこんなに人があっさりと殺されていくのか、というその理不尽さ、唐突さが図抜けているからだろう。

今まで少ないながらに見てきたホラーは、衝撃的に効果音を使い、また「ここを見ろっ!!」とばかりにスプラッタなシーンや狂気に満ち満ちた殺人鬼をアップにして映し出していたものが多かった。小学生のころは本当に「チャイルド・プレイ」(1988)が怖かった。逃げまどってドアの奥に隠れた女性の顔の真横から壁をハサミが貫く。肝が潰れた。実際にそういった手法は視聴者を怖がらせるためのツールであるのだが、やはりツールはツールでしかないということなのだろうか、見慣れた方法は先の展開を読ませたり、そういったシーン自体が時に視聴者を「またか…」と辟易させもする。しかし、そんな手法が広がるような時代より前、恐怖の表現は一つの極致に至っていたのではないか、と思わせる作品があったというわけである。

印象的なシーンを挙げてみよう。まず、カーク(ウィリアム・ヴァイル)だったか、家を見つけて遠慮もなしに入り、奥の部屋に向かおうとするその瞬間、突然レザーフェイス(ガンナー・ハンセン)が現れて彼を真正面から鈍器で殴り付ける。カークは抵抗する暇もなく、崩れ落ちてビクビクと体全体を痙攣させ、もう一発。それから彼を奥に引きずり込んで戸をバシン。その時間たるや数秒である。入口あたりの距離から離れてされており、異形の大男が若い男を打ち殺すのを確認するやいなやその恐怖はピークに達する。何の前触れもなしにそのシーンが映されること…当然の展開のはずなのに、そこには“容赦のない現実への引き戻し”を感じられて仕方がない。つまり、何だかわからないうちに人がとんでもない形で死んだ、ということに対するパニックに近い感覚なのかもしれない。これは怖い。

しかもレザーフェイスが万能の殺人鬼ではなく、一人の人間でしかないと思わせる描写もまたおぞましさ、恐怖をかき立てる。宮台真司氏は、レザーフェイスが侵入者を取り逃がして窓の傍に坐ったときに不安げに舌をピチャピチャさせるそのシーンに注目し、高い評価を与えた。

≪この一瞬のシーンだけ他とトーンが違う。このシーンで、私たちは、コミットメントからディタッチメントに変化する。喜怒哀楽(恐怖!)の直接性から離れ、「〈世界〉の中にこの男が確かにいるのだ」と受け止める。「ああ、そうなのかもしれない」と思うのである。≫
MIYADAI.com Blog『映画『国道20号線』について長い文章を書きました

私は、サリーがチェーンソーを持ったレザーフェイスに延々と追われる場面を挙げよう。若い女性一人になかなか追いつかない愚鈍な男が執念深く女を追い回すということ――何の効果音もなく、サリーの悲鳴とエンジン音が響き続けるチェイスシーンがいわゆる“映画のお約束事”の実現を異常に先送りし、それゆえに予定調和(というものがあるとすれば)の裂け目に先行きの不安定さ、つまりリアリティの余地をにじみださせているように思う。

「恐ろしさ」とは、それに触れる自分自身とそれ自体との仮想された“内的距離”に比例するのだろうか。まるで事実の如く、誇張表現もなく人が人を殺すというシーンを見せつけられたときに、私は震えた。殺人という、まるで隠された事実を垣間見たような感覚に陥るショッキングな作品である。作品にかかわる人物が醸す強烈な世界観という意味では、渡辺文樹監督の「バリゾーゴン」も通じるような気もするが・・・。お手上げものの伝説的作品だった。
二度目のファーストキスを奪われた気分とはまさにこのことだろう。
[PR]
by murkhasya-garva | 2008-09-11 03:24 | 映画
b0068787_1734454.jpg

ヴィゴ・モーテンセンがかっこいい。かっこよすぎる。デヴィッド・クローネンバーグ監督による前作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」を観て以来、あの世界をもう一回観てみたい、といつもどこかで思っていた。京都シネマでは今日が最終上映日。昨日偶然にそれを知り、朝一で見に行った次第。



本作『イースタン・プロミス』を見るにあたり私にとって重要であったのは、“感情移入”に関して。どこまで自分がこの作品にのめりこめるか、が重要だと感じた。そう感じたのは突然だった。<法の泥棒>のトップであるセミオン(アーミン・ミューラー=スタール)が身内の老女の100歳を祝っている場面。テーブルの周りを歌い手が回り、朗々と故郷の歌を歌う。汚れ仕事が目立つマフィアの世界で、場違いと思えるほどの和やかさ。セミオンも途中から大きなピンクのケーキを老女の前に置き、その傍で歌の指揮をするように手を振る。突然に、しかし当然のように訪れる凄惨な場面がこの作品の特徴なだけに、この場はまったくその予感を抱かせない、唯一の安寧のスポットだともいえる。

もともと私は映画に用いられる音楽が好きだ。特に、人の口から迸り出る音が、その人の魂だけではなく、作品の魂とも言うべきものを大きく揺さぶるように感じられる。私にとってそれは、ありていに言えばカタルシスの契機となり、涙腺が思わず緩むことも少なくない。誕生日を祝う喜びの場。私は一瞬そこに釘付けになった。やっと自分の日常感覚を寄せられる場面が来た、と感じた。しかし、一方で自分がそれまでになぜそれを感じなかったのか、と不思議に思う。もちろん答えは簡単だ。殺し、掟、つまりマフィアの世界に描かれる世界は、どこまでリアルであったとしても自分にとっては未知の世界だからだ。では、歌を歌われるシーンのように、人の感情が湧きあがる瞬間が自分にとって最も分かりやすい形であれば、その作品は“傑作”と銘打たれるのか、そんな単純なものなのか?深刻に悩むほどのものではなかったが、そのシーンはいくつもの思いがよぎったことで私に強い印象が残されている。

『イースタン・プロミス』は、ロンドンを舞台にしたマフィアの醜聞をめぐる話である。まったく別世界の出来事――理解を越えることばかりだ。何の予感も感じさせないような平和なときに、突然自分ののどぶえを後ろから搔き切られるなんて想像できるわけがない。しかし辛うじてこの作品に心寄せられるとすれば、助産婦のアンナ(ナオミ・ワッツ)のおかげだと思う。彼女は「普通の人々」でありながら最も<法の泥棒>に近づいた人物である。彼女が彼らに近づいたからこそ、何が違い、何が理解できないのかが分かる。彼らがアンナに紳士的に近づく程に、その違和感も匂い立ってくる。もう一人の主人公、ニコライにだって、最も入り込めたと思ったのはラストのたったワンシーンだけで、他の云々はアンナに感化されたとは到底思えない。彼には彼なりの目的があり、たまたまアンナと出会ったことで彼が人道的に見えたというだけだろう。しかしその彼なりの考え方が多少なりとも見えるおかげで、ロシアン・マフィアとは異なったニコライの「人となり」、彼の孤独や強さがほの見えるような気がする。

やはり何といってもヴィゴ・モーテンセンのガシッとした役柄はたまらなく好きだ。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』でもそうだったが、彼の感情を殺した時の行動が底の知れない固さ強さを醸し出している。デヴィッド・クローネンバーグはこういう作品をもっと作ってほしい。とりあえず「裏切りの闇で眠れ」も観損ねているので、ノワール映画をあさることにしよう。
[PR]
by murkhasya-garva | 2008-08-15 17:04 | 映画