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by murkhasya-garva
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イースタン・プロミス(2007)

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ヴィゴ・モーテンセンがかっこいい。かっこよすぎる。デヴィッド・クローネンバーグ監督による前作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」を観て以来、あの世界をもう一回観てみたい、といつもどこかで思っていた。京都シネマでは今日が最終上映日。昨日偶然にそれを知り、朝一で見に行った次第。



本作『イースタン・プロミス』を見るにあたり私にとって重要であったのは、“感情移入”に関して。どこまで自分がこの作品にのめりこめるか、が重要だと感じた。そう感じたのは突然だった。<法の泥棒>のトップであるセミオン(アーミン・ミューラー=スタール)が身内の老女の100歳を祝っている場面。テーブルの周りを歌い手が回り、朗々と故郷の歌を歌う。汚れ仕事が目立つマフィアの世界で、場違いと思えるほどの和やかさ。セミオンも途中から大きなピンクのケーキを老女の前に置き、その傍で歌の指揮をするように手を振る。突然に、しかし当然のように訪れる凄惨な場面がこの作品の特徴なだけに、この場はまったくその予感を抱かせない、唯一の安寧のスポットだともいえる。

もともと私は映画に用いられる音楽が好きだ。特に、人の口から迸り出る音が、その人の魂だけではなく、作品の魂とも言うべきものを大きく揺さぶるように感じられる。私にとってそれは、ありていに言えばカタルシスの契機となり、涙腺が思わず緩むことも少なくない。誕生日を祝う喜びの場。私は一瞬そこに釘付けになった。やっと自分の日常感覚を寄せられる場面が来た、と感じた。しかし、一方で自分がそれまでになぜそれを感じなかったのか、と不思議に思う。もちろん答えは簡単だ。殺し、掟、つまりマフィアの世界に描かれる世界は、どこまでリアルであったとしても自分にとっては未知の世界だからだ。では、歌を歌われるシーンのように、人の感情が湧きあがる瞬間が自分にとって最も分かりやすい形であれば、その作品は“傑作”と銘打たれるのか、そんな単純なものなのか?深刻に悩むほどのものではなかったが、そのシーンはいくつもの思いがよぎったことで私に強い印象が残されている。

『イースタン・プロミス』は、ロンドンを舞台にしたマフィアの醜聞をめぐる話である。まったく別世界の出来事――理解を越えることばかりだ。何の予感も感じさせないような平和なときに、突然自分ののどぶえを後ろから搔き切られるなんて想像できるわけがない。しかし辛うじてこの作品に心寄せられるとすれば、助産婦のアンナ(ナオミ・ワッツ)のおかげだと思う。彼女は「普通の人々」でありながら最も<法の泥棒>に近づいた人物である。彼女が彼らに近づいたからこそ、何が違い、何が理解できないのかが分かる。彼らがアンナに紳士的に近づく程に、その違和感も匂い立ってくる。もう一人の主人公、ニコライにだって、最も入り込めたと思ったのはラストのたったワンシーンだけで、他の云々はアンナに感化されたとは到底思えない。彼には彼なりの目的があり、たまたまアンナと出会ったことで彼が人道的に見えたというだけだろう。しかしその彼なりの考え方が多少なりとも見えるおかげで、ロシアン・マフィアとは異なったニコライの「人となり」、彼の孤独や強さがほの見えるような気がする。

やはり何といってもヴィゴ・モーテンセンのガシッとした役柄はたまらなく好きだ。『ヒストリー・オブ・バイオレンス』でもそうだったが、彼の感情を殺した時の行動が底の知れない固さ強さを醸し出している。デヴィッド・クローネンバーグはこういう作品をもっと作ってほしい。とりあえず「裏切りの闇で眠れ」も観損ねているので、ノワール映画をあさることにしよう。
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by murkhasya-garva | 2008-08-15 17:04 | 映画