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by murkhasya-garva
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ダークマン(1990)

『ダークナイト』と、合わせて観たい『ダークマン』。575。駄句失礼。
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人口皮膚の研究をしている科学者のペイトン(リーアム・ニーソン)は、突然やってきた男達に痛めつけられる。研究所も爆破される。全身の40%に火傷(特に顔と手が重傷)を負ったペイトンは自分の研究機器をなんとかかき集めて人工皮膚マスクをつくる。そしてペイトンは、自分を襲った男達へひとりづつ復讐していく。やがて恋人のジュリー(フランシス・マクドーマンド)が、本性を現した敵の親玉に捕まる。ペイトンはジュリーを助けるために戦いを挑む。






この夏上映されたヒット作『ダークナイト』から、もう少しアメコミの実写を物色する気になり、目に留まったのが本作だった。タイトルが似ている…それだけの理由で借りたが、思った以上の面白さだった。ご都合主義な展開は抑えられ、主人公は何度も窮地に立たされる。所詮、超人的な力と衝動的な怒りという恐るべき武器を持った主人公・ペイトン=ダークマンでさえ、基本的には無力なんだということを見せつけてくれる。もちろん最後はダークマンの勝利で終わるが、爽快というには程遠い印象が残る。現実の社会に即した世界観、その導入されたリアリティは皮肉なことに、ヒーローものだというのに、ヒーローから一定の距離を取ったある種突き放したようなスタンスをもたらす。ファンタジーの世界から引きずりおろされたヒーローは、童心にかえることのできるような爽快感の代わりに、より私たち一般の人間に近いが故に重厚なメッセージを残してくれる。

また本作は恐らく、一部『ダークナイト』の下敷きになっている。年季の入った映画ファンならばすでに知っていることかもしれないが、ともかく驚きだった。

本作はラストで、ダークマンが彼の最後の敵を追い詰める。建造中のビルの先からルイス(コリン・フリールズ)の片足を持ってぶら下げ、今にも落とさんとする。「俺を殺せばお前はもっと悪に染まるぞ」とペイトン、もといダークマンを脅す。対して『ダークナイト』では、バットマンによってビルの端にぶら下げられたジョーカーは、バットマンに「お前も所詮俺がいなければただの狂人だ」みたいなことを言っていた。ヒーローにとって自分自身こそ実は悪なんだ、ということを突きつけられること―しかも「悪」の側の存在から―は、ある種の危険な“踏み越え”の瞬間であるように思われる。自身の正義を並々ならず信じている者だからこそである。結局、ダークマンもバットマンも結局世に容れられることなく闇に消える。“ダークマン”“ダークナイト”という名前は、それゆえに自分自身へのレッテルとなる。そうでしかあり得ないヒーローの存在・・・スーパーマンやスパイダーマンの世界のように、ヒーローに対して大手を広げて歓迎してくれる世界に彼らは生きていない。彼らには、悲しいまでにシビアな現実しか用意されてないのだ。

本来、現実社会にとって(スーパー)ヒーローなどというものは厄介な存在だ。社会の秩序から大きく逸脱し、まさに<自分=秩序、法>を体現しているようなもので、そんな身勝手な存在はヒーローどころか「異形の者」というレッテルを貼られてもおかしくはない。そういえば、『ハンコック』でも同様のことが示されていた。ハンコックは自分の隠れ家に『フランケンシュタイン』のチケットを持っていた。彼も、超人的な力を持つ者が社会の鼻つまみ者だということを自覚していたのだ。出る杭は打たれる、ではないが、<異形の者>に対する扱いは昔から変わっていない。超人的な力という“神に嘉された”能力を持ちながら必然的に世に受け入れられず、己の存在意義を問い続け、苦悩するヒーローの存在のほうが、親近感もわいてくるというものだ。

渋いぜ、ダークマン。2作目も一瞬見たくなったが、たぶん別モノのような気がするのでやめておこう。傑作の第2作なら、もっと有名になっているはず。
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by murkhasya-garva | 2008-09-24 23:32 | 映画