愛のむきだし
2010年 05月 06日
最近観た映画の一つ。別媒体での(自分の)文章を部分的に改変、転用。横着して本当にすみません。
愛のむきだし(2008)
敬虔なクリスチャンの家庭に育ったユウは、ある出来事を境に神父の父に懺悔を強要され始める。父の期待に応えようと、懺悔のために毎日罪作りに励むうちに罪作りはエスカレートし、いつしかユウは女性ばかり狙う盗撮魔となっていた。そんなある日、運命の女ヨーコと出会い、生まれて初めて恋に落ちるが…。
この作品を今まで見ていなかったことに心から後悔している。なんという映画。あまりに濃密で、あまりに情感的。薄められた空気から匂いたつ、そのしじまのような、たとえばフランスの伝統的な、愛についての作品であったり、それに類した最近の作品群とは質を異にしている。そう、映画とは「作る」ものだったのだ。写実派とは一線を画すスタンスで、園子音監督は本作を生み出した。セリフが、まさに太い釘のように容赦なく突き刺さってくる。前半はエンタテインメント、後半が社会への主張。なんとまっすぐな言葉を投げつけるのか。まっすぐに言葉を投げつける術すら、我々のほとんどは知らない。彼は登場人物を演じる人々に渾身の演技を求め、作品へと向かわせる。彼らの体から、口からほとばしるエネルギーの塊は、狙いを定めて振り下ろされたハンマーのようにこちらへ向かい、そして私はさんざんに打ちのめされる。
本編では新約聖書の「コリント人への第1の手紙」13章があげられる。この詩句は私の最も愛する作品、クシシュトフ・キェシロフスキの『トリコロール 青の愛』でも歌詞にされている。ヨーコ(満島ひかり)はユウ(西島隆弘)に向かってそれを一気に謳うのだが、その向かう先に居るのは、実は観客/私であった。彼女の見開いた強い瞳に気圧されて涙があふれる。
思うに、彼の作品は緻密に計算されて作られているのだな、と感心してしまう。ほとばしるエネルギーを込め、食傷にならぬよう細かな配慮によって237分が刻み通される。この長さで、私は何度も観たいと、即座に感じた。多くの作品では、もし2度目を観ることがあっても前半で気が萎えてしまう。園監督は、複数の視点から出来事を思わぬ切り口で数回にわたって映し出す。登場人物のそれぞれに物語、ドラマがあり、ある種の深淵をそれぞれが持つところまで描き出す。ゆえに作品は作品としての魅力、リアリティを帯びるのであり、同時に作品としての分析的関心をも呼ぶことになる。そこでは明らかな演出さえも違和感なく、その場を作り出す効果的なツールとして役割を発揮する。役者の力もまた、そこに貢献しているのだろう。
ありていなリアクションではあるが、ユウが初めてサソリとしてヨーコに出会ったときに口をパクパクさせる。このコメディかリアリティか、というギリギリのバランス感覚は素晴らしい。このバランスが全編通して貫かれているからこそ、面白いのだ。何度観ても飽きない作品は、不思議な魔力を持っている。『愛のむきだし』という「作品」――この映画にこそ与えられるべき呼び名――は、脱会者のための手引きとして、まさにバイブルとして片手に持たれるべきである。
しかしどうしても、この年になると作中のメッセージや設定に共感したり、反発したりする度合いが強くなる。自身の考えが妙に固まってしまっているからだ。あまりに残念だ。妙に過剰な反応が、映画を見る目を曇らせる。もう一度、園子音という監督「が」作った「作品」を、全身で感じ取りたい。
これは必見。あまり映画を観ない知り合いたちが絶賛していたのだけど、実物を観て深く納得した。
愛のむきだし(2008)
敬虔なクリスチャンの家庭に育ったユウは、ある出来事を境に神父の父に懺悔を強要され始める。父の期待に応えようと、懺悔のために毎日罪作りに励むうちに罪作りはエスカレートし、いつしかユウは女性ばかり狙う盗撮魔となっていた。そんなある日、運命の女ヨーコと出会い、生まれて初めて恋に落ちるが…。
この作品を今まで見ていなかったことに心から後悔している。なんという映画。あまりに濃密で、あまりに情感的。薄められた空気から匂いたつ、そのしじまのような、たとえばフランスの伝統的な、愛についての作品であったり、それに類した最近の作品群とは質を異にしている。そう、映画とは「作る」ものだったのだ。写実派とは一線を画すスタンスで、園子音監督は本作を生み出した。セリフが、まさに太い釘のように容赦なく突き刺さってくる。前半はエンタテインメント、後半が社会への主張。なんとまっすぐな言葉を投げつけるのか。まっすぐに言葉を投げつける術すら、我々のほとんどは知らない。彼は登場人物を演じる人々に渾身の演技を求め、作品へと向かわせる。彼らの体から、口からほとばしるエネルギーの塊は、狙いを定めて振り下ろされたハンマーのようにこちらへ向かい、そして私はさんざんに打ちのめされる。
本編では新約聖書の「コリント人への第1の手紙」13章があげられる。この詩句は私の最も愛する作品、クシシュトフ・キェシロフスキの『トリコロール 青の愛』でも歌詞にされている。ヨーコ(満島ひかり)はユウ(西島隆弘)に向かってそれを一気に謳うのだが、その向かう先に居るのは、実は観客/私であった。彼女の見開いた強い瞳に気圧されて涙があふれる。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
(『聖書 新共同訳』より)
思うに、彼の作品は緻密に計算されて作られているのだな、と感心してしまう。ほとばしるエネルギーを込め、食傷にならぬよう細かな配慮によって237分が刻み通される。この長さで、私は何度も観たいと、即座に感じた。多くの作品では、もし2度目を観ることがあっても前半で気が萎えてしまう。園監督は、複数の視点から出来事を思わぬ切り口で数回にわたって映し出す。登場人物のそれぞれに物語、ドラマがあり、ある種の深淵をそれぞれが持つところまで描き出す。ゆえに作品は作品としての魅力、リアリティを帯びるのであり、同時に作品としての分析的関心をも呼ぶことになる。そこでは明らかな演出さえも違和感なく、その場を作り出す効果的なツールとして役割を発揮する。役者の力もまた、そこに貢献しているのだろう。
ありていなリアクションではあるが、ユウが初めてサソリとしてヨーコに出会ったときに口をパクパクさせる。このコメディかリアリティか、というギリギリのバランス感覚は素晴らしい。このバランスが全編通して貫かれているからこそ、面白いのだ。何度観ても飽きない作品は、不思議な魔力を持っている。『愛のむきだし』という「作品」――この映画にこそ与えられるべき呼び名――は、脱会者のための手引きとして、まさにバイブルとして片手に持たれるべきである。
しかしどうしても、この年になると作中のメッセージや設定に共感したり、反発したりする度合いが強くなる。自身の考えが妙に固まってしまっているからだ。あまりに残念だ。妙に過剰な反応が、映画を見る目を曇らせる。もう一度、園子音という監督「が」作った「作品」を、全身で感じ取りたい。
これは必見。あまり映画を観ない知り合いたちが絶賛していたのだけど、実物を観て深く納得した。
by murkhasya-garva
| 2010-05-06 00:32
| 映画