休止中。


by murkhasya-garva
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

カテゴリ:映画( 322 )

精神

『精神』(2008)
b0068787_23304678.jpg



岡山県の精神科「こらーる」のドキュメンタリー。想田和弘監督の「選挙」に続く第2弾。イメージフォーラムで8月第2週に鑑賞。




「友達がいなくなったんです…」老齢の医師の前で切々と泣く女性。自分の病気のこともあって、付き合いがなくなっていってしまう、と訴える。また、至って真顔で最近の状態を伝える方。医師は小さなメモ用紙に何事か書きつけ、このように考えられたらいいんじゃないか、とアドバイスを伝えている。

「こらーる」を訪れる方は様々だ。最近私もこういった環境を体験する機会があり、その人たちの様子にあまり違和感を持たなくなっている。話してみれば真摯に応えてくれる方が多いことに気づく。自分が経てきた人生を、そして今おかれている境遇を冷静に捉えることのできる方はとても多い。

本作でも、待合室で冗談を飛ばす中年の方がいる。話に自分でオチを付けて、「・・・・・・!!」という感じで笑う様子がとても印象的。かと思えば写真を小さなアルバムに挿み、右側のページには俳句や詩を書きつけている。どれもが日々の出来事に感謝や達観を乗せている。

監督自身カメラを持ちながら、「精神科が自分たちとはベール一枚隔てたところにあるような気がする」と言う。まさにその通りなのだろう。5,6年前に見たホラー映画、何だったかは忘れたが、精神障害を負っていると思われる男が帽子を目深にかぶってブツブツと言い、ナイフを持って曲がり角の先にいる、というシーンがあった。ある種“人間とは違った危険な存在”が“野放し”になっているというようなイメージ。これはあまりにも偏っている、ということを本作で知らねばならない。いつのまにか無自覚に刷り込まれているのだ。注意が必要だ。

しかし、異様な雰囲気を持っている壮年男性を本作の最後に出したのは、想田監督がこういったイメージにまさに挑戦するかのような印象を受ける。住所不定、保険証も住民票もなく、住宅への申し込みをしようとしているのか延々と電話をし続けている。「こらーる」の電話で、閉店間際に。しかも信号を待たずに原チャリで飛ばしていく姿。これを見てどう考えるだろうか。間違っているのは社会か彼らか、なんていう二元的な問題ではない。どうしたものか。あのオッサンの誰も寄せ付けないようなムッツリとした顔が頭から離れない。
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-09-06 23:34 | 映画
『イサム・カタヤマ=アルチザナル・ライフ』(2009)
b0068787_171654.jpg

久しぶりに東京で映画を鑑賞。最新作か関西圏では上映されなさそうな作品をと思い、今回まず挙げたいのはこの作品。レザーブランドBACKLASHのデザイナー・片山勇のドキュメンタリー。





何の理由もなくこの映画を選んだつもりだったけど、少なくとも僕にこの映画を見る理由はいくつかあった。
・見る直前に気付いたこと。弟がアパレルに勤め、抽象的ながら気骨のあるコメントをするようになった。店の先輩から学んだものがいったいどんなものかは関心があった。
・見ている途中に気付いたこと。せめて自分の好きな映画では、世界を閉じてはいけないということ。関心は常に開かれたものでありたい。
・ラストで気付いたこと。それは、自分のやっていることが本当に実を結ぶのか、という迷いをいつも抱えている自分にとって、これは一人の男の姿から生き方を教えてくれる作品だった。

おそらく、この作品は僕にとって忘れてはならない作品なのだ。その決意めいた思いは僕の胸に突き刺さるようだった。上の3つの理由だけで本作の感想は言い切ったようなものだけど、以下ではあらためて本作を振り返りたい。

精神的なことを語る場面が非常に多い片山勇氏。一番はじめに、彼が次々と口にするキーワードは、僕が想像していたのもあって「決意」、それも“悲壮”な「決意」をしてきた者の言葉のように思われた。それに「孤高のサムライ」と呼ばれ、職人気質をもったデザイナーというと、なんだか無口で気難しい男を想像してしまう。
しかし、本作で登場するのはいつも笑顔でよくしゃべる、顔だけ見るとヒッピー風の男。

片山氏を表現するに、重要なワードは「直観」「笑顔」「自信」だろうか。彼の言葉は抽象的で断片的なために初めは特に何を言っているのかあまり分らないが、言葉が重ねられるごとに片山氏の信念は、鮮やかで透き通った水晶のように顕れてくる。そして彼を映し出すのは、彼を慕う仕事仲間。彼らはスーパーブランドのプロデザイナーとしてではなく、彼の人柄そのものの魅力を慕っているようだ。

