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by murkhasya-garva
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2009年 01月 28日 ( 1 )

先週土曜日にみなみ会館で上映されたテオ・アンゲロプロス特集のオールナイト。

放浪・・・と言えば、トニー・ガトリフ監督の「ガッジョ・ディーロ」「愛より強い旅」「僕のスウィング」など、ロマ民族など実際に故郷を持たない人々を描いた作品群を思いだす。ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督が手掛けたこれらの作品でも登場人物たちは“放浪”し続けるが、しかし彼らは難民としてなど、そういった民族的な問題から放浪しているのではない。

自分の中での定まることのない何かが、彼らを絶えず流離わせている。誰もが、孤独を抱えている・・・私の住むべきところはここではない。少なくとも、ここではない。いったい安住の地はどこにあるのか・・・彼らは迷い続けて、ある日彼らはそれまで住んでいた地を捨て、外の世界へと身を抛り出す。アンゲロプロス監督の描く放浪は、ガトリフ監督の描くそれよりも、もっと内的なものだ。与えられているものを捨ててまで、自分の「何か」を探し続ける人々・・・その先には、目的地はあるんだろうか。私にはどうしても、それがあるとは思えない。現実を拒む人に、現実の終着点などない。彼らのたどり着く先は、現実にはない。つまり、ごくごく簡単に表現すると、3作品に登場する人々は“心の旅”を続けているのだ。それは救いにもなろう。絶望にもなろう。人次第である。


b0068787_10543118.jpg「蜂の旅人」では、娘の結婚を機に自身も妻・マリアと離婚し、養蜂の旅へと向かうスピロ。「家族は離散するものなのか」と妻に心中で問いながらも、やまれず漂泊を続ける男。旅先で彼は少女に出会う。彼女の馴れ馴れしさを厭わしく思いながらも、しだいに惹かれていく。しかし彼女にも、「あなたは“過去の旅人”。わたしに過去はない」と言い放たれる。


2人はその正反対の性質ゆえに惹かれあうのだろうか。老人と少女という、その存在をまさに体現しているような2人。しかし彼らは別れてしまう。終盤、映画館の前で2人はお互いを貪るように情熱的なキスをする。しかし私は、それを見ながら、「ああ、彼と少女では“何も生み出しえない”のだ」と絶望的な思いに襲われた。あまりに儚いのだ。

スピロは、「地図にない場所」をさがし、ついに岩肌がむき出しの丘に巣箱を置く。その様子は、墓標のようでもある。しかし、ラストではその墓標さえも彼は自ら崩していってしまう。彼自身がその空虚さに気づいたからだろうか。墓標などという空々しいものなど、自らを捨てた者にはほとんど意味をなさなかったようだ。彼は巣箱から飛び出た無数の蜂に刺され、息絶える。

この作品の歩むようなスローテンポでの静かな語り口は、確かに“子どもを寝かしつけるに最適”かも知れない。しかし私には、眠ってなどいられないほどの戦慄を覚えさせる空気が、充満していたと感じられた。

b0068787_10553134.jpg「霧の中の風景」では、私生児として生まれ、その事実を隠された幼い姉と弟が「父親はドイツにいる」という嘘を信じ、夜間急行に飛び乗る。父親は誰か分からない、それなのに2人はまだ見ぬ父親を求めて旅に出る。彼らの旅立ち自体が、幻想に纏われていると言っていいだろう。その中で、2人は様々な世界に出会うことになる。彼らの目には奇異に映る不思議な世界―雪を見上げて立ち尽くす人々、唸りを上げる巨大な機械。そして、ときに生々しい残酷さが、彼らを引き裂いていく。

2人を現実の痛みから守るように、青年が現れる。しかし青年のいたわるような優しく差しのべられた手さえも、少女が自身の成長を突きつけられるきっかけとなる。初潮も迎えていなかった少女・ヴーラの性的な側面を必然的に含んだ成長は、観客の呼吸を一瞬、しかし確実に詰まらせる。世界に開かれる、という生々しさは、女性性の目覚めに通ずると思わないか?痛ましさが必然的に伴うのだ。

彼女とっての救いは、弟という理知的な、しかし守られるべき存在、そして彼女の支えとなる存在であった。青年は、一見守る存在のようでありながら、2人にとっては世界の一部でしかないのだ。少女は諦めや悲しみとともに、それを切り捨てていく。

この旅は、そう考えると「成長」をテーマにした作品とも見える。だが、ここでもやはり、2人は「幼さ」の体現でもあった。2人は(この作品では)永遠に幼い。ラストのシーンは、2人の安住の地である。もはや現実の地ではない。あのような到達点しか見いだせなかったのは、必然ではある。しかしそうならざるを得なかったことを思うと、あまりに胸が締め付けられてならない。

b0068787_1056234.jpg「永遠と一日」は、死を目前にした詩人の回想である。私にはこの作品が最も理解しがたかった。少年と老人がなぜ出会わなければならなかったのか――それは主要な登場人物の少なさゆえに浮き上がってくる疑問である。少年は、老人アレクサンドロスの一面だったのか、あるいは過去/言葉/理解/愛を思い至らせる呼び水であったのか?



老人は、家族の中でさえ言葉というかけ橋によってしかまれにつながることがない、と言う。永遠のものとなる過去。一日の回想の中で永遠に紡がれていく過去。亡き妻との関係――彼女とのかかわりが、彼に大切なことを教えてくれるようだ。「愛」とは、人の原点であるということ。しかし彼は、それを現実ではなく、過去の体験として振り返ったときにしか気づくことはない。となると、「明日の時の長さは?」(――この答えが、マリアによって“永遠と一日”と応えられる)とは、焦がれる程の時と待ちわびた人、そして過去の自分の姿をとらえようと切に願う人が発する言葉なのだろう。永遠に、永遠に彼は己の死の瞬間を広大な海に託したのかもしれない。
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by murkhasya-garva | 2009-01-28 10:56 | 映画