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by murkhasya-garva
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街の灯

「街の灯」(1931)
b0068787_1016913.jpgさる5月17日、かねてから楽しみにしていたチャップリンの名作「街の灯」が京都会館にて上映されました。この「オーケストラ・ライブ・シネマ」の第二回目となる企画、作品中の音楽を本物のオーケストラによって演奏しようという何とも贅沢なもの。京都市交響楽団が齊藤一郎氏を指揮者に見事な演奏を行ってくれました。





時は不景気のまっただなか。浮浪者のチャーリーは、街角で花を売る盲目の貧しい娘に出会った。花を一輪買った彼は金持ちの紳士と誤解されてしまう。彼はその貧しさから娘を救おうとして金策に走ることになるが・・・

チャップリンといえば知らない人はいないほどの名優であり、この「街の灯」もチャップリンの作品中で傑作中の傑作といわれる作品だそうです。実は救いがたいことにぼくは彼の作品を1本も観たことがないのです。初鑑賞がこんな極上の体験になるなんて全くもって幸福この上ありません。

熱烈なファンが付いているこの作品と名優チャップリンにケチをつけようとは微塵も思いません。実際に観てみて、その質の高さ、素晴らしさに感涙を抑えられなかったほどです。繰り広げられる極上のコメディに腹を抱えて笑い、同時にこんな素晴らしい作品があったことに感激して涙で息が詰まりそうになる、まさに「泣き笑い」。

内容に関しては、社会から遊離した浮浪者、チャーリーをめぐって話が展開します。
登場する盲目の娘と金落ちの男は、実はとても対照的な存在であるようです。盲目であるにせよ酔っているにせよ、2人とも現実が「見えて」いない点では同じであり、その間はチャーリーの温かみを感じることができます。しかし、目が覚めて/開いてしまうと「浮浪者」というレッテルが目に入り、チャーリーの価値は地に落ちてしまうのです。また他のシーンでも同様に、貧富のギャップが随所で見事に表現されます。
この作品は心の豊かさを主題にすると同時に、現実世界に巣食う「貧富」の深刻さを露骨に描写しているようです。しかしこれを笑って飛ばせる作品に仕立てたところに、チャップリンの上手さが感じられます。

一番好きなのがボクシングのシーンです。早回しでテンポ良く繰り出されるギャグ。繰り返し行われるネタ。ギャグの伏線が明らかであり何が起きるか分かりきっているのに、何度も何度も笑ってしまう。この種類の笑いは吉本新喜劇に似ている、と一緒に行った方はコメントしていました。

古典とも呼ばれる作品の大半が、なぜ現在に至るまで惜しみない賞賛を受けているのでしょうか。そもそもこの作品自体がサイレント映画という限定された環境で、必然的に音楽も後付けされざるを得ないものだったはずです。技術で言えば現代のほうが遥かに上であり、一見現代のほうがより質の高い作品を作れそうなはずなのに。

しかしこの作品を観ていると、ある考えが浮かんできます。限定された状況だからこそ、求められる質は逆に高くなるのではないか、と。極限まで削られた言葉。それに対してパントマイム役者であるチャップリンの、万人に理解を呼ぶパフォーマンス。誰にでも分かるギャグ。映像と音楽の絶妙なマッチング。よく見ると細かな動作さえもが音楽のテンポにあっているのです。

1930年代前後はトーキー(有声)映画が徐々に普及していた時期だったのに、あえてサイレント映画を選択したところにチャップリンの何らかの意図を感じます。彼はこう語ります(孫引きですが)。
「それに、元々私はパントマイム役者だった。その限りでは誰にも出来ないものを持っていたつもりだし、心にもない謙遜など抜きにして言えば、名人というくらいの自信はあった」
「第一に、無声映画は全世界に通ずる表現形式である。トーキーは、どうしても領域が限られる。ある民族のある言語に縛られる」

進歩した技術が作品の幅を限定してしまう、そう確信していた彼は自分の表現力を信じ、最高の作品を世に送り出したのです。最も普遍性が高く、万人の共感を呼ぶ要素を持った作品を。そこには彼の天才性を感じざるを得ません。

未見の人は、必ず観るべき作品です。この作品に、現在までのコメディの原点が凝縮されているといっても過言ではありません。保証したっていい。
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by murkhasya-garva | 2006-05-22 10:16 | 映画