誰とも対等に、自信を持って相手に向き合い、しかしいつも笑顔で核心を突いてくる片山氏。「仲間」「人を信じる」、そんな言葉と同時に、「くやしい」「情けねんだよ」「愛されたい。この年になっても」と切れ切れに吐露される身をよじるような切ない思い。若い頃には迷ったであろう彼の根底には、激しく揺るぎない熱意といつまでも自分の夢、ロマンを追い続けられる強さ、そして他の人間への深い信頼がある。「おれのこと好きだろ?」相手のことをまっすぐに見つめ、そう言える人がこの世にどれだけいるだろうか。

では、ぼくはどうだろう。やりたいことがあるのに形にならないもどかしさ、自分の経験の少なさ、自信のなさが、歩みを遅くする。もしかして同じことを誰かが既に言っているのでは――と考えると、書くスピードが途端に鈍ってしまう。
彼のようになりたい。自信を持って、相手に自分のことを示せるように。ラストあたりのカットで、片山氏の妻と息子とで砂浜に立つ姿が映ったとき、思わずグッとなってしまった。

この映画は、単なる内輪受けの作品なんかではない。20~30代の男性は特にご覧になってほしい。渋谷のライズXで上映中。ソフト化されないかもしれないから、この機にぜひ!!
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-08-13 17:04 | 映画
『サスペリア・テルザ-最後の魔女-』(2007)
b0068787_113235.jpg
ダリオ・アルジェントの魔女三部作、ついに完結。『インフェルノ』という珍作以来、ゆうに30年近くの時を経て本作は発表された。アルジェント監督、67歳の作品。ワールド・プレミアでは絶賛されたという。






イタリア中部、ヴィテルボの町で発見されたオスカー・デ・ラ・バレーと銘された棺。その遺品入れがローマの美術館に送られてくる。サラ(アーシア・アルジェント)は、ジゼル(コラリーナ・カタルディ・タッソーニ)とともに、その遺品入れを館長のマイケル(アダム・ジェームズ)不在時に開ける。魔女「涙の母」はよみがえった。手始めに惨殺されたのはジゼル。その光景をサラは目の当たりにする・・・。

3部作の最終作というだけあって、アルジェント監督はそれにふさわしいものを作り出してくれたようだ。「ため息の母」の顛末、「三母神」の存在など前2作品で語られたエピソードが再び現れる。3人の散らばった物語を取りまとめるようでもある。それと同時に、魔女の姿に最も肉薄した描写、魔女の再来による影響、魔術などオカルトの領域にある分野の存在をもその語り口に乗せ、濃厚な魔術的世界が描き出されている。

しかし、前2作品に見受けられたような観客をぶん投げるがごときプロットの運び方はそこまで変わっていない。思いだしてみてほしい。たとえば『サスペリア』では、過剰なまでに異様さや恐怖感をあおったあげく、それがなぜ起きたのかはっきり説明されることがなかった。たとえば『インフェルノ』では、・・・もう言うまい。観ていただければ分かるだろうし、前回の感想を繰り返しつづけるのは冗長すぎる。また、大きく変わったのは、回収できないエピソードがかなり少なくなり、安心して観ていられる部分が多くなった点だろう。また、この作品ほどCGなど映像技術の向上に感謝してしまったものも珍しい。

3作品は一貫して、ナレーションがとても少ない。魔女という古典的な存在を扱っているのに、だ。これによって、何をやっているのかが輪をかけて分からなくさせられる。ほとんど純粋な(つまり頭カラッポの)ホラーがいかにもゴシック・ホラーの顔をしてまかり通るということが起きてしまう(どんだけ『インフェルノ』に恨みもってんだか)。もちろん沈黙は金、さらに隠喩的な語りが必然的に増えもする。今回はこの隠喩的が後に行くに従って増えていく。最後の、魔女の対決からラストシーンに至るまで、ここははっきりいって何が起きているんだか分からない。しかし、適当に思いついたまま絵にしただけ、と切り捨てるには強い違和感がある。

たしかに正直ギャグかと思える程の唐突なストーリー展開は数多く、たとえばサラの母親の霊の出現など爆笑ものだ。サラの母親、その魔術師はイルカそっくりなのだ。笑わずにいられるか。「戦うのよ!」ってガッツポーズされた時には履いている靴を投げようかと思ったものだ。しかし、それと並行して語られる錬金術師であるとか、どうも本気くさいところも散見される。これは、何か違う。

それをうまく言い表すことはできない。ただ、アルジェント監督はホラーとして3部作を締めくくろうとしたのと同時に、その物語をある種のリアリティをもって語ろうとしていたのではないだろうか。もちろん一映画好きのたわ言なので気にしないでほしい。前2部作をそれこそアルジェント監督の「たわ言」と切り捨ててもそれはそれなのだけど、一つだけ思いだしたことを添えてこの文章を終えることにしよう。

数年前、有名(だという)占い師のもとにつれて行かれた私は、彼女が「マトリックス・レボリューションズ」が三部作の中で唯一非常に霊性の高い作品だと絶賛していたのを聞いたことがある。このことをどう思う?
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-07-15 01:03 | 映画

