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by murkhasya-garva
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『去年マリエンバートで』、『ヒロシマモナムール』

現在、アラン・レネの2作品が京都みなみ会館で上映されている。『ヒロシマモナムール 二十四時間の情事』は5/24-30、『去年マリエンバートで』(HDニューリマスター版)は5/22-6/4。

今回は、2作品併せて感想を書くことにしよう。いずれも筋書きを追うには情感的で、無理にストーリーが云々というような言い方にこだわると、多くの要素を見失ってしまいそうな気分になってしまう。特に『去年~』は、以前蓮實重彦がどこかで論じていたのを思い出す。彼の文体は、今思えば非常に情感的で、論理立てることよりも自身が感じ取ったことを描写し尽くすことに重きを置いていたような気がする。少なくともこの作品に限って言えば、そのアプローチは正解だったのかもしれない。というよりも、アラン・レネの両作品が、情感という者に対して強いこだわりを持って作られていた、と言った方がよいのだろう。


『ヒロシマモナムール 二十四時間の情事』(1959)
b0068787_0123749.jpgいずれにせよ、一つずついこう。まずは『ヒロシマモナムール』について。広島のホテルの一室で、日本人男性とフランス人女性が肌を重ね合わせている。まさかこんなところで出会うなんて。あなたは私を殺し、幸せにする。また、彼女は続ける。私は見た、広島の姿を。しかし男性はこれに対して否定を重ねる。いや、あなたは何も見ていない。


何度も同じ文言を連ねて交わされるお互いの声は、詩句のようにも思える。しだいに、同じ言葉――たとえば「あなたは見ていない」という返答――は、異なる意味を持って響いてくる。

ヒロシマ、という場所は、世界大戦の終結を示す衝撃的な出来事が刻まれた記念碑的な意味をもって捉えられている。それは日本人だけではなく、少なくともフランス人にもだ。あの悲劇を忘れてはならない、と。女は、作中でこの出来事を恋愛に喩える。それは、自らのからだに刻みつけられるような衝撃そのものとして。しかし、その狂気にも似た出来事さえも我々は忘れ去ってしまう。無関心と忘却という形で。では、我々はどのようにしてゆけばよいのか?男女は途方もない言葉を交わし、少しずつこの問いへの答えを了解し合っていく。この答えに近づくヒントは、最後の会話に添えられている。あなたの名前はヒロシマ。君の名前はヌヴェール。

それまでお互いに名を呼び合うこともなかった2人が、最後にお互いを地名で呼び合うのだ。それぞれの地は、それぞれにとって馴染み深い場所だ。女にとってヌヴェールは青春時代を過ごし、もっとも狂気に近づいた場所。男にとってヒロシマは日本人としての位置付けを決定的なものとした場所として。しかし間違ってはならないのが、それぞれの地名を本人が自らに付けたのではないという点だ。ヌヴェールは男にとっての彼女の姿であり、ヒロシマは女にとっての彼の姿なのだ。どちらも、「あなた」という存在を忘れないため、単なる対象として風化してしまわないよう、記憶は幾重にもイメージとして重なり、それによって希薄だった出会いという出来事、時代という出来事、そして事件という出来事が、強烈に引き寄せられて血肉をもって現れるのだ。

反戦の意を込めて本作は作られた、と言ってもよいのだろう。ヒロシマという場で、愛が交わされ、その在り方を真摯に問うという作品が出来上がったことだけでも、本作は覚えておかれる意義があるのかもしれない。


『去年マリエンバートで』(1961)
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次は『去年マリエンバートで』について。壮麗なバロック建築の建物で、人々は休暇を過ごしている。観劇、ゲーム、そしてお互いの会話を楽しみながら、時間が過ぎてゆく。その中で、2人の男女が語りあう。去年、あなたとここで出会い、駆け落ちするという約束をした。しかしあなたは1年待ってほしいと言ったではないか。女は覚えていない、そんなことは言っていない、と言い張る。男が偽っているのか、女が本当に覚えていないのか、最後まで会話が絡み続けていく。






かつて記憶に関して新しい視点を提示したのはプルーストだと言われているが、本作もまたその影響を受けているのかもしれない。そこまでプルーストについて知っているわけではないので、カジリだけ盛り込んでおこう。要は記憶の中で現実は作りかえられていく――「円熟する」ということを述べた人だ。本作でも同じ一連のせりふが繰り返し朗読される(はじめの部分だ)。また、断片的に挿入された言葉が、不意に誰かの口を借りて新たな意味を持って語られることもある。そして、男女の語らいの中でも、男の主張は何度も繰り返される。男が語る内容は少しずつ映像化されてゆくのだが、そこには何らかの改変かなされていく。別に、男がウソを意図的に盛り込んでいるわけではないようだ。しかし、それを聞いている彼女にとってその情景はしだいに変化してゆき、ついには彼女をパニックに陥らせるにまで至る。しかし、私が本作を見ていて感じた点がここに一つある。当り前のことなのだが、これは犯人探しの物語なんかではない、ということだ。つい、あの奇妙に細長い顔をした不気味な目つきの男が裏で糸を引いているのでは、などと疑ってしまいそうになる。そうではない。ごく丁寧に積み重ねられた言葉の中で、人は自身の現実を少しずつ変容させていく、という体験的な面にこそ本作には視点を向けて見るべきなのだ、と思う。

この作品で思い出されるのは、ゴダールのあの奇妙な音楽の断ち切り方や、『マルホランド・ドライブ』で登場した泣き女のシーンだ。現実がまるで作りもののように、当然のように思われていた流れを止め、突然立ち止まる。人々は彫像のように美しく、微動だにしない。美しさと奇妙さが同時に湧き立ってくる数々の場面は、とくに本作を思い出すときによみがえってくる。

考えてみれば、いずれも男女の愛を主題としたものなのだ。ただ、それぞれは変奏のなされ方が異なっており、アラン・レネの真意はさまざまな姿を取って表されている。恐らく『去年マリエンバードで』のほうが、より抽象的という点で複雑に要素が絡み合っているように思われる。これまでに数多くの映画評論家たちが語り尽くしてきたのだろう。いずれもが正しく、いずれかが正解というわけではない。それらを総合したものがこの作品たちの姿だとくらいに思ってもう一度観てみると、より面白みが増してくるのではないだろうか。
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by murkhasya-garva | 2010-05-31 00:17 | 映画