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by murkhasya-garva
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ガッジョ・ディーロ

「ガッジョ・ディーロ」
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「ガッジョ・ディーロ」とはよそ者の意。亡き父の敬愛していた演奏家をさがしてロマの村に迷い込んだ青年の視点から、村人の生活を肉薄して描いている。ロマ民族に根付く意識が、「迫害」を基調に生々しく伝わる印象的な作品。


前回挙げた「僕のスウィング」を手がけたトニー・ガトリフがこの作品の監督も行っています。時代の流れで独自の文化を失いつつあるロマ民族に危機意識をもち、彼らの現実を映し出します。「スウィング」では異文化の出会いがテーマであったように思うのですが、今回は主人公の背負う文化が殆ど問題にされていない。代わりに、ロマの実情を一青年である「よそ者」を通じて濃密に描いているのです。

ステファンにとっては図らずもロマの社会に飛び込んでしまったようなもの。言葉も通じず、慣習も異なる人々の姿が、前半はユーモラスに映ります。例えば村に迷い込んだ彼と酒を酌み交わした老人、イジドールの気さくな雰囲気は、観客にとってもそれ以降の印象を和んだものにしてくれるでしょう。もっとも、イジドールをはじめ彼らの奏でる音楽は陽気で、見ているこちらの体が動きそうになる。

言葉が通じなくてもお節介なくらい面倒を見てくれる老人のおかげで、彼は当初の目的、ノラ・ルカを探すことよりも「ロマの人々を知りたい」という思いのほうが強まります。それだけ周りの人々はイジドールをはじめ友好的で、協力的。彼もサビーナとの仲を通じて、より「村の人間」に近づいていくのですが…。

やはり余所者(よそもの)はロマにとって余所者でしかないのです。最後の事件は見事に彼と村との断絶を決定付けます。もしかしてロマの女としてのサビーナも、実は彼と同様に余所者だったのかも知れません。それは、裸で雑木林を駆けてゆく2人が、ロマという文化と遠ざかり、個人の関係に還元されたことを象徴しているのかも知れないからです。

結局は土着の民でなければ民族性は保つことは出来ないのでしょうか。サビーナがどれだけ後悔しても村は元の姿にはならないのです。同様に、村の声を録音したステファンも、文化の伝承というのがどういうことなのかを知ったからこそ、テープを壊したのだろう。

また、イジドールの存在も象徴的です。彼こそがロマ文化であり、ロマの昔からの姿を現しているようです。次世代を担う者を異文化圏の人間に奪われ、次世代を作る機会も得られない。自分の息子が異文化社会を敵視し、結局は伝統を守ることすらもかなわない、というあまりに苦しい状況はまさに現在のロマと重なるところが大きいのではないか、と思います。

彼らの生活、そしてそこに横たわるロマ文化に対して、ステファンはどうすればよかったのか。ラストで彼がとる行動は、「よそ者」の最善の選択だったのかもしれません。いくら有形的に残そうとも、人々の心にジプシーの文化が刻まれなければ、文化を継承することは出来ない。監督であるトニー・ガトリフの描く文化観は、私たちにとっても人ごとではありません。

青年の視点を通じて描かれたロマ民族の実情。「僕のスウィング」の後は、この作品もぜひ観てもらいたいものです。
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by murkhasya-garva | 2006-03-03 16:37 | 映画