スクワーム

『スクワーム』(1976)
b0068787_2535798.jpg
“ひどい、ひどい、ひどい、ひどい、もう一度言う。ひどい”と知人が畳みかけたクリーチャー・ホラー。B級以下と思われるホラーは人を集めて観ることにしているのだけど、今回は一緒に観てくれた彼らに謝っておかねばならない。こんな映画観せてごめんなさい。そしてこの文章を読む人にも、あらかじめごめんなさい。







ひとことで言うと、「恐怖・人喰いゴカイの真実!」。さびれた観光村に養殖用のゴカイが放たれて、村人がその餌食になる。だいたい想像がつくように、白骨死体が突然出てきたり、シャワー口からゴカイが出てきたり、内臓をゴカイに喰い尽されていたりするのだけど、一番の見どころは、実はソフトのパッケージに載っています。つまり、ナイスガイ村人のロジャーの顔に何匹ものゴカイが喰いつくところ。あれはなかなか面白かった。

しかしストーリーはびっくりするほど拙い。本題になかなか入らず、やれ都会者の青年ミックだかマックだかが田舎娘のヒロイン・ジョリーといちゃいちゃしたりうろうろしたり、ゴカイの仕業と思われる伏線をチョロッと張っていたりするんだけど、あまりに冗長すぎる。期待してご覧になった方々ならば冒頭から深い失望感に襲われること請け合い。

そうすると、ヒロインの無駄なサービスカットを出したり、微妙にサスペンスものを匂わそうとしていたりと明らかにムダだと思えることをやっているのがやたらムカついてくるし、大量のゴカイが部屋からあふれ出てくるシーンはむしろ爆笑必至の場面となる。もう、何とかして面白い所を見つけようと必死になっている自分が悲しくなってくる。

そしていつの間にか勝手にハッピーエンドでまとめられるのだが・・・張られた伏線はまともに回収されず、全てゴカイのせいだ!ってことでまとめられている。だから言っただろ、回収できないようなシーンを出すのはやめろって!結局、一時間半観せられた僕たちの気持ちはどうなるの?と恨めしげに睨まれてケツを蹴られるし、これが「観ても何にも残らない」ってこういうことか、と自分はため息をつく羽目になった。チクショー!

ある意味、ヒドイ映画とはどんなものかを学ぶいい機会だったかもしれない。

※この映画で学んだこと・・・皆でZ級映画を見るときは、ちゃんと宣言してから見ましょう。タイトルから判断できなかったら、まず自分ひとりで鑑賞してからにしましょう。友人関係を損なうおそれがあります。
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-07-13 02:57 | 映画
『サスペリア』(1977)
b0068787_145438.jpg

『サスペリア・テルザ』が公開されている。京都みなみ会館でも先週木曜から1週間のみの上映だ。前作って?とか言う私は『サスペリア』『インフェルノ』を借りて鑑賞。
しっかし・・・・。








第1作はまだ面白かった。ゴシックな建物に潜む魔女の存在。その得体の知れなさが各場面で予感され、背後で激しく流れるBGMのおかげで少し気分まで悪くなってくる。突然食料にウジがわいたり、盲導犬が人を襲ったり、召使いの女がこちらを凝視していたりと薄気味が悪い。そしてついには魔女の真相に立ち会うのだけど、あまりにあっさりし過ぎて何だか期待と違う。それに主人公スージー(ジェシカ・ハーパー)の刃物での一刺しで魔女が死ぬってどういうことなのか。魔女という設定を全然料理しようとしていない。その代りに(当時)残酷な(と思われていた)方法で次々に人が死ぬ。節操がない。しかもショッキングと言うより、その緩慢さはゴシック調に近い。別に美しくもないから中途半端な感じだ。

でもそのゴシック的なもののために、この危険さが不穏さと入り混じる雰囲気も悪くないと思えて、ラストもそれなりに余韻があるように感じられたのだ。ついでに言うと、この不穏さは登場人物の配置にも関係ある。つまり盲目のピアニスト、外国の醜い下男、無表情の下女、あと動物。彼らが登場する必然性は、実はない。彼らがわざわざ取って付けたように怪しげな役どころを演じることで、差別的な見方が逆に監督の「ホラーを作ろうとする意図」を感じさせて、こわい。これは『サスペリア・テルザ』の公式HPから得た印象と似ている。


第2作は正直言って何と言うべきか分からなかった。本当に困ってしまった。
『インフェルノ』(1980)
b0068787_152935.jpg
魔女という恐ろしい存在を語る第2の作品、場面も変わって新たな恐怖が語られるのか、『三母神』という怪しげな本がいたるところで現れ、それに関わった人々が次々と死んでいく。しかも前作と類似したカットも多用され、語られることのなかったエピソードが明らかになるかもしれない。・・・私の単なる思いすごしでした(泣)






