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by murkhasya-garva
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ゲルマニウムの夜

「ゲルマニウムの夜」(2005)
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4月に東京へ行った本来の目的はこれを観たかったがためなのです。今回東北まで行く用があったので、その帰りに2回目を…。
大森立嗣監督、新井浩文主演の問題作。昨年度は映画祭で無冠だったものの大きな反響を呼び、キネマ旬報では年間ベスト10に入る。
原作は花村萬月の芥川賞受賞作。

1回、2回と重ねるにつれて印象が大きく変わってくることを痛感した作品だった。
3ヶ月前には、性と暴力に彩られ、露悪的にすら感じられる作品としか理解できなかった。修道会の中でひたすらに悪徳を尽くす朧(新井浩文)の姿が目に付き、居心地の悪さすら感じていた。何故ここまでやる必要があるのか・・・と。原作でその背景は分かっていたはずなのに、いざ映像で見ると、ここまで理解できなくなるものなのか。

原作に心酔していたぼくにとって、頭に焼き付いていたイメージは、汚れた黄色。犬のシロの汚れ、排泄物の色、泥に汚れた肌とのからみ合い、聖職者の隠された性的な部分。たぶん「汚れた黄色」とは剥き出しになった「生」そのものなのだろう。その「生」の中に宗教的なイメージが通底していたことを知ったとき、神々しさに身の毛のよだつような感覚を味わったものだ。

2度目は原作の内容をほとんど忘れて臨んだのが良かったのかもしれない。今まで抱いていた印象を捨て、直接に映像から語られるものを受け取ろうとした。すると、スクリーンの中の人々の息づかいがいっそう鮮明に感じられるのだった。もちろん俳優の方々の演技が迫真であったということもある。

「先生も神も無力です。犯罪者であるぼくを罰して下さらない」
浄罪神父を慕い、しかし同時にキリスト教の無力を嘲り、唾する。彼の行為は、確かにキリスト教者にあるまじきやり方ではあるものの、その実はひたすらに神を、永遠の神を求めるものであるように思えてならない。

奔放な神の子は、修道会で神の王国を作ろうとする。アスピラントを犯し、シスターを身ごもらせる。アスピラントの教子はマグダラのマリアに、シスターテレジアは聖母マリアに姿が重なって見える。
シスターテレジアを犯そうとする姿に思わず涙してしまった。これを単なる背徳や非常識と切り捨てられるだろうか。これは、彼の求道者とも言うべき徹底振り、純粋さが現れたシーンだ。強姦という行為であれ、彼は少しずつ神のそばに近づいてゆく。宗教の脆さが言われる現在、自己の内面に永遠性を獲得できる人間は少ない。その中での朧の姿は、本当にうらやましくさえ感じられる。

「みな犬になりたい」。そのことを直感的にとらえ、着実に足場を広げる朧。彼はキリスト教に関わる者、いやすべての人間が持つ感覚を、性と暴力によって見事にえぐり出す。彼に従う者、自分が「犬」であることを知り、死を願う者。彼は周りの人々を挑発するだけでなく、自分の中の「犬」さえも見出してしまう。
小宮神父(原作ではドン・セルベラ)は最もこっけいな存在だ。周りの者を「犬」として扱える立場にありながら、いともたやすく自ら「犬」になり下がってしまう。ラストシーンの彼の姿は強烈である。寓話的で、社会批判とも映る光景である。

大森監督がインタビューでも述べていたように、この作品は「生」を肯定して映したものである。一般に控えられる表現をあえて行う。もちろん露悪的な行為などではない。そうしなければこの作品を語りえないからだ。徹底された暴力、性の描写でこそ、表現できる「剥き出しの生」や「聖性」がある。
改めて思うが、原作者の花村氏や大森監督は本当にすごい作品を作ったものだ。

上映は8月15日まで。出来るだけ多くの人がこの作品を観て、何かを感じ取ってほしい。
最終日にはもう一度行ってみたい。関係者の方々の声がナマで聞けるかもしれない。
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by murkhasya-garva | 2006-07-09 23:49 | 映画