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by murkhasya-garva
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ジョン・ケージ

「ジョン・ケージ」(1992)
b0068787_14545990.jpg現代音楽家ジョン・ケージの人物像を追ったドキュメンタリーと、彼の作品の演奏との2部構成の作品。ピアノの弦にボルトやナット、ゴムなどを挟んで弾くことで、ピアノ本来の音色を変えてしまうケージの傑作発明のプリペアド・ピアノや、様々な非楽器を使用した演奏の貴重な映像を見ることができる。
8月31日、シネ・ヌーヴォXにて鑑賞。


メジャー、マイナーを問わず様々な映画を観ていると、時に「理解が困難な」作品に出会うことがあります。映されている対象のメッセージが、自分では理解できない…それを、表現力が下手で分からない場合と、表現者の意図が走り過ぎて付いていけない場合に、大まかに分けてみます。
とすると、本作―特に後半の演奏―は、後者だと言えるでしょう。

「偶然性」という大きな問題を相手にケージが作った曲は、従来の音楽とは似ても似つかぬもの。しかし今や、彼の功績は国際的にも評価が高い。“易”や“禅”の思想を取り入れ、構造化を図った彼の音楽を理解するに当たって、その背景を理解せずに評価する訳にはいきません。むろん、個人的な感想で好き嫌いを述べるのは自由ですが…。

ただ、「理解する」といっても、ただの野次馬が手軽に分かるようなものではありません。そこで、ここでは本編のドキュメンタリー、そして演奏シーンから、「彼は何をしようとしたのか?」を推測することで、理解の手掛かりをつかんでいきたいと思います。ちなみに演奏された2曲のタイトルは忘れました。

一見、普通の室内楽の体裁をとっています。しかし発せられる音は、様々な部分を引っかき、こすった時に出る音など。楽器を一つの道具としているようにしか見えません。楽器以外にもばね、ゼンマイ式のオモチャといった小道具でも「音」を作り出しています。その正面で指揮者は、大真面目に、しかしデタラメにも見える指揮をし、果てには両手で時間を刻みだします…。

まず、「どこまで偶然性を許しているのか?」という疑問。奏者は譜面と指揮者に従って、楽器を道具代わりに多様な音を出します。その多様さからは、逆にそれぞれの奏法まで指定されているように感じます。「奏者の主観的な解釈を許さない」という言葉や、ケージがコインによって偶然の音楽を導き出したという事実から、どうやら、「偶然性」とは曲の構成にのみ、用いられたことだと考えられます。
それに、奏者が「適当に演奏する」こと自体、既に「意図的」な要素を含んでしまいます。

2曲目ではスコアすら存在せず、各パートが定められた時間に何らかの方法で音を発します。指揮者は両手を使って時計代わりとなります。このことで、指揮者の意図さえも消し去り、楽譜の偶然性により忠実に従うことが可能です。

ここで、クラシック音楽とは程遠い「音の出し方」から、「奏者に技術は必要ないのか?」という疑問が現れます。譜面に記されたのを厳密に再現するためには、相応の努力が必要でしょうから、技術は確実に必要になります。
しかし、この疑問でより根深いのは、「ではそれらの技法を維持するのに、クラシックの演奏でもしているのか」という問いです。まずクラシック有りき、という思考からは、現代音楽を下位のものだと捕らえがちではないでしょうか。確かに室内楽の姿をしてはいますが、プリペアド・ピアノをはじめ全ての楽器は、まるで別の道具のように扱われます。ケージの試みた音楽は、クラシックとはまったく別次元の音楽だとするべきでしょう。

彼の曲では、「′4″33」が有名だそうです。全くの無音の世界。ジョン・ケージは現代の音楽界に多大な影響を与えました。可能性の極北へ切り込んだ彼の音楽は、理解するのにまだまだ相当の努力が必要になりそうです。食わず嫌いしている場合じゃない。
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by murkhasya-garva | 2006-09-03 14:56 | 映画