とにかく殺人シーンが不自然なくらい多い。いや、ゴアやキウィほどではないんだけど主要と思われた登場人物がバスバス死んでいく。一番ひどいのは骨董品店のカザニアン(サッシャ・ピトエフ)で、魔女のアジトである建物に出入りしている猫を袋詰めにして沼に沈めようとするとき、自分もぬかるみにはまってしまう。そこに棲むネズミにたかられ、悲鳴を上げる彼の声を聞きつけた店の男がやってきた。助けてくれると思いきや、彼はもっていた包丁で彼の喉をバツリ。意味が分からない。すべてが魔女の仕業だったのだ、ではあまりに舌足らず過ぎる。

そして最後の魔女との出会い、こちらも炎に巻かれて死神が断末魔を上げているじゃないか。一つの歴史を作った魔女の最期がこれなのか、と思うと逆に泣けてくる。もちろん、呪いの言葉を吐いたのかも知れないし、真偽は定かでないのだが。

背景にさまざまな設定があると考えても、この作品はあまりにお粗末すぎる。深くもないし、怖くもない。肯定的に言うならば、「ああ、こういう作品が恐れられる時代もあったのだなあ」というくらいだろうか。こんな伏線だか本線だか分からないようなシーンを詰め込まれて、こちらは理解しようにもしようがない。まさかこれをかつてのアメリカの配給会社のように「難解だ」などとは言うまい。ここで観客の予想する世界観は、憶測と予断によるものでしかない。よって私はこの2作品に関して考えることをやめよう。そして、『サスペリア・テルザ』がまだ幾分か面白いだろうことを祈ることにしよう。
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-07-12 01:11 | 映画

少年メリケンサック

少年メリケンサック(2009)
b0068787_10581632.jpg



今朝、たまたま思い出したので感想を少々。。。







唯一、宮藤官九郎がらみの作品で面白かったのは『アイデン&ティティ』だ。他にもあるかもしれない(『鈍獣』も観てない)が、こんなに胸を打たれた作品はなかった。じゃあ他の作品はどうなのか、というと、登場人物もだけど色々なものがしょぼ過ぎて感動にまで行きつかない、という感じ。この宮藤と言う脚本家のハナシは基本的に小さいのだ。彼の話のなかで登場人物はたいてい大暴れするけれど、彼らの生活範囲を出ることはない。そしてたいてい悩みを持っているのだけど、すごく個人的で、しかもその悩みは「負け犬」――失敗者、挫折者、敗北者のものだったりする。あまりにも痛々しすぎて、そして彼らの悩みはろくに解決されずラストを迎えるあたり、妙にリアルなものだから見ている側は全然スッキリしないのだ。最後にこちら側に残されるのは、こちらの不完全燃焼な思いと宮藤という脚本家はプロとしてきっちりまとまった仕事をしている人だよね、という、場違いな評価くらいだ。

この作品も『青春☆金属バット』だったか『青春♂ソバット』だったか、タイトルがすぐに思い出せない…とにかく宮崎あおいがポスターでロックな格好をしていて、劇中歌の『アンドロメダおまえ』だけがものすごい存在感とインパクトを持っていたのは印象に残っている。なんか、いろいろ埋もれてしまう作品だ。

本作に出てくる小汚いオッサンたちは昔ロックで鳴らした人たちで、でも今はそれぞれ本当に小さくなってしまった人たちばかり。それをネットで現役のバンドだと勘違いしたレコード会社の宮崎あおいが全国ツアーを組むが、本人たちを見てガッカリの宮崎あおい、そして散々な目にあう中年男たち。結構などん底の挫折にたたき落とされ、オッサンたちもたまにはブチ切れてみるけれど、それでも自分たちの世界を突き抜けられないところがむしろ泣ける。少なくとも宮藤ワールドでは、ブチ切れて奇行に走るのはほぼ予定調和にしか見えないし。

しかし小ネタに関しては秀逸だ。あたり一面にちりばめられたスラップスティックな小ネタにはいちいち笑わせられる。そのおかげで各キャラのインパクトは十分にある。けれども、結局みんなあんまり報われないんだな。救われないのだ、最後まで。「まあこれも物語の一つのパターンってことで」などと勝手にまとめるとスピードウェイ(「アイデン&ティティ」の)の面々にどつかれそうだけど、じゃあそれ以外どうしろって言うんだよ。この不完全燃焼感をどこにやればいいんだ?

