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by murkhasya-garva
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ナコイカッツィ

「ナコイカッツィ」(2002)
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3年前にみなみ会館で見たんですが、20分で見事に沈没。今回なんとかリベンジを果たし、やっぱりすげえなあ、レビューも一気に書いたれ、と。もう悲しくなるほど長ったらしいですが言いたいのはそんな大したことでもないです。ポイントは色付けしてます。






映像詩とも言うべき作品。作中においてセリフは一切用いられず、音楽と共に断片的な映像が連続的につながっていく。そこに固定的な解釈、所与の意味は存在しない。”as the Divine”、すなわち神、啓示としての映像と監督が述べるように、人間生命に対しての象徴的なイメージを提供する極めて豊かな場である。こういった予めイメージを定めず、観客にその判断を委ねられる作品は時に、難解で、独りよがりで、エンターテインメントの資質のない、観客と向き合う努力を怠った、と痛罵を浴びることがある。しかしこの作品において、同様のコメントを吐く者は今一度自分自身を見つめなおすべきではないだろうか。ゴッドフリー・レジオ監督やスティーブン・ソダーバーグらは作品について、本作への多様な解釈を観客に提供し、新たな可能性、映像の限界を見つめる作品だとも述べている。それを分かった上で先の批判をする者はさすがにいないだろうが、仮に居るとしたらそれは明らかな同語反復、思考停止、果てはそう言う者が自身の言説に酔い痴れ、囚われていることを明らかにするかもしれない。加えてそもそも作品の否定的な評価について常に私が感じていることでもあるが、こういった製作者の声を聞くことなく無闇に自身の論こそ真理、またはその一端を握っていると信じて疑わないような評者の姿勢に非常に疑問を抱かざるを得ない。それはいくら論理的に主張したところでその根底が極私的な印象に基づく自己満足でしかないからであり、いくら胸を張ったところで作品に対する多様で相対的な反応のひとつにしか過ぎないからだ。単に、自身の「評論」と銘打つ言葉の連なりが、あくまで相対的で選択的立場に晒されているという脆弱性を負うことを自覚するのが、おそらくこの問題解決の端緒となるのだろうが、しかし客観的な言葉をもって一般的な真理を装う文章や知名度の高い者が述べる言葉は、どうしてもこれを脱することが困難となりうる。前者は真理の擬態、後者は政治的権力がその理由に挙げられる。一介の視聴者でしかない以上、評者はまず製作者の意図を尊重することが、最低限のマナーとして主張されるべきではないだろうか。

ともかく、一切のセリフを排した本作品は特異な印象を持たせる。CG映像や実際の映像を加工したものが連続したイメージとして提供される。それは作者の安易で断片的または直接的な単なる連想ゲームと違い、ある程度の跳躍がある。それは各々のイメージの連続が俯瞰的に一貫したテーマを持っているからであり、これは同時に豊かな副次的イメージを併せ持つ結果を生む。DVDでは各章ごとに副タイトルが与えられているため、これと自身の理解を突き合わせてみるのも面白い。本作を通して映し出される映像の共通点は現実世界における特定の事物、事象ではなく、自然風景など社会的匿名性の高い、比較的抽象的なイメージがほとんどだが、これらの映像は多くの意義を持っているように思う。それはまず伝統的思想体系やニューエイジといった、特定の政治思想や既存の倫理観から述べられているのではないこと。作品自体そのタイトルにアメリカンインディアンのホピ族の言葉という、現代の人間社会とは隔離した超越的な視点によって――「装う」という言葉によって人為の謗りをも免れ得ないが――抽象的な映像=イメージを通じて人間の本質と思われる姿をあぶりだしている。テーマは人間の本質をその現象に反対しているというより、むしろ『警告』としての意味合いが強いからである。これは内容からも自明のこと。また同次元、同方向からのメッセージというわけでもない。テクノロジーが発達した今、人間社会は闘争状態に置かれるという。その人間はカメラ越しにその姿がただ映されるのではなく、まさにこの映像を見ている我々もその対象となる。

さまざまな解釈を許すこの映像群は、その一見して難解な外見からはゴダールの、例えば「アワー・ミュージック」に似る。ゴダールはセリフや撮影技術や章構成に見られるその実験的手法によって意味の多層性を意図的に構築する。しかしレジオ監督の「ナコイカッツィ」は、その純粋に映像と音楽により“開かれた意味”を模索する。ここでは鑑賞者だけでなく制作者すらも模索している。普段なら常置されている明確なメッセージがないために、観客はある種の恐慌状態に陥り「分らない、難解だ」とつぶやくかもしれない。しかし文明化した人間社会を生々しく描きだしたという点では、現実世界からこの問題を読み取るよりもよほど明らかだ。ナコイカッツィ=闘争状態の生命としての世界。これとの直面は現代人に課せられた務めだとも言える。現実世界のイメージを再配置する(ことを促す)ための作品とレジオ監督は言う(これこそラカンのいう三界の関係を明らかに表すものではないか)。一人ひとりがこの映像作品を通じ、物事に含まれる“意味の多様性”という可能性やその限界に触れ、自身の現在と未来にとって最適な選択をすることが重要なのである。

徹底した沈黙が呼び起こす雄弁。先に私は、批判者が口にするかもしれない批判をあげつらったが、「ナコイカッツィ」はあらゆる人々の言葉をも容認する。果実としてではなく、いわば土壌としての作品性を持つ映画。まずはこの作品に直面しよう。
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by murkhasya-garva | 2007-08-13 19:27 | 映画