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by murkhasya-garva
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RCS:黒沢清・西島秀俊、合格ナイト

と、言うわけで本当に気が向いたときのグダグダ日記になってしまったけど、まだまだグダグダやりますよ映画評?ブログ。
今回は、京都みなみ会館で1/17に行われたオールナイト「黒沢清・西島秀俊、合格ナイト」の感想。今回は一つ一つをあげるのではなく、全体評として。


上映作品:「神田川淫乱戦争」「ニンゲン合格」「ドレミファ娘の血は騒ぐ」「LOFT」

全評:ナレーションのない作品が全て。黒沢清監督の潔さなのか、ナレーションに頼らないのは努力の結果とも見ることができる。大きなテーマを語るときに、人はつい言葉に頼りたくなるものである。「言葉」とは簡略化の最も簡単な方便である。それを非言語的な表現でもって伝えようとするとき、そこには多大な努力が求められる。さらに、その上で表現者はまた、自分の持つ傾向・偏向に無自覚なままである場合が多い。何らかの無責任な倫理の押し付けや、抑圧への不満の発露として用いられた表現物は、また作者のそういった浅薄さを強く感じさせることになる。その点で、黒沢清監督の作品は、基本水準をとうに超えている。

各作品にみられる共通点は、思考や思想、そういった定式化されたものへの独特な態度である。「神田川淫乱戦争」では、性行為が軽やかなバロックに乗り、「ドレミファ娘の血は騒ぐ」では、林の脇で行われる劇中劇の撮影過程のような場面でプラカードを持った青年が不思議なメッセージ――まるで自問自答のような――を掲げる。まさかこれらの唐突で可視的な表現が本作そのもののメッセージだとは到底考えにくい。「LOFT」では、作品それ自体が既存のパターンに挑戦しているようなものである。

こういった当り前とされている表現形式を、少し位相をずらして見せる、という方法が観客に違和感として伝わる。もし違和感としてしか残らなければ、それは印象評論の域を出ない「面白い/面白くない」の二分化、あるいは「意味が分からない」「ベタすぎる」といった皮相な表現批判にとどまることだろう。しかし、これが作り手の思惑であれば…黒沢作品はその可能性がとても大きい。虚飾を剥ぎとられた表現に従来の視点を超越した視点、すなわち上位構造に目を向けてみることが必要となる――「なぜそのような言動をとったのか」「なぜそう表現せざるを得なかったか」「その結果は、共通点は、テーマは何なのか」。黒沢氏の作品は全体を通じて、更に考えることの余地を十分に残す、というよりそう考えなければ真意を汲み取ることのできないものが多分にあるのだ。

さらに、そういった背景――つまり既存の表現を用いた異化作業を観客に求める、という姿勢――があるゆえに、多くの場面で既視感を覚えるカットが様々なところに見られる。特に「神田川淫乱戦争」は顕著であった。赤いワンピースを着た女性は、ライター、タバコ、ラジオ、そして望遠鏡さえも捨てる。この70年代のフランス映画を彷彿とさせる無意味で軽妙な運動の連続(しかも、ラストには川向うから助け出した浪人生、そして主人公さえも屋上から転落してしまうのだ!もちろん、その後のエピソード回収は行われず、散文詩のようにふっつりと終幕を迎える)。作品自体が、否定や違和感を通じてテーマを見出すためのものであるゆえ、オリジナリティに重きが置かれないのだ。しかも、その後の作品、たとえば「ニンゲン合格」ではそれを超えて登場人物の心情の機微を絶妙に織り込んでいる。西島秀俊演ずるユタカの何気ないたたずみ、足取りは14歳のままで留まった幼さを強く感じさせる。乱暴な見方をすれば、彼自身が異化作業の対象となっているのである。そこに見出される“ニンゲン”として“合格”する在り方も考えることができるだろう。

ナレーションや一人語り、BGMを欠いた作品からは、一見乾いた印象を抱くかもしれない。そこには、人々の姿が淡々と描かれている。感情の余分な喚起が徹底的に排されている。しかし、それでもなお湧き立たざるを得ない作品の余情。そこにこそ黒沢監督は賭けているのではないだろうか。
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by murkhasya-garva | 2009-01-20 02:22 | 映画