とはいえ宮藤ワールドのいいところは、“みんな夢をかなえてハッピー”とかいう普通の予定調和を確実に外してかかる点かもしれない。わざわざ低空飛行と言う一番溜飲の下がらないイライラするラインを取り続けているのも、ある意味さすがだ。別に特集されても観ようとは思わないが、たぶん、おそらくだけど、登場人物と同じ世代になったとき、ものすごいピンポイントなタイミングで宮藤作品てのはツボに来るような気がしてならない。それこそ『アイデン&ティティ』のように。なんかやだなあ。
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-07-09 11:00 | 映画

スター・トレック

『スター・トレック』(2009)
正直『スターウォーズ』シリーズは欠かさず観ていても、『スタートレック』シリーズになるとぼく同様観てない人は多いんじゃないか。後者は映画ではなく、ドラマ中心だったはず。何も知らずに見に行きました。

b0068787_2233480.jpgジェームズ・T・カーク(クリス・パイン)の父は突然現れた大型船の攻撃を受け、宇宙に散った。その22年後、カークは惑星連邦艦隊に志願する。しかし問題児扱いされていた彼は、緊急出動命令に当たってリーダーに選ばれなかった。なんとか友人のボーンズの助けでUSSエンタープライズに乗船することができるが・・・




しかし実はこの日、『インスタント沼』を見るつもりだった。それなのに、京都シネマの駐輪場はシャッターが下りていてバイクが置けない。ウロウロしてたら時間がなくなってきたので仕方なく…という流れで観たので前半は軽く不機嫌だった。特に前半は何だか濃い顔の登場人物が出てくるわ、なかなかスカッとしない内容だわで正直言ってもう何じゃコレ状態でアクビしまくりの退屈しまくり。でも観終わったらそんなことすっかり忘れてスッキリ顔だったのをよく覚えている。

どこかのサイトで「『スタートレック』は『スターウォーズ』と違い、ドンパチがメインじゃないのに今回それが前面に出ているのが残念」とか言っていた。あくまで「探検記」というのが本シリーズのスタンスらしい。なんだかストイックな感じで好感が持てる。本作は実際にドンパチやっているとは言え、ただ1人の英雄的な行動によって全てが上手くいくみたいなご都合主義ではなく、クルー全員の協力が大切なんだ!というのが押し出されていて良いよなあ、と。

映画化となると、大抵は元の作品に輪をかけて世界観がデカくなり、誰それの陰謀だなんて話がぶちあげられることが多い。それに対し、本作はちゃんと一定の規模で話が終始している。未知の敵の出現→撃退に至るまで、ほとんど破綻がない。筋がしっかりしているから、彼らが何をしているかも分かりやすい。登場人物がコロコロ死んだって、観ている方は“ついていける”のである。ここってけっこう大事だ。
ただ、そう考えても登場人物(特にカーク)の俗っぽさは地に足付きすぎていてちょっと鼻に付く。実は彼らの「人間臭さ」も作品のテーマを支えていたりするんだけど。

あと、本作はシリーズとは別ものとされているらしいが、それを解消させるため採用されているのが“並行世界”、パラレルワールドという設定。別の選択をした場合、展開される別の世界。近頃はこのネタも色んな作品で使われていて珍しくも何ともないのだけど、本作では分岐した世界同士もうまく絡めている。少し考えればすんなり納得できる程度で、観る方にストレスがそんなにかからないのも良い。

ドラマシリーズ未見の方でも十分楽しめる作品。ドンパチやパニックシーンがそんなに多くない分、そういう場面では意外に迫力があったりしてドキドキできます。
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-07-05 02:36 | 映画
6/27日上映の『麻生久美子Beautiful☆Night』、日本の女優さんでトップクラスに好きな方です。最近では『インスタント沼』で主演。結局京都では見られずじまい。滋賀会館シネマホールでやってくれないかなあ。

『ハーフェズ ペルシャの詩』(2008)b0068787_3383822.jpg
麻生久美子は母方のペルシャから来た、大師の娘という役。非ネイティブというのも役どころに合っている。主人公シャムセディン(メヒディ・モラディ)はハフェズ;コーランの暗記者。ナバート(麻生久美子)の家庭教師を任されたものの、彼女の無邪気な問いとその声に心をかき乱されてしまう。(字幕では“ハーフェズ”ではなく、“ハフェズ”。誤記入ではないです)


とっぱじめはカットが結構早急な感じで、しかもコーランの朗読など現地の習慣をレポートするように見えたものだから、え、これ日本の監督が作ってるの?と思った。でもあとあとになって一切のナレーションなし、多重の含意にも思える風景の長回しなどが雰囲気を伝えてくれる。思えば特に日本のカルーい作品は、キャラ立ちさせるための気ぜわしい演出が多いものだ。しかしこの作品、日本から女優を招いたからと言って全然おもねっておらず、世界観と物言わぬ光景とが重なり合うエピソード、その中のやり取りが物語を一枚一枚めくっているようにも感じられて、いつの間にかその世界に引き込まれてしまっていることにあとで気づく。

朗々と暗唱されるコーラン。ハフェズの想いがコーランの引用と優れた詩の才能でつづられる。終りがどこか見当がつかなかったけど、聞いたことのない歌ってこんな感じである意味あっさりと終わるように聞こえるんだよな。余韻があっていいです。


