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by murkhasya-garva
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スカイ・クロラ(2008)

スカイ・クロラ(2008)_b0068787_1591056.jpg


思春期の姿のまま永遠に生き続ける子供“キルドレ”が兵士として参加する戦争が、ショーとしてテレビ中継される世界。キルドレのユーイチは、とある基地に戦闘機パイロットとして配属され、女性司令官のスイトと出会う。(MovieWalkerより引用)












解釈の方に意識が行って映画を楽しめなくなる、というのが私の悪い癖だ。そろそろ見直さなければいけない。「で、どう思ったの?」と聞かれた時に御託を並べる奴に話を聞きたいと思うだろうか?無理に考えようとすることに少々自己嫌悪を覚えて映画館を出るが、自分にも解釈一辺倒で映画を見ていた時期は確実にあった。その時に比べれば多少は変わったのかも知れない。今回は『解釈することに違和感を持った自分』というのを通して、改めて本作はいったいどんなものなのかを考えてみたい(・・・希望)。

原作を読んでいない者にはそれがなんのことやら、まああらすじでネタばれをしてはしょうがないのだけれど。本作を観て、きわめて無機質だが、そんな雰囲気が何かを押し隠しているのかもしれない、と思うのはもっと後半になってからだ。少なくとも初めの話の展開の見えなさ――飛行機に乗り、敵機を撃ち落とし、帰ってくる――には少々退屈さえ感じる。しかし、今思えば、その感覚自体が「スカイ・クロラ」の世界観に取り込まれている証拠なのかもしれない、とも思う。なぜなら、その世界にある登場人物も環境も何一つ変わろうとする意志を見せないものばかりだからである。一人ひとりの思惑は違えど、それは大同小異というやつで、前半は何度あくびをしたことか。つまらない、とさえ感じた。

しかし、その一方で観客である私は、「ここで語られているのはどういうことか」と思う。この疑問と同期して登場人物のルーチンな世界との関わりが見え始め、少しずつその“無機的”な世界は私の言葉に変換されて戻ってくる。

キルドレが子どもの姿のまま生き続けるという。…少なくとも、キルドレは子どもでいなければならない必然性があるのだろう。自分たちの活躍をテレビで放映されるのを見ても、ユーイチは何の感情も示さない。ただ、“ああ、そうなんだ”という程度の表情。自分たちのやっていることが実感の伴わないことなのか。また、スイトは自分たちを応援するという団体が見学に訪れるのを嫌がる。「だって、見学っていうの自体どうもね」とユダガワも言う。どういうことだろうか。彼らのやっていることは見世物である。そしてパイロット自身もそれを十分に気づいていると言える。(もちろん「ゲーム」と明言されている)。そして、途中で登場するティーチャーは大人である。しかも「絶対に倒せない」。つまり、このゲームの世界は、大人が子どもたちに上から与えるルールによって支配されているとも考えられる。

ここからが問題だ。この時点ではまだパイロットが子どもでいなければならない必然性はない。
 たとえば何らかの罪を犯した者が収監後に洗脳されてパイロットに仕立てられてもいいはずだ。しかし元犯罪者がパイロットになる、ということになると倫理上の問題が生じる。つまり、彼らの世界の外にいる人々と直接に責任問題がかかわってきてしまう。そうなると都合が悪い。見世物であるパイロットや戦闘は彼らの良心を痛めないものでなければならない。しかもそれは一般の人々にとって無自覚にクリアされる必要がある。パイロットが、外の人々にとっていわゆる道義的責任を負わない存在であるためには、パイロットの世界は純粋なものである必要がある・・・となると、パイロットはまず人々と同じ人間であってはならない。人間でない人間・・・ここでクローンという存在があてはまる。いちおう、一般大衆である外の人々にとっては、これさえクリアされていればいいはず。<パイロット=クローン>。
② ではパイロットが子どもである理由は?見学に来ていた応援団体も(恐らく)ユーイチが子どもであることに疑問を呈していなかったため、外の人々にとっても当然のことだと言える。となると、パイロットたちが住む世界の創造者に今度は疑問が向く。考えられるものをいくつか挙げよう。(1)創造者は「子どもは大人が支配するもの」と思っていた。(2)パイロットが子どもであれば、それを支配制圧する者が大人ということに、倒せないことの必然性を感じさせることが容易だと思っていた。

(ちょっとめんどくさくなってきた・・・)

少なくとも、ここには世代特有の感覚に基づいた世界がある。押し込められたような抑鬱的な世界。自分が何者かも分からず、ただ役割を与えられて働き続ける。スイトは、その「当然の構造」に穴をあけるように、子どもを作り、他のパイロットに影響を与える。与えられた役割が不確かな世代感覚。
また、ゲーム――鈴木光司のホラー三部作とも共通する。自分たちの世界が実は「つくられたもの」だったとしたら?あるブログではこう言っていた。「差別や下にみる視線は社会に構造化されていて、その構造をわたしたち大人は暗黙のうちに内部化し、フロイト風にいえば、「超自我化」させてしまうものだからです。そうしてみずからで、みずからの良識と判断を組み立てることによって、社会を成り立たせるわけです。」《Cool Culture Critics》  本作を「大人vs子供」と安易に構造化するのも気が引けるが、そういう見方がまずは頭に浮かぶ。世代的瞬間にしか現れない感覚を秩序化させるものとして、キルドレ達の世界が現れているのかもしれない。
by murkhasya-garva | 2008-11-13 15:10 | 映画