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by murkhasya-garva
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カフカの「城」

「カフカの『城』」(1997)
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ミヒャエル・ハネケ映画祭@京都みなみ会館。これだけ観に10分前に来たら、前回の「バッシング」で小林政広監督がアフタートークで20分弱オーバー。むちゃくちゃうらやましい。観にいけばよかった。




さて本作、カフカの未完の大作を映画化したものです。なぜか開始20分くらいで睡魔に襲われる。危険を察して身を乗り出して観ていたら、今度は頭がうつむいていた。睡眠障害か?とか心配しながら、一応しっかり観ていたのですが・・・途中で寝ていても問題ないのではないか、とふと思ってしまいました。
ラストも、「ええっこれで終わり??」な切れ方。原作に忠実、なんですけど…。

恐らく、この作品はあの辺で終わるべき作品だったのです。未完とはいえ原作も大変有名ですし、あのハネケ監督の映画化も、この未完としての事切れかたを受け入れたという証拠です。第一、あんなに延々と城の外でほぼ同じことをされ、そして今後もあのテンションが続くと思うと、中断されて何の名残惜しさもありません。

ともかく、未完のままにしたのは、それ以上語るべき必要がない、そして未完という終わり方自体に意味がある、という2つが思いつきます。つまりあのまま続けば蛇足でしかなく、トートロジーに陥る恐れがある。また読者もこれ以降は想像できるだろう、という見通しもあったのかもしれません。
さらには、カフカの物語の本質上、未完であるしかなかったという見方もあるようです。

そんな不思議な作品の中で、ハネケ監督は何を言おうとしたのでしょうか。
作中では、ある村の中で主人公のKが城にたどり着こうとうろうろし続けます。その中で、村人たちとのやり取りが行われるわけです。もしこの作品でテーマが明確に主張されるのなら、その言葉たちは全て語りつくされているはずです。しかし、未完と言う語りの中での終わらないやり取りからは、テーマの骨子と言うより、テーマの現象面を語っているだけでしかありません。

城の測量技師としてやってきたKは、村人から歓迎されないばかりか、城からも必要とされません。外から来たKは、彼なりの尊大さや分別臭さも手伝って、村人が従う城のルールや不可解な状況を理解できないでいます。村人たちが従う城という存在も、彼らの頭上にそびえるだけでその正体は漠然としています。しかし、村人たち自身は、同じ人間同士だと思える人間らしさをも兼ね揃えています。
持て余されたKは、その中で精神的孤独を抱え、酒場の女給とデキてしまったり・・・。

その淡々とした表現の中に、城という“虚像”が起こす不条理さに、一人迷い続けるKの姿が浮き上がります。まるでたちの悪い夢を見ているようでもありますが、これはもっとリアルなものです。異端者としてのKは、自分が身を置く社会構造に気付いてしまった者の宿命を描いているのではないでしょうか。違和感を持ちながらも、その奇妙なルールに次第に順応していくKの姿は、現代を生きる人々にもリンクしてくるような気がします。

内容や環境の寒々とした描写は、まるでタルコフスキーの「ストーカー」といったロシア映画の世界観と重なります。それにハネケ監督の、観客を放り出すようなスタンスが入ると、ただ観ている側としては戸惑ってしまいます。好きこのんで観るようなものではありませんが、噛めば噛むほど不気味さを増す作風は、病み付きになるのに充分な魅力を持っています。
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by murkhasya-garva | 2006-09-14 02:27 | 映画