『アイデン&ティティ』(2003)b0068787_3391314.jpg

みなみ会館で観たのは何度目だろう。多分最低3回は観た。まさに青春映画そのもの。ボブ・ディラン風ロックの神様のセリフがいちいちグッと来る。昔よりもなんかすごい来るんですけど。軽々しく言いたくないのだけど、傑作です、これ。




「どんな気がする?誰にも知られないってことは、転がる石のように・・・」
この作品、何度観ても涙は出ない。でも見る度になんか心にグサグサ突き刺さってくるんだ。何者でもない自分、世間やら将来やら周りの圧力をひしひしと感じる時期に、この映画はイタい。イタすぎる。自分がどうすればいいかなんてわからない。昔よりもその思いは強くなってきたような気がする。それをこの映画をみて痛感するわけだ。でもロックの神様はずっと前から答えを出してくれている。なぜ今まで気付かなかったんだろう。自分の思ったようにやればいいんだ、と。

そして主人公中島(峯田和伸)の彼女を演じる麻生久美子。こんな時からもう彼女はしっかりそこに“いる”。ゆっくり、棒読みのようだけどしっかりと中島に聞かせるようなセリフがとても印象的。

「わたしと君は毎日いちゃいちゃするような時期を過ぎて、いなきゃ絶対困る・・・なんだろう、親友より、もっと上の関係になれたって思うんだ。それを結婚って言うなら、わたしも同じ気持ちだよ」
初めて観た当時は、何だこのクッサいセリフは、と鼻についたけど、おそらく彼女の気持ちを中島に確かに伝えるためにはこの言葉じゃないとだめだったんだなあ、と今になってしみじみ思わされるのです。


『たみおのしあわせ』(2008)b0068787_3395784.jpg


オダギリジョー扮するサエナイ30男・民男が見合いで出会った人、瞳。考えてみれば美男美女というムカツク、もとい羨ましい取り合わせなんだけど、民男の存在感のショボいこと。いや、いい意味で言っているんです。




ちょっと手を加えたら確実に美男なのに新しく買うシャツはチェックでしかもインしてるし、家に帰ったら夜は確実にパジャマ。いわゆるオタク系・草食系男子というか。しかし草食系男子ってヒドイ言葉です。どの層が使うんだよ。

見合いを経て少しずつ結婚へと近付いていく二人とその周りの人々。丁寧な視点で彼らの一日一日が描かれてゆく。“しあわせってこういうものなんだなあ”とジワジワ沁みてくるのがとても好き。小さなことの積み重ねがあるからこそ、瞳の「バカなの、私。分かってるの自分で。凧みたいな女だって。ちゃんと下でヒモを引っぱってくれる人がいないと、どっか飛んでっちゃうの」なんていうセリフがものすごくググッと来る。

ここでの麻生久美子はみぞおちの奥あたりがくすぐられるような愛おしさと温かさがある。彼女は男の願望を形にしたさせたようなタイプで、しかも奥ゆかしい色気まで感じられるというものだから神々しさまで感じてしまいました。

ハッピーエンドだって大方の人が期待していたはず。あれやこれやの伏線なんておいといて、強引にまとめちゃっても全然OKくらいに思っていた。でも最後の最後で民男親子はとんでもない行動に出る。いったい、彼らはどこに行こうというのか。それってしあわせなのか?

※追記:民男の住んでいる家の居間の場所や使い方がイイ。陽の当たる場所に和式座卓(テーブル)を置き、そのすぐ傍に台所や洗面所、玄関を配置している。しかも奥側にはゆったりくつろげそうなソファ。ただ、天井から覗かれていたり、入口から入って奥に当たる空間は少し不安な感じがするんだけど。あの空間、2人は確かにちょっと足りない。もう一人、それこそ温かい存在が入るだけですごく充実するんだろうな・・・


『転々』(2007)
b0068787_3404265.jpg

パチスロ狂いの借金まみれ大学生を演じるオダギリジョーのところに突然乗り込んできたヤクザの三浦友和。一緒に東京散歩したら100万円やるという提案で、二人は当てもなく東京散歩。




三木聡監督だし、ぜったいロードムービーにはならんだろう、むしろ小ネタ満載という得意技を炸裂させるのにいい題材だろうと思っていたら案の定というか。あまりにバカバカしいのでユルユルにして見ていたら、ちょうどアグラをかいていたために思わず尻から漏れた屁の音が響いてしまった。普通ならものすごい焦りようで映画どころじゃないんだろうけど、その音を聞いた前の席のお姉ちゃんやら周りの人がピクーッてすごい反応するのでそっちがやたら面白くて面白くて、一人でずっと笑い続けていたのでした。

ここで出ている役者さん、小泉今日子もいいのだけど吉高由里子が光っている。思ったまま行動して一人でキャハーみたいなおバカで無邪気な女の子を見事に演じていて、その突き抜けっぷりにノックアウトです。もう負けっす。ピョンピョン飛び跳ねるのでポップコーンがバラバラ飛び散っているのに、気にせず食べていたり。すごいキャラだなあ。

天涯孤独な主人公が家族の温かさ、人とのかかわりの大切さを知るというのもテーマにあるようだけど、こちらは何だか全然来なかった。無造作な終わり方もたぶんそれに通じているのだろう。軽いノリでシメられると、はじめこそ、えぇー?という感じなんだけどこれがあとでジワジワ来るのだ。
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-07-03 03:56 | 映画
Planet+1での短編集鑑賞。

柴田剛の『おそいひと』の公式サイトで挙がった福居ショウジンの名前は、何と新たに再ソフト化される『ピノキオ√964』の監督だったことにリンクして、しかも行きつけの京都みなみ会館では福居ショウジン「復活祭」のチラシを渡されたという、これはなんというリンクですか。
しかしそれを知ったのは上映が始まって一週間経った1/24。遅いよ。遅すぎるよ。
取りあえず予定を組んだけど、全然見に行くことができないよ。ということで短編集鑑賞と相成ったのでありました。

<上映作品>
『METAL DAYS』(1986/color/60min), 『ゲロリスト』(1986/color/12min), 『キャタピラ』(1988/color/33min)

<感想>
実験的、というのか非常に神経を逆なでするような効果を求めて、観客を挑発しているように思われる3作品。これが福居ショウジン監督の作品なのか。爆音、カメラの急速かつ急激な揺らしと視点・場面の変換。不快な映像や無作為にすら見える展開――ここではあえてストーリーとは呼ぶまい。確かに『METAL DAYS』はストーリーがあるものの、それ以上に爆音の効果が際立っている。つまりそれは、時系列に並べられた物語よりも、その時間性を問わない無秩序な状態こそが重視されていると思われるからである。

その上で言えば、『キャタピラ』なんてストーリーは皆無だ。ひどい、としか言いようがない。公園の隅でひたすら物を食う浴衣姿の女、町じゅうを散策して回る少女、地下鉄構内で無気味な表情を見せて奇行に走るスーツ姿の男、そして銀紙のマントと金色のスクリームのような面をつけた何かが、交互に映し出され、無作為に動き回る。画面もまた無作為、しかし意図的に振り回され、何の前触れもなくクルクルと場面が変わる。そしてTHE END。ここに何かを見出すとするならば、それは個人の暴力や狂気とは異質な“狂気”のあぶりだし、ということだろうか。ノイズがずっと流され続け、脈絡もなにもないまま流される映像は正直言って苦痛である。一体何だったのか・・・という問いに、この作品は答える気もないんだろうな。

『ゲロリスト』は、夜の街で誰彼となく絡みまくり、「人を殺せる?私を殺してよ!ねえ私を殺してよ!!」とのたうちまわる女、そして公園の砂場らしき場所で大量のゲロをゲロゲロゲロ。あんな大量のゲロを見るのは初めてだったのでけっこう面白かった。新鮮だ。

短編の捉え方が、たぶん自分の考えてたのとは全然違うのだろう。いや、映画の捉え方自体、なのか?観客の許容量をクラッシュさせんばかりの刺激に溢れた映像作品だもの、そりゃ賛否両論分かれるだろう。せっかく精神的にも肉体的にも結構いい感じだったのに、何か腹の中に異物を埋め込まれたような感覚。これを切って捨てる――もう「ひどい」って言ってしまったが――のは簡単だけど、ここでは敢えて“賛”でいこう。新しいものを観ることができたことへの“賛”だ。生半可なホラー見るより全然いい。そう考えると、福居監督はすごい目のつけどころ、攻め方をするんだな。

『ピノキオ√964』『ラバーズ・ラバー』『the hiding』は今回見ることが叶わなかったが、またいずれ、ソフトになったときにでも観よう。もちろんスクリーンで見た方が絶対いいと思うけど。。。短編は普段観ることはできないだろうし、運が良かったのかもしれない。おk。
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-02-02 15:18 | 映画
先週土曜日にみなみ会館で上映されたテオ・アンゲロプロス特集のオールナイト。

放浪・・・と言えば、トニー・ガトリフ監督の「ガッジョ・ディーロ」「愛より強い旅」「僕のスウィング」など、ロマ民族など実際に故郷を持たない人々を描いた作品群を思いだす。ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督が手掛けたこれらの作品でも登場人物たちは“放浪”し続けるが、しかし彼らは難民としてなど、そういった民族的な問題から放浪しているのではない。

自分の中での定まることのない何かが、彼らを絶えず流離わせている。誰もが、孤独を抱えている・・・私の住むべきところはここではない。少なくとも、ここではない。いったい安住の地はどこにあるのか・・・彼らは迷い続けて、ある日彼らはそれまで住んでいた地を捨て、外の世界へと身を抛り出す。アンゲロプロス監督の描く放浪は、ガトリフ監督の描くそれよりも、もっと内的なものだ。与えられているものを捨ててまで、自分の「何か」を探し続ける人々・・・その先には、目的地はあるんだろうか。私にはどうしても、それがあるとは思えない。現実を拒む人に、現実の終着点などない。彼らのたどり着く先は、現実にはない。つまり、ごくごく簡単に表現すると、3作品に登場する人々は“心の旅”を続けているのだ。それは救いにもなろう。絶望にもなろう。人次第である。


b0068787_10543118.jpg「蜂の旅人」では、娘の結婚を機に自身も妻・マリアと離婚し、養蜂の旅へと向かうスピロ。「家族は離散するものなのか」と妻に心中で問いながらも、やまれず漂泊を続ける男。旅先で彼は少女に出会う。彼女の馴れ馴れしさを厭わしく思いながらも、しだいに惹かれていく。しかし彼女にも、「あなたは“過去の旅人”。わたしに過去はない」と言い放たれる。


2人はその正反対の性質ゆえに惹かれあうのだろうか。老人と少女という、その存在をまさに体現しているような2人。しかし彼らは別れてしまう。終盤、映画館の前で2人はお互いを貪るように情熱的なキスをする。しかし私は、それを見ながら、「ああ、彼と少女では“何も生み出しえない”のだ」と絶望的な思いに襲われた。あまりに儚いのだ。

スピロは、「地図にない場所」をさがし、ついに岩肌がむき出しの丘に巣箱を置く。その様子は、墓標のようでもある。しかし、ラストではその墓標さえも彼は自ら崩していってしまう。彼自身がその空虚さに気づいたからだろうか。墓標などという空々しいものなど、自らを捨てた者にはほとんど意味をなさなかったようだ。彼は巣箱から飛び出た無数の蜂に刺され、息絶える。

この作品の歩むようなスローテンポでの静かな語り口は、確かに“子どもを寝かしつけるに最適”かも知れない。しかし私には、眠ってなどいられないほどの戦慄を覚えさせる空気が、充満していたと感じられた。

b0068787_10553134.jpg「霧の中の風景」では、私生児として生まれ、その事実を隠された幼い姉と弟が「父親はドイツにいる」という嘘を信じ、夜間急行に飛び乗る。父親は誰か分からない、それなのに2人はまだ見ぬ父親を求めて旅に出る。彼らの旅立ち自体が、幻想に纏われていると言っていいだろう。その中で、2人は様々な世界に出会うことになる。彼らの目には奇異に映る不思議な世界―雪を見上げて立ち尽くす人々、唸りを上げる巨大な機械。そして、ときに生々しい残酷さが、彼らを引き裂いていく。

2人を現実の痛みから守るように、青年が現れる。しかし青年のいたわるような優しく差しのべられた手さえも、少女が自身の成長を突きつけられるきっかけとなる。初潮も迎えていなかった少女・ヴーラの性的な側面を必然的に含んだ成長は、観客の呼吸を一瞬、しかし確実に詰まらせる。世界に開かれる、という生々しさは、女性性の目覚めに通ずると思わないか?痛ましさが必然的に伴うのだ。

彼女とっての救いは、弟という理知的な、しかし守られるべき存在、そして彼女の支えとなる存在であった。青年は、一見守る存在のようでありながら、2人にとっては世界の一部でしかないのだ。少女は諦めや悲しみとともに、それを切り捨てていく。

この旅は、そう考えると「成長」をテーマにした作品とも見える。だが、ここでもやはり、2人は「幼さ」の体現でもあった。2人は(この作品では)永遠に幼い。ラストのシーンは、2人の安住の地である。もはや現実の地ではない。あのような到達点しか見いだせなかったのは、必然ではある。しかしそうならざるを得なかったことを思うと、あまりに胸が締め付けられてならない。

b0068787_1056234.jpg「永遠と一日」は、死を目前にした詩人の回想である。私にはこの作品が最も理解しがたかった。少年と老人がなぜ出会わなければならなかったのか――それは主要な登場人物の少なさゆえに浮き上がってくる疑問である。少年は、老人アレクサンドロスの一面だったのか、あるいは過去/言葉/理解/愛を思い至らせる呼び水であったのか?



老人は、家族の中でさえ言葉というかけ橋によってしかまれにつながることがない、と言う。永遠のものとなる過去。一日の回想の中で永遠に紡がれていく過去。亡き妻との関係――彼女とのかかわりが、彼に大切なことを教えてくれるようだ。「愛」とは、人の原点であるということ。しかし彼は、それを現実ではなく、過去の体験として振り返ったときにしか気づくことはない。となると、「明日の時の長さは?」(――この答えが、マリアによって“永遠と一日”と応えられる)とは、焦がれる程の時と待ちわびた人、そして過去の自分の姿をとらえようと切に願う人が発する言葉なのだろう。永遠に、永遠に彼は己の死の瞬間を広大な海に託したのかもしれない。
[PR]
by murkhasya-garva | 2009-01-28 10:56 | 映画